1.はじめに
数年前、アメリカのクレジットカード会社のテレビCMが話題を呼んだ。それを例に引くことから始めたい。
ニューヨークのホテルの一室で、母と娘がドレスを試着している。二人は旅行でこの街に訪れたらしい。ベッドのまわりには、街で買ってきたドレスやアクセサリーが並べられている。娘が選んだドレスを恥ずかしそうに試着する母に、娘は「似合ってるよ」と語りかける。窓辺のテーブルには父へのおみやげの包 . . . 本文を読む
グラクソスミスクライン・デルモベートを
両の腕の皮膚に塗布してから
紫外線の直接照射を防ぐために長袖を着て、
人いきれに咽かえる丸ノ内線に乗っていたときは
腕に茸でも生えやしないかと、少しく不安になった。
細かな水泡が、あちらこちらに出来ていたためで、
これまでいくら酷い陽焼けをしても、疼痛こそあれ
赤黒い半球を生じるようなことはなかったから。
幸いにして、台風が東京に運び込んだ大量の蒸 . . . 本文を読む
これを弁証法による偉大な成果と呼ぶべきか。
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空が青すぎる。許しがたい。
たとえそうだと言って、空に薄墨を混ぜ込むことなど
出来やしない。
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夢想、物思いのなかで、いまこの眼の前にあるものを
どこまで信頼する事が出来ようか。
認識の働きが、その端緒から、
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黄金比(おうごんひ、En:Golden ratio, The Golden Mean/Rectangle)(=PHI)は、最も美しいとされる比。近似値は1:1.618、約5:8。線分を a, bの長さで 2 つに分割するときに、a : b = b : (a + b) が成り立つように分割したときの比 a : b のことである(出典:wikipedia)
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1989年秋、落合博満にもらったサインである。
当時野球を覚えたての僕は、その独特の構えと鞭のように
しなるように見えるバットスイングに魅了されていた。
このサイン会のとき、質問コーナーがあり、
僕は彼に「星野監督はどんなひとですか?」と聞いた。
彼は思わず上向きに笑ってから、じっと僕の顔を見つめ、
「気難しいひと。」と、寛いだ様子で答えてくれた。
実にあたたかで、おおらかな空気をたたえたひとだっ . . . 本文を読む
花火の宇宙が消滅したあと、硝煙くすぶる一面の葦原は
雄大に沈思する大河を撫で渡ってきた涼風にさざらと揺れ、
見上げれば、数千光年の銀河の群れ、恒星、大三角、プレアデスを、
水墨の薄く延ばされた雲が時折僕の目から遮断した。
深更、虚空から切断しておいた、消滅した花火宇宙たちを
タロットのように並べて、眠る。
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『理論があって絵があるのではありません。
あるとすればそれは追随です。
絵があって理論があるのではありません。
あるとすればそれは批評の分野です。
製作を通じての思索と苦しい試行錯誤のなかから
あふれ出たものが、そのひとそれぞれの
「絵のことば」になるのでしょう。
直観的に強い絵ではなく、
漸達的にして追々に光輝を発する絵。
絵を慈母のごとく仰いでその懐中に抱かれんとする者、
美的礼拝者 . . . 本文を読む
感覚と思想が矛盾無く調和していることにこしたことはなく、
両者の弁証的、対立的な関係のどこかに一致点を持ち、
それが歴史の発展の力になっていることが望ましい。
しかし、われわれの時代の宿命的な不幸は、それら両者に
調和も統一もない、感覚と思想の分裂のみが存在することだ、と
唐木順三は述べた。
唐木の言葉を引こう。
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非現実の存在を肯定的に捉えることにより、
空間や時間の因果律から逃れた「影画の世界」において
シュール・レアリスムが試みた奔放な空想、狂気、妄想の
表出による、科学的世界観への平手打ちと現実からの脱走も、
芸術が、芸術と信じられた時代であったからこそ有効であった。
作品に対する鑑賞者の能動的な観照のエネルギーが摩滅し、
ただ、作品が受容されるがままに過ぎ去られる現在では、
芸術作品から我々が受ける . . . 本文を読む
「こんにゃく問答」という落語がある。
久しく無人となっていた寺に、
ある流れ者が住み込むことになった。
寺に住むということは当然、住職をつとめる、と
いうことなのだが、
この男は道楽者の成れの果て、お経のひとつも
読むことができない、インチキ坊主である。
なぜこんな男が住職を勤められるのかというと、
誰も住むものがいないのでは寺は荒れるばかり、
これではいけない、体面上、住職は . . . 本文を読む
京都龍安寺の庭は、日本が誇るべき、日本の精神文化の
象徴として世界に広く知られているが、
これはかつて、彫刻家イサム・ノグチが、
「無を表現するにはこれだけの石が必要なのです」
という、ある仏教哲学者の言葉に感銘を受け、
この庭を外国(特にアメリカ)に広く紹介したためである。
実は、この仏教哲学者は、
西洋哲学に非常に大きな影響を受けていた。
西洋の思想を「有」の思想、東洋の思想を「無」 . . . 本文を読む