友人の写真が、凄いオーブなの↓
オーブの中に同じ子がいたよー
動画だと、このあと、斜め左下におりていっちゃったわ
私は、激しい雷が鳴り響く日に北海道沙流郡平取町で生まれました。両親は雷が落ちたときに生まれた私を雷の子カンナカムイと思ったようです。雷はものすごいエネルギーがあり、落雷したら火災も起こします。だから両親は、その火の手を恐れて、一度私を外に捨て改めて東の窓から入れるという、人間の子として授かる儀式をしたそうです。
そんな不思議な生まれ方をしましたが、小さいころは山や川を駆けまわる元気な普通の女の子でした。元気すぎて学校をさぼる私を見かねて家庭訪問に来た先生に対し、母は「やる気がないときにおしつけてもしようがないでしょう。やる気になったらやるでしょう」と笑いながら言いのける肝の据わった人でした。
父は、高等中学校を卒業して教師を目指していたのですがアイヌであるがゆえに断念し、炭焼きの仕事で家族を養ってくれました。旅館などで炭を使って火をおこしていましたから、父の炭はよく売れましたし、白米とも交換していました。戦後間もない時期で、お米を食べられる家庭が少ない中、ジャガイモや大根、ニンジンなどの野菜と一緒に白米を炊いた雑炊のようなご飯が食べられたことは本当にうれしかったですね。
その当時、父と母が口論をしているのを聞いたことがあります。米を食べられない、買えない母子家庭や子どものいる家庭に父が白米を少しずつ持って行き、分け与えていたことが原因でした。小言を言う母に対して、父は「少しずつでも持っていくことが、とても大事。ウレシパモシリ(互いに育って助け合う世界)なのだ」と言いました。アイヌは昔から、集落の子どもはみんなの子ども、お年寄りはみんなのお年寄りという意識が高かった。どこの子どもであろうがおなかを空かしていれば食事を与える。病気を患って動けない人がいれば、その人の分まで山菜を採り食事をさせる。それが当たり前のことだった。父は、そのアイヌ精神を貫いていたのです。父の言葉や行動はすごく大事なことだと感じました。小学校5年生ぐらいのころから「死ぬまで勉強だから、ゆっくりでいいから一日一個漢字を覚えなさい」と言って読み書きを教えてくれたのも父でした。私は父親っ子だったので、そんな父の影響が大きいと思います。
小学校時代は学校が二風谷にありました。今ではアイヌの聖地ともいわれている土地で、当時は生徒の7割ほどがアイヌでした。でも、平取町へ母と買物などに行くと「ア、イヌが来た」とか言われました。まだ幼かった私は、本当に犬が後ろにいるのかなと思って振り返って見た記憶はあります。ただ、小学生のころは大半が二風谷にいることが多かったので、気にもしていませんでした。私の世界が変わったのは平取町の中学校へ入学してからです。言葉の暴力や仲間外れにされたりして、最初は何が起きているのか理解できませんでしたが、次第に自分がアイヌだからだと分かりました。そのころから登校拒否が少しずつ始まりました。
今でも鮮明に覚えていることがあります。中学校1年生のとき、下校途中にある砂利の坂道で、上級生たちが仕掛けた罠に気付かずに足を縄に引っかけられて滑り落ちてしまいました。膝を擦りむいて、かなりの出血があり、セーラー服のスカートは泥と血で汚れてしまいました。その日は、学校帰りに、心臓弁膜症で入院している父の病室へ寄るよう母に言われていました。坂から滑り落とされるようないじめにあったことを両親には知られたくなくて、スカートの汚れた部分を後ろに回して病院へ行きました。お見舞いで頂いたスイカやメロンを食べたりして父と過ごす時間を楽しんでいたのですが、帰るためにドアの取っ手に手を掛けたとき、血と泥で汚れてボロボロのスカートを見た父が「そのことから逃げるなー!」と、ろくに声も出なくなっていたのに叫んだのです。
そして翌日に父は亡くなりました。父の最後の言葉は、いじめに屈することは、自分からも国からも逃げることになる。チャランケ(ちゃんと話し合え)ということだと思いました。
それまでの私は、悪口を言われたくないし聞きたくもない。言っている人たちも見たくなかったので、いつも山や川に逃げているような子どもでした。父の「逃げるな」の言葉を聞いて今の自分ではダメだと気付かされました。
それからは、逃げるのをやめてマタンプシ(アイヌの鉢巻き)をいつも巻き、堂々と人前に出るようになりました。アイヌの子どもは中学校1年生の3学期までに不登校になることが多い中、私は中学校の卒業式にもマタンプシをして出席しました。そうしたら「その鉢巻きをしていたら卒業させない。外したら卒業証書をやる」と言われました。
アイヌ集落でも、字が読めない多くのアイヌが借用とだまされて土地を奪われました。住む場所をなくし酒におぼれて身を滅ぼしていく人も見ました。そんな理不尽なことが日常茶飯事のように起きていたので、このままだとアイヌが滅びてしまうという危機感を覚え、15歳で活動家として立ち上がりました。
最初は、自分がアイヌだとアピールすればするほど弾圧されました。相手が武器を持っていて、怪我をしたり骨折させられるようなこともありました。東京での初めての講演のときには日本刀を持った過激派の男性に、壇上で切りつけられたこともありました。間一髪で無事でしたが、命の危険を感じて過激な運動に走りかけたこともありました。でも、それを止めたのも父の言葉でした。父は「どんなに非道なことをされたとしても、それを非道で返したら、それは同罪。だから絶対に非道なことはやってはいけない。アイヌにはチャランケしかない」と言う人でしたから。
私はアイヌの民族問題や環境保護活動をしながら、事情があって子どもを育てられない親から10人ぐらいの子どもを引き取って育てていました。みんなアイヌの血が混ざった子どもたちでした。当時は、いじめなどの問題があって子どもたちを学校に通わせられなかった。いじめの恐ろしさを私は身を持って知っていましたから。だから、父が私に読み書きを教えてくれたように、私が子どもたちに教えることにしました。
1989年に自宅横のチセ(建物)を、フリースクールを兼ねたアイヌ語学校にしました。子どもたちに最初に教えたことは、死なないこと、自分を殺さないこと、自分に負けないこと、自分一人の命ではなく、命を粗末にすると親や兄弟など悲しむ人がいるということ。親や兄弟がいなくても私が悲しむということです。子どもたちが命の大切さを理解し、勉強することへの意欲が出てきてから、読み書きを教えました。父が私に言ってくれたように「死ぬまで勉強だから、ゆっくりでいいから」と、少しずつゆっくり。読み書き・計算などの勉強、アイヌ語や踊りを教えていきました。そのときに教えた子どもの一人が、今、教師になっていますよ、うれしいですね。
その年の8月から毎年アイヌモシリ一万年祭も行っています。過去の歴史の中で、アイヌとアイヌを助けたことによって殺されてしまった日本人の霊を慰めるための供養祭です。会場があるところは、アイヌたちが住処を追われ命からがら逃げ着いた場所です。イオマンテ(祭り)は前夜祭を含め6日間あります。1日目はお祈り、2日目はアイヌ語学校に通う子どもたちの歌や踊り、3日目は子どもが参加するゲーム大会、4日目は運動会、最終日の5日目には、またお祈りをします。ゲームなどはその年によって内容が変わることはありますが、必ず6日間にわたって行われます。
なぜ、6日間もあるのかというと、アイヌは「天・大地・太陽・月・火・水」の6つのカムイ(神)を重要神として尊敬しています。それは文明や科学がいくら進んでも絶対につくれないし、人間が絶対に勝てないものです。その重要神が6つあることから“6”という数字をとても大切にしているので、アイヌのイオマンテは全て6日間あります。よく「アイヌには神様がいっぱいいる」と言う人がいますが、アイヌは偶像崇拝はしません。
アイヌを知ってもらうためには、日本語やアイヌ語でのユーカラ(叙事詩)の語り部など、アイヌ文化の伝承活動は大切なことです。でも、一番大事なことは真実を知ってもらうことだと思っています。日本人は、アイヌも朝鮮人も中国人もモンゴル人の血も入っている複合民族だということ。アイヌ問題は日本人の問題です。知らない、無関心は人種差別していることと同じ。真実の歴史を明らかにし、ちゃんと知ることが人種差別のない世の中へとつながっていきます。私たちが前線に立つことによって少しでも真実を知ってもらい、人種差別のない世の中になることを願っています。そのために私は死ぬまで戦っていきます。
私も69歳になりましたので、たくさんの子どもは預かれませんが、今も10人ぐらいの子どもたちと一緒に生活をしています。昔のようないじめもなく、学校にも行かせています。早く友達ができればいいなと見守っています。
今まで私は50人以上を育ててきました。自分の籍に入れて育てた子どももいます。みんなかわいいですよね。あの当時の子どもたちで結婚している子もいるので、もう孫もいます。みんな「お母さん、お母さん」と言って、お盆や正月に家族を連れて里帰りして来てくれる。家に入りきれないぐらいの人数になるんですよ、床が抜けるかと思います(笑)。子どもたちのことは、自分が棺桶に入るまで、あれこれ心配はするのだろうけど、その分うれしさも楽しみもたくさんあるってことですね。
今年中に、今まで使っていた日本名の山道康子からアイヌ名のアシリ・レラに改名できることになりました。以前はアイヌ名での出生届が認められなかったのですが、時代の流れとともに法律が緩和されました。それもうれしい出来事ですね。