住民から行政や団体組織へのクレームを言われることがたびたびある。公的なこともあるが、超個人的すぎて対応に戸惑う時もある。特に震災後から増えているが、以前からの行政対応、一部の団体組織の対応が表面化して、震災によりあぶりだされたように感じている。
特にも自治体職員は、住民の価値観の多様化によりクレームも千差万別で、対応に苦慮することが多くなっていると思われる。初期対応を誤れば、ますますこじれていき収集がつかなくなることもあり得る。
ある地域の市町村職員研修センターで出している研究レポートには次のように記されている。
<だからクレームがこじれる>
「自治体職員は、クレームの原因の多くを『相手』に求める傾向にある。裏を返せば『自分は悪くない』と思っているということです。自分(又は行政側)が悪くないと思っている場合、相手のミスや勘違いを指摘するような対応をしがちです。
仮に相手にミスや勘違いがあった場合、その場で相手が自分の勘違いに気づいて理解してくれるのであれば良いのですが、多くの場合、理解を得られず『二次クレーム』に発展しています。
もし、住民のミスや勘違いを指摘するならば、相手の尊厳を傷つけないように『クッション言葉』などを使用するなどの配慮をする必要があります。また、たとえこちらに非がないにしても、『ご不快な思いをさせて、申し訳ありません』と相手を不快な気持ちにさせたことに対して謝罪します。
いずれにしても、本当にこちらに非がないのか、説明不足やわかりにくい表現などはないのかなど、何度もクレームを受けるようならば、現状を考え直す必要があるでしょう。」
という内容。 非常に分かりやすく、ごく当たり前のことが記されている。
接客業をやっているとクレームはつきものだ。
お客様がクレームを言って来るということは、こちらで気付かない何か不快にさせることがあった、それが誤解であったにしても誤解させたそのことがこちらの落ち度と考えるのが「サービス業」の基本だと自分では理解している。
この研究レポートによる職員アンケート調査によれば、その逆のようだ。 行政対応を見ていて、うなづけるものがある。
<組織の死>
堺屋太一の「組織の盛衰」という本には「組織の死に至る3つの病」という理論があるそうだ。
そのひとつに「組織の共同体化」というのがある。
ある説明から引用します。
『軍人出身で昭和15年に総理になった米内光政という人は、戦後、その時海軍のトップにいたらどうしたか聞かれて「当然、そうしました(三国同盟=開戦に反対しました)。でも、(そうしたら)殺されていたでしょうね」と答えたそうです。
何が問題かというと、目が外を向いているか内を向いているかです。こういう場面では、冷静に自分と相手の戦力を分析して判断するというタイプは好まれません。撤退か破滅しかあり得ないとしても、撤退するということはそこまでの努力を水の泡にすることです。
本来、軍隊は勝つための組織ですから、情報収集や分析、戦略の立案という機能を持っています。そういうプランがあって初めて現場の努力が生きるのですから、こういう場面ではトップが強権を発動してストップをかけなければいけません。しかし、わかっててもそれがなかなかできないんですね。
こういうのを「組織の共同体化」といいます。組織が作られた根本の目的を忘れているのです。日本軍は日本を守るために作られたのですが、破滅が見えていても先輩方の努力を無駄にしないために、日本を破滅の道へひっぱりこんだ、しかも、相手の戦力をみくびっていたわけではなくて、絶対勝てないと思っていてそういうことをしたのです。バブルの崩壊後の銀行も大蔵省も、「こりゃヤバイ、どうにもならんぞ」とわかっていて、不良債権の処理を進めることができなかったのです。』 引用以上。
自治体と住民を敵と味方としては、たとえが適切でないが読んでいてついオーバーラップした。
自治体も組織内部ばかりをみて仕事を進めていると、自治体が何のために存在しているのか忘れていくのではないか。
10月3日の岩手日報、「交差点」に『組織の死』という記事があった。
「 歴史政治学者のN.Cパーキンソンは、組織が死に至る過程を次のように説明する。
まず、無能力と嫉妬心を併せ持つ人物が高い濃度で出現すること。
その者たちは、自己の無能力への無自覚と他者の能力への嫉妬からしばしば他人の仕事に干渉し、妨害する。
続いて、そうした人間が組織の中心的な場所に進出するか、あるいは中心的立場にいる者と結託することにより、
自分たちよりも能力のある人物を組織的に排除し、愚かさを競う競争が始まる。
最後には、組織の上から下まで、無気力、無知性がはびこり、組織は完全な機能不全に陥り死に至る。」
この記事も直接クレームとは関連しないが、上記のような瀕死の組織はクレームを拡大させる。
前述の職員研修センター研究レポートに「クレーム対応のポイント」も記してある。
以下引用。
①相手が求めているもの
「心理的ニーズ」 と 「実質的ニーズ」
相手が問題の解決を求めているのか、感情の解決を求めているのかを判断し、対応を変える必要がある。
いくら一生懸命謝罪しても、物質的解決が必要であるのにその解決策を示さないで誠実な謝罪だけでは的外れとなる。
②相手の「気持ち」を受け止める
「心理的にニーズ」と「実質的ニーズ」は、「積極的に対応し解決を図らなければならないもの」、
「対応は必要だが、解決できないもの」と言い換えることができます。
たとえば、間違えて納税通知を送ったなど行政のミスや不手際が原因のクレームなどは、前者に当てはまります。
住民に迷惑をかけたことに対して謝罪することは当然であり、なぜミスが起こったのか、チェック機能は働かなかったのかなどの原因を探り、今後同じようなことが起こらないように改善することが必要です。
一方で後者の場合は、国や県などの制度に関するクレームなどが当てはまり、クレームを言う側の気持ちは分かっても、
どうしようもないものが多くあります。
「そんなこと言われても、法律で決まっているのでどうしようもありません」というのが対応者の正直な気持ちでしょう。
クレームを言っている側も役所に言って制度が変わるものではないことを承知しているのです。
「わたしの憤懣やるかたないこの気持ちを受け止めてくれ」と言っているのです。
解決できないことはお互いわかっているのですから、この場合も解決することではなく、相手の感情を受け止めることが大切なのです。
何も大げさに考える必要はなく、住民の声に耳を傾け小さな改善を積み重ねることによって、住民満足の向上につながっていくはずです。
引用以上。
クレームを言う人は「悪い人」、何も言わない人は「良い人」という内部理論が無意識に出来上がっていないか心配する。
確かにクレームを言う人はある程度決まってはいる。
しかし、「あの人だから」という先入観で決めつけていないか?
その結果いたずらに「二次クレーム」を出してしまってはいないのか?
形は違っても同じような対応で、ただ言わない人のほうが多いということを民間の場合は警戒する。
だから、その根本は何だったかを考え、次のクレームがない体制を作ろうとする。
クレーム対応のポイントは対住民だけでなく、組織内部でも活用されるとレポートでも伝えている。
組織内部で「相手の気持ち」にもなりながら仕事が進められていなければ、上記のような内容は理解不能に陥る。
久慈での議員研修のジャーナリストの講演で、久慈市から大学の研究室へ職員を一人あずかっているという内容の中で、
自治体職員は相当のリハビリが必要だと言っていた。だいぶ考え方が病んでいると。
この職員も住民の立場で考えるということ、立場を変えて考えるということの意味をようやく理解してもらったというような
内容のことを言っていたと記憶している。
クレーム対応は個人の問題でなく、組織全体の問題である。
「いかなる場合であっても住民の立場で物事を考え、そして行動する」(研究レポートより)という精神が組織内部に浸透しているのかどうか。これが、行政と住民との信頼関係を築く基礎になるとおもうのだが。
組織内部においても、部下の立場を考えない、自分のエゴで叱り飛ばすだけの上司では組織が機能しなくなる。
住民の立場を考えるということは、部下の立場も考える余裕がなければおそらく無理だと思われる。
基礎的なことを教えもしないで、叱り飛ばすだけであれば、それだけで組織の壊死が始まる。
そのような上司を排除していくのも組織の盛衰、村の発展にかかわる重要な組織体の役割であると思う。
「住民が言うことをいちいち聞いていたらきりがない」ということも聞いたことがある。
はたして、きりがなくなるまで聞いたことがあると言うことなのか? 聞いてもたかだか1000か2000だ。
確かに自分勝手なクレームもあって、職員にすれば大変なことである。
しかし、「いちいち聞いてられない」態度が、クレームになる。 悪循環のドツボにはまる。
これまでの内容は、行政のみならず、すべて議会にも当てはまります。
特にも自治体職員は、住民の価値観の多様化によりクレームも千差万別で、対応に苦慮することが多くなっていると思われる。初期対応を誤れば、ますますこじれていき収集がつかなくなることもあり得る。
ある地域の市町村職員研修センターで出している研究レポートには次のように記されている。
<だからクレームがこじれる>
「自治体職員は、クレームの原因の多くを『相手』に求める傾向にある。裏を返せば『自分は悪くない』と思っているということです。自分(又は行政側)が悪くないと思っている場合、相手のミスや勘違いを指摘するような対応をしがちです。
仮に相手にミスや勘違いがあった場合、その場で相手が自分の勘違いに気づいて理解してくれるのであれば良いのですが、多くの場合、理解を得られず『二次クレーム』に発展しています。
もし、住民のミスや勘違いを指摘するならば、相手の尊厳を傷つけないように『クッション言葉』などを使用するなどの配慮をする必要があります。また、たとえこちらに非がないにしても、『ご不快な思いをさせて、申し訳ありません』と相手を不快な気持ちにさせたことに対して謝罪します。
いずれにしても、本当にこちらに非がないのか、説明不足やわかりにくい表現などはないのかなど、何度もクレームを受けるようならば、現状を考え直す必要があるでしょう。」
という内容。 非常に分かりやすく、ごく当たり前のことが記されている。
接客業をやっているとクレームはつきものだ。
お客様がクレームを言って来るということは、こちらで気付かない何か不快にさせることがあった、それが誤解であったにしても誤解させたそのことがこちらの落ち度と考えるのが「サービス業」の基本だと自分では理解している。
この研究レポートによる職員アンケート調査によれば、その逆のようだ。 行政対応を見ていて、うなづけるものがある。
<組織の死>
堺屋太一の「組織の盛衰」という本には「組織の死に至る3つの病」という理論があるそうだ。
そのひとつに「組織の共同体化」というのがある。
ある説明から引用します。
『軍人出身で昭和15年に総理になった米内光政という人は、戦後、その時海軍のトップにいたらどうしたか聞かれて「当然、そうしました(三国同盟=開戦に反対しました)。でも、(そうしたら)殺されていたでしょうね」と答えたそうです。
何が問題かというと、目が外を向いているか内を向いているかです。こういう場面では、冷静に自分と相手の戦力を分析して判断するというタイプは好まれません。撤退か破滅しかあり得ないとしても、撤退するということはそこまでの努力を水の泡にすることです。
本来、軍隊は勝つための組織ですから、情報収集や分析、戦略の立案という機能を持っています。そういうプランがあって初めて現場の努力が生きるのですから、こういう場面ではトップが強権を発動してストップをかけなければいけません。しかし、わかっててもそれがなかなかできないんですね。
こういうのを「組織の共同体化」といいます。組織が作られた根本の目的を忘れているのです。日本軍は日本を守るために作られたのですが、破滅が見えていても先輩方の努力を無駄にしないために、日本を破滅の道へひっぱりこんだ、しかも、相手の戦力をみくびっていたわけではなくて、絶対勝てないと思っていてそういうことをしたのです。バブルの崩壊後の銀行も大蔵省も、「こりゃヤバイ、どうにもならんぞ」とわかっていて、不良債権の処理を進めることができなかったのです。』 引用以上。
自治体と住民を敵と味方としては、たとえが適切でないが読んでいてついオーバーラップした。
自治体も組織内部ばかりをみて仕事を進めていると、自治体が何のために存在しているのか忘れていくのではないか。
10月3日の岩手日報、「交差点」に『組織の死』という記事があった。
「 歴史政治学者のN.Cパーキンソンは、組織が死に至る過程を次のように説明する。
まず、無能力と嫉妬心を併せ持つ人物が高い濃度で出現すること。
その者たちは、自己の無能力への無自覚と他者の能力への嫉妬からしばしば他人の仕事に干渉し、妨害する。
続いて、そうした人間が組織の中心的な場所に進出するか、あるいは中心的立場にいる者と結託することにより、
自分たちよりも能力のある人物を組織的に排除し、愚かさを競う競争が始まる。
最後には、組織の上から下まで、無気力、無知性がはびこり、組織は完全な機能不全に陥り死に至る。」
この記事も直接クレームとは関連しないが、上記のような瀕死の組織はクレームを拡大させる。
前述の職員研修センター研究レポートに「クレーム対応のポイント」も記してある。
以下引用。
①相手が求めているもの
「心理的ニーズ」 と 「実質的ニーズ」
相手が問題の解決を求めているのか、感情の解決を求めているのかを判断し、対応を変える必要がある。
いくら一生懸命謝罪しても、物質的解決が必要であるのにその解決策を示さないで誠実な謝罪だけでは的外れとなる。
②相手の「気持ち」を受け止める
「心理的にニーズ」と「実質的ニーズ」は、「積極的に対応し解決を図らなければならないもの」、
「対応は必要だが、解決できないもの」と言い換えることができます。
たとえば、間違えて納税通知を送ったなど行政のミスや不手際が原因のクレームなどは、前者に当てはまります。
住民に迷惑をかけたことに対して謝罪することは当然であり、なぜミスが起こったのか、チェック機能は働かなかったのかなどの原因を探り、今後同じようなことが起こらないように改善することが必要です。
一方で後者の場合は、国や県などの制度に関するクレームなどが当てはまり、クレームを言う側の気持ちは分かっても、
どうしようもないものが多くあります。
「そんなこと言われても、法律で決まっているのでどうしようもありません」というのが対応者の正直な気持ちでしょう。
クレームを言っている側も役所に言って制度が変わるものではないことを承知しているのです。
「わたしの憤懣やるかたないこの気持ちを受け止めてくれ」と言っているのです。
解決できないことはお互いわかっているのですから、この場合も解決することではなく、相手の感情を受け止めることが大切なのです。
何も大げさに考える必要はなく、住民の声に耳を傾け小さな改善を積み重ねることによって、住民満足の向上につながっていくはずです。
引用以上。
クレームを言う人は「悪い人」、何も言わない人は「良い人」という内部理論が無意識に出来上がっていないか心配する。
確かにクレームを言う人はある程度決まってはいる。
しかし、「あの人だから」という先入観で決めつけていないか?
その結果いたずらに「二次クレーム」を出してしまってはいないのか?
形は違っても同じような対応で、ただ言わない人のほうが多いということを民間の場合は警戒する。
だから、その根本は何だったかを考え、次のクレームがない体制を作ろうとする。
クレーム対応のポイントは対住民だけでなく、組織内部でも活用されるとレポートでも伝えている。
組織内部で「相手の気持ち」にもなりながら仕事が進められていなければ、上記のような内容は理解不能に陥る。
久慈での議員研修のジャーナリストの講演で、久慈市から大学の研究室へ職員を一人あずかっているという内容の中で、
自治体職員は相当のリハビリが必要だと言っていた。だいぶ考え方が病んでいると。
この職員も住民の立場で考えるということ、立場を変えて考えるということの意味をようやく理解してもらったというような
内容のことを言っていたと記憶している。
クレーム対応は個人の問題でなく、組織全体の問題である。
「いかなる場合であっても住民の立場で物事を考え、そして行動する」(研究レポートより)という精神が組織内部に浸透しているのかどうか。これが、行政と住民との信頼関係を築く基礎になるとおもうのだが。
組織内部においても、部下の立場を考えない、自分のエゴで叱り飛ばすだけの上司では組織が機能しなくなる。
住民の立場を考えるということは、部下の立場も考える余裕がなければおそらく無理だと思われる。
基礎的なことを教えもしないで、叱り飛ばすだけであれば、それだけで組織の壊死が始まる。
そのような上司を排除していくのも組織の盛衰、村の発展にかかわる重要な組織体の役割であると思う。
「住民が言うことをいちいち聞いていたらきりがない」ということも聞いたことがある。
はたして、きりがなくなるまで聞いたことがあると言うことなのか? 聞いてもたかだか1000か2000だ。
確かに自分勝手なクレームもあって、職員にすれば大変なことである。
しかし、「いちいち聞いてられない」態度が、クレームになる。 悪循環のドツボにはまる。
これまでの内容は、行政のみならず、すべて議会にも当てはまります。
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