白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

24年ぶりの再訪

2010-04-18 | 日常、思うこと
本郷「FIRE HOUSE」でモッツァレラマッシュルームバーガー、
コロナビールのランチ。2000円。
本当は菊坂下、「海燕」のロシアランチがよかったのだが、
あいにく、テーブルはすべて使われていて、
尚且つ、座っているカップルとの相席は耐え難きものにして、
遠慮すべきものとて、期を改める。





春日駅より都営大江戸線、上野御徒町でメトロ銀座線に乗換え、
田原町から浅草界隈を散策。
浅草六区から花やしき、折り返して新仲見世、仲見世と進んで
大改修中の浅草寺、香を浴びて、本堂にて観音参拝。
東武浅草から鉄路、曳舟にて急行乗換、千住、草加、越谷を
眠って過ぎて、春日部から野田線、野田市へ下りる。
僕の父親に建築を教えた、叔父が建築設計事務所を構えた街へ
不意に行ってみたくなったから。
痕跡をなぞるだけのこと。





叔父は18年前、59歳の若さで肝臓癌のために他界した。
戦後間もなく、殆ど勘当同然で故郷を飛び出して、
日大の夜間部で苦学して建築を学び、皇居宮殿の仕事や
全国各地の旅館の数寄屋建築を手がけていたという。
一時は、文京区本郷に事務所を構えており、
僕の父親もそれを頼って、ほぼ10年を本郷で暮らした。
そして僕自身も、いま、その本郷に暮らしている。





叔父の家庭は、娘の駆け落ちという事態によって崩れた。
その早世も、ストレスによる酒量の増加にあったらしい。
僕の父親は、その長兄から事務所の名前を引き継いだ。
それから18年、何の因果か、僕の実家も、崩れた。





野田市には、1986年の3月、父に連れられて行った。
小学校入学前の春休みの旅行だった。
新幹線が熱海手前のトンネルで止まったこと、
上野で洋食を食べたこと、
伊勢崎線のせんげん台まで叔父が迎えに来たこと、
叔父の家の前の道は2車線道路だったこと、
事務所だけが2階、その他は平屋だったこと、
建物向かって右側に道があったこと、
飼い犬のチビと遊んだこと、
翌日、連れられて行った上野の国立科学博物館で
タルボサウルスの化石標本に魅入られて、
帰途の常磐線柏駅で恐竜の本をねだって買ってもらい、
野田線の車中ずっと読んだこと、
夕刻の夜空にオリオンが輝き、キッコーマンの工場の
巨大なサイロと、豆を煮る独特なにおいがしていたこと、
当時慶応大学に通っていたいとこが、ピアノを弾き語り
Let it beを遊んでいたことを憶えている。





駅へ下り、巨大なサイロと独特のにおいによって、
自分の記憶を、風化しきってはいないものと信じるのに
躊躇はなくなった。
3月の夕刻にオリオンが輝く方向は西であるはずだから、
西へ向かった。
片道1車線、歩道がせまい、という記憶をもとにして、
上州街道沿いの西方向の道を探した。
それでも、記憶というのはやはりいい加減でもあって、
石造りの洋風建築や古い商家の並びなどは、記憶の滓に
含まれてさえいない。





そうして、自分の記憶に最も近いと思った道を折れて、
数百メートル進んだ先に、
道に面した部分のみが2階で、それを除いては1階、
建物の右側に道のある建物が見えた。
僕の記憶の通りに、建物正面の全面ガラスと扉が、
内側からカーテンで閉じられている。
風雨に晒されてすっかり剥落しているプラスチック看板に、
辛うじて、設計事務所という文字が残っていた。
建物横道に廻り、表札を見ると、僕と同じ名字が刻まれ、
門扉は閉ざされて、中に人のいる様子はなかった。
この時、僕は瞬刻、正気を失った。





そこには、今もなお、僕の叔母が住んでいる。
残念ながら、留守だったため、会うことはかなわなかった。
感慨無量、看板に触れて、しばらく、眼を閉じた。
叔父は飄々とした、何とも言えない魅力に溢れた人だった。





このGWは、家族会議らしい。
崩れた家を、いったいどうしろというのか、という問いに、
恐ろしく冷淡で他人事のように思っている僕には
何の言葉も姿勢もない。






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