私のおばさん。
私の父親の姉。
85才。
現役の美容師。
昭和をそのまんま映し出す美容院。
大きなヤカンでお湯を沸かして、湧いた湯は、ポットに入れてコーヒーをのむ。また、夜には、湯たんぽを作って、布団にいれて、暖をとっている。
そして、パーマをかけるお客さんには、洗面器に水と、この、ヤカンのお湯を混合させて、髪のパーマ液を流したりするのだ。
腰は既に、既に曲がっていて、仕事のために、お客さんの髪をカットするときは、腰に沢山サポート用にタオルを巻いて、少しは腰を伸ばして立ち仕事をしている。
今年また、姪っ子、甥っ子のこどもらへ、お年玉をあげるからといって、私が今のうちに、預かった。
[
一人三千円だよ、今月は家賃分は仕事出来たからよかったよ。]
と、おばさんはそう言う。
今から、46年前。
私が小学校に上がる頃。このおばさんに、私は鉛筆や、真新しい筆入れなんか、買ってもらっていた。私の親は、貧乏してるから、親の代わりに、このおばさんが、小学校にあがる、姪である私のために、勉強道具を買い揃えてくれた。それは中学に上がるときも、高校に上がるときもそうだった。お年玉も、ずうっと、この、おばさんは、欠かさずくれた。一度も欠かさず。
私の父親は、生活費を母親に渡すことはあまりなかった変人だったから、ましてや子供にお金は回らない。お年玉を親から一度ももらったことはないし、誕生日祝いもしてもらったことはない。クリスマスにケーキを食べたこともない。子供への教育には無頓着な両親だ。でも母親はそういえば、先日長である私の姉の、高校時代のことを言っていた。姉は秀才だったので、余裕で宮古高校に入学して、数学では学年でトップだった時もあった。そんな姉がお昼やすみ、階段でひとり弁当を食べていることを、同じ学校に通う近所の生徒から聞かされた。それを聞いて母親は朝まで枕を濡らしたんだと。
姉は、母親の作ったお弁当が友達の前で広げて見せられないほど、粗末なものだったから、一人階段に座ってお昼を食べていたらしいのだ。母親はさすがに姉にすまないと思ったのか、貧乏さをなげいてか、泣いたらしい。めったなことでは泣かない強い母親なのだが、子供を不憫におもったのだろうな。というか、私なんて幼稚園のころは、お弁当の蓋を開けると、納豆の豆が蓋についてね、それをとりながら食べていたよ。それを中学か高校の頃に、同級生に、あの頃の私のお弁当が納豆だったよね!とつっこまれたが、そうだね。と答えて終わらせたわ。とにかくも貧乏だったな。でも母親はその分私たち子供に、家の仕事を稼がせなかったようだ。あえて。貧しい想いをさせているぶん、家で無理して働かせなかったらしい。親心だな。ま、父親は親心はあまりない。自分中心なので、子供なのだな。それでも両親になんら、不満はなかったよ。自由にやらせてもらって感謝していた。
私が18才のとき。高校を卒業し、東京に、就職するため、田舎を旅立つ日。
実家の庭にあった父親のダンプの車に乗り込むとき、母親は
「電話してくるなよ」
というから、私は「うん」と答えた。母親の言葉の意味は十分理解できていた。
そして、父親のダンプの車で、盛岡駅の前に私が一人降りた。親父は「ここでいいだろう、じゃあな」
と言って、車を走り出させた。
就職祝いにこの美容院のおばさんや、ご近所さんからいただいたお金、数万円と、自分で買いそろえたボストンバック一つ持って、私は、盛岡駅の新幹線の東京行きのホームに立っていた。
あつこ!
後ろからなじみの声がした。おばさんだった。
「お前の親はどうせ、見送らないだろうら自分が見送りに来たよ」
おばさんは東京にいっても頑張れよ、と励まして、そうして私は一人新幹線に乗りこんだ。
おばさんは若いころ、自分の力で美容学校に通って、美容師の免許を取得した。そして独立して自分の店を構え、実家のために、というか、実家にいる弟である私の父親のために、金銭面でサポートし続けてきた。
付き合った人はいたが、正式に結婚したことは一度もない。だから女でも自分の稼ぎのお金をある程度は自由に、自分の兄弟姉妹に分け与えてきた。
いつだったか、私がおばさんに聞いたことがある。
「おばちゃん、おばちゃんの幸せはなに?」
するとこう答えた。
「人に、(何かを)あげること。人にものをあげたりお金をあげて、喜ばれることが自分は幸せなの」
そうなのだ。このおばさんは、自分が節約して節約して、やっと貯めたお金を私にくれたり、兄弟にあげたりするんだ。たまに私がドーナツの差し入れなんか、したら、大変なのよ。
「なに、こんなにいらないわよ。無駄なお金つかうんじゃないよ。持って帰って、子供たちに食べさせろ」って、言って私を叱るんだ。
3.11の震災の時、盛岡も大きな揺れがあった。ご近所でも箪笥が倒れたり、ガラスが散乱していたり、スーパーの食糧置き場の棚が空になったりしていた。テレビでは津波の映像がながれてて。そんなだから、一人住まいのおばさんの家に様子をみにいってみた。
おばさんは、けろりとしていた。世の中の様子は分っているよ、とおばさんはいうが、生活は普段となんら変わっていなかった。
毎年1年分のコメを買い込んであるし、車ははなからないし、裏の畑の野菜がある。戦争時代も経験した人間だからすごいとその時思った。昭和を生きた、物の無い時代を生きた、そして今令和になってもなお、昭和の当初、独立して美容院を立ち上げた時の姿がここにある。
わたしはこのおばさんに育てられて、今も、そだててもらっている。行けば必ずなにか私にあげるものを一生懸命家の中から探して、持たせてくれるんだ。冷蔵庫からプリンやら漬物やら貰ったりんごやら。高いシャンプーや
美容液等等。
私の夫は「またそんなにもらったのか」と嘆く。でも私は喜んで貰うんだ。だって、うちのおばさんは、私がもらって喜ぶ顔がみたいんだもの。それだけがおばさんの幸せなんだもの。擦り切れたジャンバーを平気で今も着ているんだ。人にどう思われようと、自分を貫いているんだ。頑固なんだ。すごーく頑固なの。でもいじわるな性格でないから、あれはあれできっといいんだ。
実家のために、親類のために、そして私のために働いてきた人生だったね、おばさん。
今度の2月にこの店舗兼住宅のお店を引き上げて、実家の私の両親と一緒に住む予定だ。もう少ししたら、仕事もしなくていいよ。でも実家に行っても誰かのためにパーマをかけてあげるんだろうなあ。父親を戦争で亡くして貧乏して育った私のおばさん。苦労させたね。その苦労のおかげでわたしは今のほほんと暮らしているよ。ありがとうございます。