夫はむしろ、子どもが自分を慕ってくれることに違和感さえあったのかもしれない。だから、いつも私に確認するのだ。
「俺は子どもに嫌われているのかな」
と。私は夫と、ちょっとしたことで、意見が合わないと、
「親がわるいからね」
と、言ってやったことがある。これは、私の普段ため込んでいる不満をぶつけているのであるが、私が言うときは、夫の機嫌が良いのをみはからっているので、
「なんやと?」
と、一言反論されたくらいで、夫はまた、テレビに夢中になっていたようだった。私のせめてもの反抗が、これであり、また、私自信に向けられた言葉でもあった。そう思うことで、夫を怨む気持ちをごまかしてきたのである。
そんな我が家から、怒ると怖い雄太の父親が居なくなると、私の長男の育てなおしが始まった。生まれてすぐなら、だっこするだけでいいのだが、今や大きくてそれは無理だ。だから、彼の願望は聞けるだけ聞いてあげた。しかし、数万円するおもちゃが欲しいとせがまれたとき、さすがに高すぎるといって数回拒んだのだが、それでも欲しいと言われ、しぶしぶ購入してあげた。しかしお店のレジのおじさんに、手渡されたそれを抱きかかえ、笑った雄太の顔は、今だ私の心を癒している。
だが、ハムスター事件が勃発したときは、思いがけず雄太を傷つけてしまった。雄太の大好きなハムスターは10匹にもなり、お互いが大きくなり、二つの小屋の中で喧嘩が始まったのだ。私は思い余ってペットショップに預けたのだが、自宅に帰ってきた雄太は、ハムスターが居ないとわかると、私の言葉が耳に入っているのかいないのか、玄関で泣き崩れ、1時間以上も起き出そうとしないのだ。根負けした私は雄太と一緒に、せっかく預かってくれたペットショップに舞い戻り、店主に事情を説明した。店主は、迷惑がることもなく、親切に対応してくれた。そして、
「10匹を飼うのは、ハムスターにとって可愛そうなことだから、2匹だけなら持って帰っていいよ」
丁寧に説得する店主に雄太は素直に応じ、自分の育ててきた10匹のうち、雌の2匹だけを吟味して、自宅に連れ戻したのだった。だが、しばらくしたら、またハムスターが子どもを産んでいるではないか。どうやら雌同士であることを確認してくれたはずの店主の、判断ミスらしかった。おかげで雄太は大いに喜び、自分の部屋で再度多頭飼いをしていたのであるが、ある晩こんなことがあった。2階の自分の部屋で寝ていたはずの雄太が1階に降りてきた。ここ数日咳をして、喘息が始まっているのはわかっていたのであるが、
「息ができなくて、死にそうになった」
と言う雄太を呆れて笑うほかなかった。結局ハムスターの小屋を、自分の部屋から廊下に出すはめになった雄太。私は、少しは懲りたか、と思ったがそうでもなかった。自分の部屋で、毎晩耳元で聞こえていた回し車の音が聞こえなくなり、
「寝付くのが遅くなった」
といって、家族をまた笑わせてくれた。
雄太が中学1年にもなって、やっと、父親から解放される訳だが、それと同時に何度注意しても治らなかった火遊びや、金遣いの荒さは徐々に無くなっていった。それは、親以外の雄太を取り巻く社会が雄太の心を満たし育ててくれたからとも言える。
雄太が高校生の頃、盛岡に行ったらしいとわかるが、数日は帰宅せず、学校を無断欠席することがあった。であるから、私が姉といっしょに真冬の雪深い中、2時間かけて迎えに行ったことがあった。雄太を乗せた帰りの車のなかで私の姉は、友達が帰してくれないからでは。という。だが、私にはわかる。
「友達のせいではないだろう?自分が好きで友達とずっといたくて仕方ないから帰ってこないのだろう?」
そういうと、
「ふっ」
と、息子は笑ってみせた。私はなぜか、数年前高額なおもちゃを買ってあげたときの、彼の笑った顔を思い出した。
それにしてもどうやら血は争えないらしい。私の高校時代も、友人と遊んでばかりいたのを思い出す。普段は二人の女友達と一緒にお弁当を食べ、この二人の家に交互に、外泊しあっていた。この女子二人の都合が悪い時は、悪友の男子らと、中学まで一緒の女の子との、4人で遊んでいたのだから、暇を持て余したことが無い。自分にとって居心地の良い友達と一緒にいるのが、永遠に続くような錯覚にも陥いり、その後訪れる人生の分かれ道がまっているのを、頭から否定して生きていた学生時代であった。
かたや私の小学生時代は暗い時代であったな。特別仲の良に友人もなく、口数も少なかった私は、一人で過ごすことが多かった。どこか根暗な子どもであった。そのせいか、クラスの子やら、先輩にいじめられていたこともあり、自分に自信がもてないでいた。誰かに嫌なことをされれば、「やめて」と多少の反抗をしてみせるが、相手はわんぱく盛りな男子たちだ。反省してくれるわけがない。感情と感情のぶつかりあいが、子どもの成長に欠かせないものだと、その行為が許される時期であると、今だからわかるのだが、自分の感情に押し流され、感情をむき出しにすることが恥だと考え、必死に自分を押さえ込んでいた幼少時代であった。そんな私にも、運命の女神はいつからだったのだろう、微笑んでくれていたのは。
私が5年生になったときだ。新しく赴任してこられた、恰幅の良い男性の太田先生が、私たち14人のクラスの担任となった。太田先生は、俳句や短歌が得意な先生で、私たちにもそれを教えてくれた。私たちは俳句、短歌をつくっては、先生に無記名で作品を提出した。そしてその中から先生が選首して、佳作から特選までを皆に披露するのだった。
週に何度も作品を作らされるから、頭を絞っても出てこないと悩むクラスメイトをよそに、私はすらすらと、2つも3つも作り、先生から特選をもらわなかった日がほとんどないくらい、得意になっていった。これは、私の根暗さと、誰もいない放課後の図書室がマッチして、先生や親がいうところの本の虫であったからに違いない。他愛もない俳句の授業なのだが、勉強はからきし駄目な私が初めて心から楽しいと思えた小学校の授業であった。そんなこんなで一年が過ぎ、私たちが6年になって、しばらくしてからの事。もともとユニークで、誰にでも平等で、校内で人気№1の太田先生だったから、結果がでたことなのだろうけれど。
5年生からもちあがりした太田先生が、普段通り教壇に立ったかと思ったら、一言。今も鮮明に蘇るその瞬間。
「これからは、女子は男子に、君づけで、男子は女子に、名前でなく、名字にさんをつけて呼ぶようにしなさい。」
その一言におそらくはクラスで私一人が戦慄を覚えた瞬間だ。「しなさい」と言ってはいるが、決して威圧的でない、説得に近い普段通りの言い方だ。動揺はしてみせるクラスメイトたち。それでも、大好きな先生がそういうから、従うのが当然と捉える至って素直な田舎の子らなのだ。太田先生は、普段私たち女子生徒に、名字にさんをつけて呼んでいた。それを同じように男子生徒らに強いた訳であるが、私にとってまさにそれは青天の霹靂!飄々とした顔で教壇に立つ太田先生の顔をまじまじとみては、この現実を現実ととらえてしかるべきか否か、私の心臓はバクバクした。
実は当時、私はクラスでただ一人、男子からあだ名で呼ばれていたのだ。名前にアがつくから、アンパン。それが転じてクソパンだ。嫌だと思でも、そう呼ばれるから仕方ない。
だがこの日以来、アンパンもくそパンも完全に封印され、奴隷から女王様にでもなったかのごとく、私は〈さん〉付けで男子に呼ばれ始めたのだ。しかし、本当の奇跡はそれからしばらくしてのことだ。私への時々気まぐれに発生していた〈からかい行為〉が、いつの間にか無くなってしまったのだ。だって私は女王様になったのだから。と、冗談はさておき、私に起こったこの奇跡は、たまたま起こった現象に過ぎない、と、これまで思い続けてきた。だが、この大震災を経験し、こうして回想するなかで、なんとも愚かな私にやっと悟れたこと。あれは太田先生が必然的に起こした私への奇跡の贈り物であったのだ。
私たちクラスはそのまま、地元の中学に進学し、その頃になると、私はなぜかクラスで一番というくらい、明るい、うるさい、そして生意気な生徒と化していた。
中学の3年間は、これまた校内の生徒の中で1番人気の小山田先生という男性が担任であった。なんとも幸運な私たちだ。この先生は、絶対というほど常に冷静であるが、とても明るい先生であった。私たち生徒の、良きお兄さん的存在であった。ある時、同級生の男子数人が何か悪さをして、教頭先生にこっぴどく叱られていた。教頭先生のお小言が1時間以上にもなった時のことだ。
「それくらいにしてはどうでしょうか」
と一言、冷静沈着な小山田先生が割って入ったのだ。私はそれ以上の言葉を発するのかと心配になり、先生の顔をまじまじと凝視してしまった。しかし普段と変わらない先生の態度。この一言で教頭先生は、すぐに男子らを解放してくれた。そして教頭先生は小山田先生と一緒に職員室に戻った。それから1時間以上も教頭先生から、ご指導を享ける小山田先生。私たち同級生は、職員室の戸に、耳をくっつけて、中の様子を窺がった。
「まだ言われているよ。どうする?」
職員室前の廊下で同級生同士、かがみ込みながら顔を見合わせコソコソと相談するが、どうすることもできない。私はただいつ小山田先生が感情的になるのだろう、いつ切れてしまうのだろう。とそれだけを恐れ心配しただが、小山田先生は愚かな教え子のため教頭先生に頭を下げ続けてくれた。あっぱれだった。
小山田先生は国語の教科担当であったが、黒板に書く文字はいつも力強く、個性的な字であったのが印象深い。授業が始まる前、私たちは相談する。今日は何時ころ、言いだそうか、と。そして授業が始まり、私たちの定刻がきたときだ。
「先生、そろそろ、余談にして」
と私たちは一斉に先生にせがむ。
「これは余談なのだが・・・・」
と、お決まりの文句から始まるのだ。先生の学生時代の、少林寺拳法のクラブの様子や、育ってきた環境、恋愛話、いろんな話をしてくれた。私たちは、そこから、人としての感情、接し方、社会を自然と学ばせられた。特にも私は人生観やら、倫理観を語るにおよび、小山田先生からの影響は絶大である。
この実に飽きない国語の授業は、思いのほか多かった年は、3学期になると、追い上げるのに大変で、教えるほうも必死、教えられる私たちも必死になって授業に食らいついたことも、実に楽しい思い出だ。
心から宮澤賢治を愛する純粋な先生で、あれで世渡りできるのかしら。と当時の私たちが心配してあげていたのだが、今やあと数年で定年を迎えられる立派な校長先生だ。前回のクラス会に招待したときは、小学生の生徒たちと校庭をマラソンしていると窺がった。少林寺拳法の段取りであったはすだから、体力には自信があったろうが、それにしても先生らしい。
当時の中学生児にしてみれば、若い先生方でも、すごく年上の大人に見えていた。しかし今や私の長男は、私の恩師の担任時代の年と大して変わらない。人間性においては雲泥の差があるものの。
今、親になり感じるのは、24,5歳の男性に、当時の私たちは、実にわがままなことを言ってばかりだったなあと思うのだ。それを全て受け止めてくれた先生の器の大きさに、感謝してやまない。
私の生きる力とは、楽しかった想い出の積み重ねに違いなかった。自分をいじめていた先輩は、後になり、違う場所で傷を受けていたのだと知らされ、私は同情した。子どものストレスは、無論子どもの責任ではないだろう。全ては周囲の環境が影響しているのかもしれない。
私の場合嫌な経験であっても、それが実は思慮深くなるきっかけだったかもしれず、ようは経験を活かせることができたことに感謝である。嫌なことは水に流せた私は、それほど深い傷など負っていなかったからでもある。
だが、私の息子、雄太の場合はどうだろう。あいつにとっての苦労は全くもって必要のないものであったに違いない。それでもそれに耐えるため、乗り越えるために敢えて生まれてきたのだろうか。親から受けた傷というものは、それが幼少の頃ならば、なおさら簡単に治せるものではない。それでも、雄太は私という母親に、なぜか優しいところがある。すこしでも母親を信頼できるなら、きっと他人を信用できるであろう。楽しさと癒しと、喜びを求め、社会に出られる勇気はきっと持っているはず。果ては、将来の妻に優しい夫になれるかもしれない。そのためには、社会人となったら、誰よりも順調に、誰よりも幸せに仕事をしていってほしかった。私の願いが成就したならば、私の育児は終了だ。そしてあの日以来続いてきた負のスパイラルが終焉する。
そんな私の気持ちをよそに、雄太はこのご時世の中、せっかく内定していた神奈川のサロンを断ってしまった。3月11日の震災のあと、入社式が延期になり、その間、自分の歩む道を迷い始めてのことだ。とりあえずは東京の友人のアパートにお世話になりながら、バイトで食いつなぐらしい。結局親がしいたレールなんて、子供は無視するのだな。苦労のすべてが悪いわけではない。頭では分かっているのだが、それでも雄太には、この先苦労させたくなかった。でも、きっとうちの長男は苦労するんだ。親は子供が苦労していても我慢して見て見ぬふりをするくらいの根性がないといけないのだろう。結局雄太の人生は雄太のもの。雄太の心は雄太のもの。だから自分の苦労は自分で背負って、これからもなんとか生き抜いてゆくのだろう。
人生まだまだ長い。私の子供なら何があっても大丈夫だと信じている。たとえ世界が敵になっても、いつでも帰る場所は造っといてあげよう。東京へと旅立つ雄太を乗せたタクシーの姿が消えゆくまで、エンジンの音が消えゆくまで、じっと佇み、夜空の星を仰ぎながら、そう思ったのだ。
平成24年2月
東京で一人アパートを借りて、バイトは二つ掛け持ちしてやっと生活できているかという雄太から、珍しく電話が入った。信也と一緒にいたらしく、信也が電話口に出た。どうやらご両親に、考えていた就職先ではないのを責められ叱られたらしく落ち込んでいた。
「人生まだ始まったばかりだから、目の前にある自分ができることをやればいいのだろう」
と伝えた。また
「なにかあったら、雄太と一緒に帰って来いよ」
って冗談ぽく言ったのは、本当は本心からだ。
平成24年6月 1年前
そんな雄太が突然帰ってきたのだ。もうすぐ台風がくるというここ岩手に。一年も見ていない雄太はなんだか急に大人びて見えた。すでに雄太の部屋は姉妹が使っており、居間に座って携帯電話をいじる雄太が暇そうだ。もうすぐ、小学生の下校の時間である。私はためしに頼んでみた。夕方5時30分に、私の代わりに小学生の妹二人のお迎えを依頼したのだ。意外や、すんなり引受けてくれた雄太。小雨が降る中バイクで小学校へ。しばらくして、バイクの爆音。玄関前に出ると、次女の美久がニケツして帰宅した。美久を降ろしたらすぐにまた、小学校へ。そして3女の萌をバイクの後ろに乗せて帰宅。萌は「足がガクガクする~」といいながら、バイクに乗せられた興奮を抑えきれない様子であった。一仕事終えた雄太が次に向かった先が、一人部屋にいたすぐ下の妹、舞子の部屋。今は高校2年生になっている。高校へは行っているはずの妹に
「お前学校いってんの?」と聞く。
舞子「最近行ってないよー」
雄太「プッ。お前馬鹿か」
舞子「いいんだよー。ヒキコ最高ー」
雄太「なんで化粧しないんだよ、高校生なんだから化粧しろよ、気持ち悪い」
舞子「高校なんだからまだいいんだよー」
すると雄太は、またバイクに乗り、出て行ってしまった。が、しばらくすると、またバイク音の爆音が台所にまで届いてきた。玄関を開けると、バイクの後ろに誰かが乗っていた。銀色のヘルメットから長くはみ出た茶髪の髪。か細い二つの腕がヘルメットをはずすと、細く長い足で、玄関前に降り立った。それは私にとっても、また雄太にとっても、一年ぶりに会った、美容師学校当時の同級生、奈央だった。
私は挨拶もそこそこに、居間に座らせると勇んで夕飯を用意した。即席でたいしたものも出せなかったが、奈緒は雄太と二人、きれいに平らげてくれた。食事を終えた雄太は、くわえタバコのまま、突然立ち上がると、隣の舞子の部屋へはいって行った。
「やだよう」
と舞子の叫ぶ声。が、そんなのはおかまいなし、嫌がる妹の腕を兄は無理やり引っ張って、部屋から引きずり出してきた。そしていつの間に用意したのか、奈央の前に置かれた椅子に腰掛けさせた。すると奈央は、持参してきた商売道具を取り出すと、自他共に認める童顔の舞子の顔をメイクし始めた。小学生二人の妹は兄貴に
「タバコ臭い」
と大騒ぎして、それがまた楽しそう。
「またみんなでトランプをして遊びたい」
とも言って、1年前の信也と奈央たちと過ごした震災の時を懐かしんでみせた。だが徐々に綺麗になっていく自分たちの姉を、食い入るように見学しはじめ、だんだんと口数も少なくなっていった。舞子はツケマまでしてもらうと、まるで別人のよう。お人形のように完璧なメイクだ。鏡を見てそれを確認する本人も、まんざらではないらしい。そして舞子は私の要望に答え、メイクアップした自分の顔を、本人の携帯電話でもって写し、私に写メールを送ってくれた。私はそれをすぐに保存し、友人に自慢することにしよう、そう思っての翌日実行した。
舞子のメイクは終り、私もついつい欲がでて、奈央に
「私の髪もちょっと切ってくれない?」
とお願いした。
「本物のはさみがないと切れないかも」
というので、
「それならあるよ」
と、得意げに私の髪切りはさみを出して見せた。普段私が子どもの髪を切ってあげている年期の入ったはさみだ。雄太は
「親孝行だから切れば?」
と、私に加担するも余計なことを言う。
「そうだね」
と奈央。お店では見習い中だからシャンプーしかさせてもらっていないという。それでも美容師学校を出て、真面目に働いている奈央だ。基本はできているし、切らせればとても上手で、それに丁寧であった。
「親孝行しないとね」
と何度か奈央も口にしていたが、私は終始気に留めるそぶりを見せずにいた。私は
「上手じゃない」
と満足げにして我が髪をなでて終わった。
「じゃあ、帰るか」
と雄太が奈央に声をかける。
「お前の家はここだろうに」
と私の言葉にみんな大笑い。夜も更けた頃、おそらくは沢山の友人らの待つ雄太の居場所へと二人が帰って行くのを、みんなで賑やかに見送った。バイクの音もかすんでしまったころ、突然
「お菓子がもっと食べたい」
と舞子が言い出した。では、私と一緒に買い物に行こう、ということになった。舞子はお気に入りのフリルのスカートに着替えると、化粧はそのままに夜中私と買い物に出た。
舞子「久しぶりの外出だ」
私「近くのコンビニに行くのに外出なの?」
舞子「ま、ヒキコですから」
なんとも明るいひきこもりの女子高生だ。自分で自分をヒキコというが、家庭内では、ヒキコではないから、きっとこの先、生き抜けるだろ。学校がすべてでなし、勉強がすべてでなし、ましてやお金や役職も関係ない。だって最後は性格ですから。不登校になってから、子猫を二匹舞子にあずけたが、ちゃんと毎日面倒をみているようだ。猫になにかと声をかけては、可愛がってもいるから、母性本能はちゃんと備わっている。だから私と違ってきっといい母親になるだろう。
雄太と奈央は「親孝行しないとね」と、そういえば言っていたな。本当はとっくに孝行し終わっているのに。親のそばで親の手をかけさせていることが、親孝行だよ。だって子育ては親の本望だから。だから子どもが巣立つときには、いままで私の子供でいてくれてありがとう、といって思い切り、親がからめた太い糸をぶった切らないといけない。それが親の務めであり辛抱強さだろう。私もいつまでも雄太や信也や奈央に執着していては、親として成長しないのだろう。今は目の前にいる舞子ら3人の女に手をやきながら、親孝行してもらおう。私の複雑な心境をよそに、狭いコンビニの中、意気揚々と食品を選んでいる舞子。自慢のミニスカの裾を揺らしながらのその横顔、いつもよりなんだか自信がみなぎっているぞ。大好きなお菓子を手に入れて、スーパー袋を片手に提げ、夜中の町を闊歩する舞子の姿に、キラキラ未来が見えた気がした。
平成25年
舞子 未来を見据えた本人は専門学校に入学を希望し、夏休み返上で学校に通学中。
雄太 東京のアパートで一人暮らす。就職し、今でも信也と交友し、相変わらず自由に楽しく毎日を謳歌している模様。
平成27年現在
舞子 専門学校では、周囲の予想をはるかに超えて、活躍中。なぜかクラス内でトップを争いながら、学生生活をエンジョイしている模様。弁当は自分で作る。が、モットーらしい。
私的には弁当より、自分の部屋の掃除に力を入れてほしいところではある。
雄太 現在東京で飲食店の店長兼料理人をやっている模様。結婚は30歳まではしないらしい。時々我が家に顔を出すことがあるが、依然宿泊せず、お土産を置いたら友人とどこかへ消え去るのが常である。
余談であるが、せっかく舞子が不登校から抜け出して、リア住してよかったよかったと胸をなでおろすことなく、3女が現在不登校中。週に3日くらいは学校に行っていたのが、ここ3カ月、月1回の学校への御出勤。
不登校児との対峙について、私なりに勉強したつもりでいたのであるが、どうやら卒業証書はまだ頂けないらしい。これは私の罪に対しての反省が足りないということでもあろうと思うにつけ、3女の様子は随時掲載予定。