オヤジのひとり言

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京都 三条「蹴上」??

2011年01月14日 | オヤジのひとり言
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先日はあるグループの新年会
会場は京都東山 蹴上 の「ウェスティン都ホテル京都」
例によって・2次会・3次会と流れて帰宅は午前様でした。(謝)

でっ・この「蹴上」という地名・

諸説がありますが??


京都蹴上の清水


京都蹴上の清水

京都の東山に蹴上 (けあげ) という不思議な地名がある。

この地はかつて三条大橋を渡って東海道へ向かう京都の玄関口にあたっていて。

南禅寺の近くで琵琶湖疎水(1890年完成)の取水口があり、

「蹴上浄水場」として知られている。


蹴上の地名の由来は、
牛若と呼ばれていた義経が生まれ故郷の京都を離れ奥州平泉に向かう時のエピソードから来ているらしい。義経は、16才になった承安4年(1174)、金商人の金売吉次に伴われて、奥州に旅立つことになった。

義経一行は、三条大橋を渡り、蹴上の清水という場所で、水を飲み、
知り合いの者たちと別れを惜しんでいた。
そこを関原与市という武者とその郎等ら10名がやってくる。
そこで事件が起きた。
たまたま関原らの乗っていた馬が蹴上げた水が誤って、義経にかかり、
衣が汚れてしまった。
若い義経は、激怒し、この10名を即座に切り捨て、
さらに主人与市の耳と鼻を削いで追い払ってしまった。
このことを、
義経は、「奥州への首途(かどで)にあたっての吉兆」と喜んだとのことだ。

一説によれば、
関原与市という武者は平家に繋がる者との説もある。

この近くには 「血池町」 というおどろおどろしい地名も残っていて、
この辺りに義経が血で汚れた自分の刀を洗ったとされる池があったとされる。
しかしどんなに考えても現実感はない。
おそらく史実ではなく、後の世に創作された伝承であろうと思われています。

琵琶湖疎水と義経大日如来の奇妙な調和
伝承・伝説というものは、どんどんエスカレートし、
大げさになっていくもののようです。

元々義経の奥州東下りの一番の理由が、
平家による監視の強化があってのことと思われ、

10名の者を斬り殺し、さらに主人を鼻と耳を削いで放り出すような目立つことをするはずもない。
「判官贔屓」という言葉が生まれた江戸期には、
蹴上の地に茶店なども出来て大変繁盛したということである。
この伝説は、
義経記の成立以降、義経伝説に尾ひれがつき、
京の都蹴上の名所化の過程で創作されたもののようだ。

インクライン(傾斜鉄道)の跡
蹴上の地を散策しながら、改めて京都という都市が、
琵琶湖の南に拡がった水の都であるということを思った。
明治18年に完成した琵琶湖疎水の遺跡は、近代の遺跡ではあるが、
バランスがとれていて古都京都との違和感はまったく感じられない。
南禅寺の方から、インクライン(傾斜鉄道)と呼ばれる線路の跡を登ってゆくと、
疎水公園の傍らには、近代の遺跡に交じり義経の斬り捨てた武者たちの慰霊を弔って立てられたとされる義経大日如来がひっそりと立っている。
こんな 句碑 もありますよ。

蹴上なる不思議な地名を思いつつ水の都の枯葉踏みしむ