くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十話

2019-03-11 16:20:34 | はらだおさむ氏コーナー

歴史を歩く

 

 このところNHKの「ブラタモリ」をよく観る。

 地形の成り立ちをタモリの博識にかぶせて物語を展開させるなど その映像がまた楽しい。

 一月にわがまち 宝塚の紹介があった。

 案内は宝塚の歴史家 直宮憲一先生。

日本考古学会会員で遺跡の発掘調査の専門家であるが『宝塚の歴史を歩く』の著書もあり、この十年余わたしたちの「古文書を読む会」の分科会・読書会のアドバイザーを依嘱、2010年の秋からは春秋二回「宝塚の歴史ウォッチング」のご案内もしていただいている。

「ひとが歩いて 道になる」といわれるが、宝塚市内の巡礼街道、有馬街道、西宮街道の辻角にはまだ道標もかなり残っており、むかしの集落ごとに

庚申塔も残り季節の花が供えられている。それらはクルマで通りすぎると全く気の付かぬ路傍や電柱の陰、ときには住宅の庭の一隅にあるが、たとえば安倉南4丁目の道標は「右ハあまかさきみち 左ハいたミノみち」と読め、裏面に

寛文八年申二月吉日と刻まれている。いまから332年前のものである。

 売布(めふ)神社からの坂道を下った先の家の塀にふたつの道標が重なって残っている。

 ひとつは「これよ里にしへきよし くわう志ん道□けあり」と書かれていて

ご丁寧に「志」に濁点がある。□は字が磨滅して見えないが、この二行は次のように読める。「これより西へ清 荒神道け(抜け)あり」つまりこの坂道を上っていくと清荒神への「抜け道」=近道ですよという案内の道標となる。

 もうひとつは正面に「すく」右「荒神道」左「すく中山」、この「すく」は「直ぐ」で、真っすぐ右へ行けば清荒神、左(東)へ行けば中山寺という方向を示しているが、中山の字の上にもうひとつ「すく」とあるから、距離的に見ても一キロ強の道のりのこと、方向に時間も掛けているのかもしれない。この道標 中山寺へはいまもほぼ真っすぐで通用するが、清荒神へはこの坂道の上にあった池がいまから数十年前埋め立てられて小学校になったから昔の池堤より数十メートルは迂回して、更に高速道の陸橋を越えて従前の道につながる。そして細長い池とさらに我が家の近くの「かにいけ」(ザリガニでもいたのでしょうか)に沿って右折して進むと清荒神の参詣道につながる「抜け」となる。

 

 五月になっても天候不順が続き 寒暖・晴雨の相定まらぬ日が続いた。

 宝塚市内もほぼ一巡していまは近郊篇と称して近接の「歴史ウォッチング」をはじめて三年目、「晴れ男」のわたしも今回は催行日を迎える三日前まで天気予報に振り回された。「曇りのち小雨」から「終日曇り」、その翌日は「曇りのち晴れ、最高温度21度」と出てよっしゃ!と活きこみ、当日の朝「終日晴れ」は結構だが、「最高温度23度」にややガッカリ。

 今回はJR北伊丹駅に集合、こんな駅あったんかいなとわたしも三月の下見ではじめて下車した次第だからと少し案じたが、二十余名、何とかセーフで出発。江戸時代は鋳物師の集落として栄え、「いもじの天神」とも称される臂岡(ひじおか)天満宮を皮切りに、今回も直宮憲一先生のご案内で歩む。

 「伊丹廃寺」は道路を挟んで自衛隊の伊丹基地の南にある。正確な名前を調べたら陸上自衛隊中部本部総監部とあった。広報誌名が「飛鳥」とあって所属の音楽隊などの公演なども記されている。わたしも二~三年前切符(招待券)が余ったからとコーラスの仲間に誘われてホールに出かけたが、メンバーはほとんどが各地の音大の出身者、留学経験者もいるプロ級の音楽隊であった。

 昭和33年に耕作地の出土品から発掘調査の結果、飛鳥式の伽藍配置が発見され白鳳時代のものと認定されているが、鎌倉時代後半に廃寺となった由。「摂津名所図会」では「霊林寺旧跡」と記されている。

 歩行計ではすでに2キロを超えている。

 「昆陽池」は行基菩薩の開発で周辺のため池も含めこの伊丹台地の灌漑に果たした役割は大きいが、最後に訪れた「昆陽寺」も行基の設けた「施業院」がベースになっている由。

 伊丹といえば荒木村重となるが、かれが伊丹にとって功績があるのか、昆陽寺も含め多くの神社・仏閣が彼の乱で破壊・消失している。

 帰路は尼(崎)宝(塚)線・池尻南口より阪神バスで宝塚へ。

 この「池尻」はむかし昆陽池の尻、そして武庫川の支流との接点ともなって

いて百姓にとっては流水に泣かされる歴史が積み重なっているが、6キロも歩けば疲れ果てた。

 

 「ブラタモリ」の「天城越え」は二週、初めから終わりまで石川さゆりのメロディがベースになっていた。

 ♪・・・くらくら燃える火をくぐり あなたと越えたい天城越え♪

 発売から30年 わたしも何回か口ずさみ 声を張り上げたときもあっただろうが、いまでもわたしの記憶のなかで燃え尽きないのは64年の春節明けに

香港の羅湖から板橋を渡ったとき、中国領深圳でわたしを迎え両手でわたしのもろ手を包んでくれた、お下げ髪の解放軍兵士の「よくいらっしゃいました」の一声である。

 あれから半世紀を越え あの人ももう70歳は過ぎているだろうが、この年月 中国は大きく変わり、わたしもあのひとも老いたが、その歩んできた時間も大切な歴史の積み重ねである。

 あなたとどこへ越えたいか!?

(2018年5月23日 記)

久しぶりの「はらだ氏からのメール」昨年からの「徒然・・・・・が 日々徒然に代わっての登場」

お元気でご活躍のご様子何よりでした。少しずつですがUPしていきますのでよろしくお願いします。

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十一話

2019-03-11 16:14:42 | はらだおさむ氏コーナー

ホタル

  マハティールさんが15年ぶりに首相に復任された、92歳。

 その高齢にもかかわらず、建国以来はじめての政権交代を成し遂げ、意気軒高。まさに人生百年時代の快挙であり、70歳定年制を望まれて止む無く引退した日本の政治家の誰それは 歯ぎしりをされたことかもしれない。

 

 あのとき。

 クアラルンプールの伊勢丹の店内で、現役の首相が一人の付き添いをエレベーターのところにとどめ、わたしたちと話をしていた店長のそばに来られてふたことみこと、私たちとも握手を交わされ店内を一巡。来店の顧客にも声をかけ、幼児を抱き上げ母親とも話を交わして、付き添いを促して電梯に消えた、その間十数分か・・・。店長は週一ペースか、よく来ていただいています、気にかけてくださっていてありがたいことです、とのことだが、その気さくな物腰に感服した。

 

 そのむかし シンガポールに旅したとき日帰りでマレーシアに入境したこともあるが、昼食時に時折顔を合わす同じビル内のマレーシア観光事務所の所長にそのことをつぶやいたのが藪蛇になり、最近の我が国を見てくださいと懇望され仲間を募り出かけたのがいまから20年前。なんともカビくさいおはなしで恐縮だが、行くとなると侃々諤々 そのむかし東インド会社がときの酋長から譲り受けた?というペナンに第一歩を印し、マレー鉄道で首都クアラルンプールに向かうことになった その五泊六日の旅。

 ペナンのジョージタウンに二泊。

一七〇年間のイギリス統治の後独立したマレーシアのなかでも当地は華人住民の比率が高く、香港のリゾート地を思わせる。

 対岸のバタワース駅から始発のオリエント急行でクアラルンプールまでの6時間余り、途中10回ほど停車したがひたすら高原地帯や谷間を走り続けた。さもありなん 元は山あいで採取したゴムや錫を港まで輸送するために敷設されたもの、いまはバンコクやシンガポールにも通じている由。 

 クアラルンプールに到着後、お伺いしたのが冒頭のシーンになるのだが、ここで伝授されたご当地豆知識は次のようになる。

 人口は日本の五分の一、マレー人58%(イスラム教)、華人31%(仏教、道教、キリスト教)、インド人10%(ヒンズー教)の、マレー人主体の

三民族・多宗教国家であることは薄っすらと感じ取れたが、スルタンを元首とする連邦制立憲民主国家であるとは初耳であった。

 民族・信教により祝日・休暇日が異なり、小売業としてはその人事管理が一番頭痛の種とは・・・国民祝祭日の定まった国から見ればなかなか実感に乏しいが、店長もいろんな民族の祝祭日が重なって従業員の三分の一以上が有給欠勤に遭遇してはじめてその人事管理の難しさを痛感された、とか。

 

 翌朝 スルタンの王宮を訪ねた。

 ホテルから車で十数分 数年前には新王宮に移転して、いまは外観のみの見学になっている由だが、当時は門も開放され邸内の芝生で寛ぐスルタン家族の姿が垣間見られた。

 言ってみれば連邦制とはむかしの小王国(首長国)の集合体~13州の内スルタンのいる9州の互選が建前であったが、いまは五年任期の輪番制で国王を選出、退任すると王宮から離れて自州に戻る慣習になっている由。来てみなければわからないシステムである。

 マハティールさんも下院で首相に選任され現国王のムハマド五世の認証を得て就任されている。

 

 一夜 郊外の“ホタル観光”に出かける。

 ときは2月の初旬だがそこは常夏の国 二千種のホタルが毎夜さながらクリスマスのイルミネーションのように照り映えていたが、小型船で約30分上流から下流へと往来しながら・・・その華やかさには疲れてしまった。個体の寿命は3ヶ月ほどのことだが、日本の蛍狩りのような雅趣はない。ついついアニメ「火垂るの墓」の冒頭シーンが瞼に浮かび、思いはこの地でも展開されたあのときの虐殺事件につながる。 

                                    マハティールさんは前期20余年の施政のはじめには“ルック・イースト”を唱道、恩讐を越えて日本との経済交流に力を入れ、ときには日本の対外姿勢に苦言も呈されてきた。

  先日東京で開催された第24回国際交流会議「アジアの未来」(日本経済新聞社主催)の基調講演にマハティール首相が登壇、「日本や韓国、中国から多くのことが学べる」と語り、「マレーシアは小国。米国ほどの大国が貿易を制限する中、小国が完全な自由貿易を行うのは難しい。ゴルフをプレーするとき、実力に応じてハンディを付けるように、立ち上げ期にある産業には一定の保護を与えることが公正な競争に必要だ」と述べておられる(『日経』6月11日夕刊)。

 

  あのとき マハティールさんと握手をしてから20年近くになる。

  あのとき 彼が着ていた長袖のシャツ・バテイックは現地ではフォーマルなよそおいだが、シルクのあのひんやり感は夏の暑さを忘れさせる。

  今年は久しぶりに取り出して、夕涼みに着てみよう。

  あの池のそばの竹藪付近で ホタルのサインが見えるかもしれない。

 

                      (2018年6月13日 記)