歴史を歩く
このところNHKの「ブラタモリ」をよく観る。
地形の成り立ちをタモリの博識にかぶせて物語を展開させるなど その映像がまた楽しい。
一月にわがまち 宝塚の紹介があった。
案内は宝塚の歴史家 直宮憲一先生。
日本考古学会会員で遺跡の発掘調査の専門家であるが『宝塚の歴史を歩く』の著書もあり、この十年余わたしたちの「古文書を読む会」の分科会・読書会のアドバイザーを依嘱、2010年の秋からは春秋二回「宝塚の歴史ウォッチング」のご案内もしていただいている。
「ひとが歩いて 道になる」といわれるが、宝塚市内の巡礼街道、有馬街道、西宮街道の辻角にはまだ道標もかなり残っており、むかしの集落ごとに
庚申塔も残り季節の花が供えられている。それらはクルマで通りすぎると全く気の付かぬ路傍や電柱の陰、ときには住宅の庭の一隅にあるが、たとえば安倉南4丁目の道標は「右ハあまかさきみち 左ハいたミノみち」と読め、裏面に
寛文八年申二月吉日と刻まれている。いまから332年前のものである。
売布(めふ)神社からの坂道を下った先の家の塀にふたつの道標が重なって残っている。
ひとつは「これよ里にしへきよし くわう志ん道□けあり」と書かれていて
ご丁寧に「志」に濁点がある。□は字が磨滅して見えないが、この二行は次のように読める。「これより西へ清 荒神道ぬけ(抜け)あり」つまりこの坂道を上っていくと清荒神への「抜け道」=近道ですよという案内の道標となる。
もうひとつは正面に「すく」右「荒神道」左「すく中山」、この「すく」は「直ぐ」で、真っすぐ右へ行けば清荒神、左(東)へ行けば中山寺という方向を示しているが、中山の字の上にもうひとつ「すく」とあるから、距離的に見ても一キロ強の道のりのこと、方向に時間も掛けているのかもしれない。この道標 中山寺へはいまもほぼ真っすぐで通用するが、清荒神へはこの坂道の上にあった池がいまから数十年前埋め立てられて小学校になったから昔の池堤より数十メートルは迂回して、更に高速道の陸橋を越えて従前の道につながる。そして細長い池とさらに我が家の近くの「かにいけ」(ザリガニでもいたのでしょうか)に沿って右折して進むと清荒神の参詣道につながる「抜け」となる。
五月になっても天候不順が続き 寒暖・晴雨の相定まらぬ日が続いた。
宝塚市内もほぼ一巡していまは近郊篇と称して近接の「歴史ウォッチング」をはじめて三年目、「晴れ男」のわたしも今回は催行日を迎える三日前まで天気予報に振り回された。「曇りのち小雨」から「終日曇り」、その翌日は「曇りのち晴れ、最高温度21度」と出てよっしゃ!と活きこみ、当日の朝「終日晴れ」は結構だが、「最高温度23度」にややガッカリ。
今回はJR北伊丹駅に集合、こんな駅あったんかいなとわたしも三月の下見ではじめて下車した次第だからと少し案じたが、二十余名、何とかセーフで出発。江戸時代は鋳物師の集落として栄え、「いもじの天神」とも称される臂岡(ひじおか)天満宮を皮切りに、今回も直宮憲一先生のご案内で歩む。
「伊丹廃寺」は道路を挟んで自衛隊の伊丹基地の南にある。正確な名前を調べたら陸上自衛隊中部本部総監部とあった。広報誌名が「飛鳥」とあって所属の音楽隊などの公演なども記されている。わたしも二~三年前切符(招待券)が余ったからとコーラスの仲間に誘われてホールに出かけたが、メンバーはほとんどが各地の音大の出身者、留学経験者もいるプロ級の音楽隊であった。
昭和33年に耕作地の出土品から発掘調査の結果、飛鳥式の伽藍配置が発見され白鳳時代のものと認定されているが、鎌倉時代後半に廃寺となった由。「摂津名所図会」では「霊林寺旧跡」と記されている。
歩行計ではすでに2キロを超えている。
「昆陽池」は行基菩薩の開発で周辺のため池も含めこの伊丹台地の灌漑に果たした役割は大きいが、最後に訪れた「昆陽寺」も行基の設けた「施業院」がベースになっている由。
伊丹といえば荒木村重となるが、かれが伊丹にとって功績があるのか、昆陽寺も含め多くの神社・仏閣が彼の乱で破壊・消失している。
帰路は尼(崎)宝(塚)線・池尻南口より阪神バスで宝塚へ。
この「池尻」はむかし昆陽池の尻、そして武庫川の支流との接点ともなって
いて百姓にとっては流水に泣かされる歴史が積み重なっているが、6キロも歩けば疲れ果てた。
「ブラタモリ」の「天城越え」は二週、初めから終わりまで石川さゆりのメロディがベースになっていた。
♪・・・くらくら燃える火をくぐり あなたと越えたい天城越え♪
発売から30年 わたしも何回か口ずさみ 声を張り上げたときもあっただろうが、いまでもわたしの記憶のなかで燃え尽きないのは64年の春節明けに
香港の羅湖から板橋を渡ったとき、中国領深圳でわたしを迎え両手でわたしのもろ手を包んでくれた、お下げ髪の解放軍兵士の「よくいらっしゃいました」の一声である。
あれから半世紀を越え あの人ももう70歳は過ぎているだろうが、この年月 中国は大きく変わり、わたしもあのひとも老いたが、その歩んできた時間も大切な歴史の積み重ねである。
あなたとどこへ越えたいか!?
(2018年5月23日 記)
久しぶりの「はらだ氏からのメール」昨年からの「徒然・・・・・が 日々徒然に代わっての登場」
お元気でご活躍のご様子何よりでした。少しずつですがUPしていきますのでよろしくお願いします。