愛の種

 
 猫がいる限り アセンションが止まらない
  

恩師

2018-03-10 08:54:07 | 勝手にコラム
恩師

恩師がいるというのは、その人にとって一生の宝であろう

 と、思うにつけ、私の恩師について、新聞に投稿したので、さらにこちらでも紹介させてもらいたい。新聞には実名をのっけちゃいました。
先生へのシャレと私の心意気でね。



今年8月。盛岡市内は某ホテルにて、恩師の退職祝いをやらせてもらった。今から36年前にもなるのか。私が中学時代の3年間、お世話いただいた担任を、当時の同級生らを参集しての祝賀会である。中学当時10歳も年上の担任の先生はいまだ若々しく、かたや我ら同級生仲間はなぜか老け込んでしまっていて、なんだか年の差を感じない。あの頃はわがまま言って甘えるばかりだったから、今となっては申し訳ない想いである。一人一人なにがしか、しでかした思い出話をも織り交ぜての祝賀会は、結局は先生への36年越しの懺悔でもあった。事の発端はなんであったか思い出せないが、昔を振り返ると真っ先に思い出す。生徒指導の先生に男子数人が長い時間ご指導を受けていた時、私たち外野は不安がっていたところへ、我らが担任の先生が、身を呈して割って入ってくれたことがある。指導中の生徒は帰され、代わりに先生が職員室に呼ばれ1時間以上も上司よりご指導を承っていたなあ。私たち同級生は、職員室の戸の前でうろたえながら右往左往するほかなかった。中学時代の3年の間、私たちに降りかかる火の粉は校内や地域からもあったのだが、先生がそれを一身に受け止め、必要な事だけを抜粋して生徒には一言で済ませてくれていた。宮沢賢治を愛するがゆえだろうか、自分の感情を載せない指導を常にされていた。だから生徒も先生の意を汲もうと一生懸命努力していたように感じる。人として学ばせてもらったのはそれだけではない。「これは余談だが・・・」から始まる先生の話は実に愉快。学生時代の武勇伝やら恋愛劇やら楽しい話で教室は盛り上がるのだ。信頼している先生の体験談は私たち生徒の倫理感も必然的に感化された。いわば、余談から始まるそれは、疑似体験ツールなのだ。先生が示してくれていた生き様は、正に「大人」であり「正義」であったから、背中越しに見える社会は、実に希望と勇気と愛があった。また、先生を信頼しているというクラス全員の想いは最強のチームワークをも生んでくれていた。先生は楽しい思い出を一生懸命作ってくれて、そのために一生懸命支えてくれていた。私たちが中学を卒業して36年の間、道に迷ったとき、弱気になったとき、思い出すのはこの時代。自分を強くしてくれたのもこの時代だと同級生一人一人がそう言った。「我らがヒーロー・〇〇〇先生」と垂れ幕に書いたのは、〇〇中学校の先生が携わった生徒全員の想いである。

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1000字コラム3 「新成人」

2015-03-13 22:11:18 | 勝手にコラム

5月中ごろに携帯電話で見たニュース。2040年の日本人の成人女性の人口が、現在の半分以下になる見込みだというのだ。それもそうだろう、2050年には日本の人口が1億人を切り人口の4分の1が減少する。次世紀からは単に少子高齢化の不安どころか、日本民族の存続が危ぶまれていくことだろう。経済状況が良い方向に向かってきているとは聞くものの、会社運営側が徐々に困り始めているのが、働き手の不足だ。ましてや、2000年生まれの現在中学2年生の子ども達が、いざ社会人となったとき、格段に不足しているに違いない。お役所では男女共同参画を前面に押し出しているが、確かに日本は他の先進国に比べ、それは低い数値である。が、それも民族性とまではいかないが、適材適所であるなら、女性が多い少ないというだけで、職場の善し悪しの判断をされるものではないだろう。今後加速される働き手不足は、否が応でも女性を働き手として、社会の歯車に組み込むことだろう。それによって婚期が遅くなるか、或いは自立する女性が増加していくことに繋がり、まさに日本民族の存亡にかかわってくるかもしれない。
 話は変わって、最近の会社の新入社員への対応が昨今変わってきているらしいのだ。会社がせっかく新人を入れたはいいが、上司や先輩が一度叱っただけで新人が辞めてしまう。なので、注意を促すやり方で、退社させないように対応しているというのだ。このような現象に対して強く反応するのは、バブル時代を経験した人たちだ。すぐに辞めてしまい、叱られ慣れていない新人などもってのほかと。だが、はたして叱る行為そのものを肯定してきた自分達こそに欠陥があったから今に至るのではとも考えられる。いつの時代も、世相を表す一つの方法に、「今年の新人はこのような特徴がある」として話題になり非難されること多々ある。さもあらん新人たるものの心構えは、学生時代にある程度欲しいものだ。がしかしだ。社会とは新人だけで成り立つものでなし。新社会人が減少し始め、代わりの人間もすぐに見つかることが無くなっていくなら、会社として、上司として、新人にどう対応し、立派な社会人に成長させてくれるのか。また女性が家庭を持ちながら働きやすい職場としてどうあるのか。新人質よりも会社質が問われ始めていくことは決して悪いことではないだろう。私が20年以上も前に入社した会社はすでに叱らず育てる会社であったが、やっと社会もそこに気付き、成長しはじめていくのだろう。




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1000字コラム 2 「教育とディベート」

2015-03-13 19:39:27 | 勝手にコラム
教育とディベート

ディベートとは討論会のようなもので、ある公的なテーマに対し、肯定派と否定派グループに分けて、お互いの主張を言い合い、どちらが優勢かを競う討論会のようなものだ。昨今ではこれが、低年齢層の小学校にも取り入れられ、全国に普及しつつある。だがここに憂慮すべき点が潜んでいるように感じられる。言葉で相手の意見を論破する方法は、使い方によっては刃となるもの。小学生は中身を重視する前に、勝敗に特にこだわりを持ちたがる。これは一度良いと思い込んだら、結果が悪くても、最後まで正当性を貫こうとしがちで、洗脳を施す方法に有効だともいわれ、また排他的な優生学思考が助長されるきらいもある。まだ情緒不安定で野性的な攻撃性も残っているころに、いきなり相手を論破して、勝つことを身につけたらどうなるだろう。果たして絆(共存精神)は生まれるのだろうか。教育の目的は違うところにあるにしろ、結果として討論での勝敗で勝ったグループはいやがおうでも、優秀の美をかざり相手を平伏させ自己を満足させる。ディベートの達人とは、日常生活ではウィックにとび、自分の力を抑えることのできる人格の高い人であり、そこに到達するのは一握りにしか過ぎず、一握りの人材を育成するために、大多数が間違った手法を使うことで人生の舵とりを失敗してほしくはない。外国では英国や米国が古くからこれを導入し、国民は自己の主張を強く求められるように成長し、自他共に認める世界のリーダーとなった。社会においてはリーダー的な人間を誰もが求めてしまい、だた、それに叶う存在は数奇であり、それでこそ歴史は成り立ってきた。忘れもしない昨年の大震災のとき、店の前、配給の前に整然と並ぶ日本人は理性の塊のようであった。これは幼い頃から「和」を尊ぶ民族だからだろう。震災後しばらくして私は釜石市を訪れたとき、信号機が作動しない大きな較差点で、ドライバー達は、お互いの顔を見合わせながら、譲り合い右折や直進をしていた。いつもなら渋滞でクラクションの一つもありそうなものを、誰もそうしないのだ。このような姿は世界中が驚愕したのだから、私たちの当たり前の行動は、実は当たり前ではなかったらしい。周りの意見を深慮し、最後に補足する立場でもって、世界をどうか一つにまとめる役を、震災を乗り越えようとする日本に求めたいものだ。それは和を尊ぶ未来の日本の社会人にも託したい。
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1000字コラム 1  「エコ時代」

2015-03-12 16:25:22 | 勝手にコラム


今から20年も前、私が二十歳のころ。世はバブル時代。儲かれば儲かるだけ遊んでいたのは、何も人間だけではなかった。そう、政治も企業も浮き足立っていた、エコなど無縁の時代であった。そんな中、私はある企業の会長宅にいた。
 私は岩手の田舎から、東京に本社を構える会社の寮に住込みで働いていた。寮といってもそこは、岩手県では有数の優良会社の会長のお宅である。会長はすでに70歳を超え、その奥様も同じくである。会長のお宅は3階のビルで、1階と2階が会長夫妻宅。で、その上、3階が女子寮とあいなっていた。
 私の女性同期生は4人、それに先輩の3人が、この寮にいたわけだ。夕方5時に仕事を終えると、当番である私は一目散に会長宅に向かう。重たい玄関のドアを開け、まずは「ただ今帰りました」の一声を。ついで靴を脱いで玄関の脇に遠慮がちに並べ、いざ奥座敷手前廊下で正座。目の前のふすまを静かにスライドさせ、両手をついて、2度目の「ただ今帰りました」のご挨拶。追って一番奥からにこやかに会長と奥様が「おかえりなさい」と返してくれた。
 それから私は奥様と一緒に、会長と奥様のお夕飯の準備にかかる。女二人、ざっくばらんな話しもさせていただいたが、この奥様、結婚するまでは箸より重たいものは持ったことがないという噂?を先輩達から聞かされていた。服を着るにもお手伝いさんがやってくれたらしい。それが、うちの会長のお嫁さんになるや、手厳しく旦那様から教育されたようで、今日に至るまでのご苦労は察し余る。
 そう、元お嬢様もうちの会長の手にかかるや、倹約家へと移行し、早何十年。私たち女性社員にとっての、手厳しいお姑さんでもあった奥様である。もちろん私たちが掃除した後は、障子の桟を人差し指を滑らせて、埃をチェックするのは怠らない。「まだ埃があるわよ (ケラケラ笑)」の一言で、再度ハタキをかけることになる私たちであった。
 そんな奥様は台所でも、無駄の無い動きと無駄の無い物の使いかたをされた。私たちにはそれをマスターすることが花嫁修業であった。会長は私たちの今、ではなく未来のために、奥様を遣わされていた。台所に立てば、布巾掛けの棒の一つは、カットされたサランラップが掛けられている。使用済みのラップを、水洗いして再度、再再度使用するために干されているものだ。布巾を洗うには、水を溜めて洗った。スーパーのプラスチックの袋も、紙袋も包装紙も綺麗に畳んで、次回使用時まで備えた。
 だから会長のお宅は、外観は豪勢に見えるが、中はきちんと整頓され、無駄な贅沢品のようなものは一つも置かれていなかった。会長は自家用車を持たず、日曜日には自宅脇の言問橋を歩いて渡り、浅草にあるデパートで、わずかな買い物をしていた。着る物も高級品には程遠く、小奇麗にされている程度で、はたで見ると、ただのご近所の人のいいおじいちゃんである。会長のお給料は毎月会社の役員が封筒に入れて、直接会長に渡されていた。会長はそこから5万円を出して、お小遣いとして奥様の手に渡した。残りは会長のお小遣いと生活費。おそらく会社役員の半分の額にも満たない金額であったはずだ。会長は余分なお金はいらない、生活に困らない程度のお金で十分であるとおっしゃられた。
 堅実な仕事を私たちにさせ、会社が儲けたお金で、事業を拡大、あるいは資材につぎ込んだ。銀行への貸し借りは無しなので、利息の返済はない。社員は半強制的に貯金をさせられ、30歳前後の先輩の数人は預金額1千万を越えていた。会長がつぎ込んだのは人間教育だけであった。
 この会長の会社は現在も日本の産業に貢献されている。不景気な次代になぜ生き延びれたか、それは会長が好景気時代に、次期に必ず来るであろう不景気に備えていたからだ。備えあればこそ、無駄に人材を切らずにすむ。
 私のエコとはケチることだ。ケチケチした生活の中で、楽しみを見出している。私にとって、今さらと感じるエコフィーバーだが、今や政治も公然と叫ぶ時代になったことを心の片隅で一人安堵している。大事なのは自分たち人間が生かされているという自覚。生かしている地球に慈愛を感じることで、自然とエコし始めるのではないだろうか。
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