巨樹像のような思念のイデアを映写しようとして、
あるいは、即興演奏のなかに色彩と形式を取り入れて
こころになにかを刻み付けることがうまれるよう腐心して
いくら純化、ろ過、蒸留を繰り返しても、
どうしても、生肉にたかる蝿のようなノイズは消えない。
眼球を流れる埃はまるで水中のプランクトンのように
受像されて「見えて」くる。
無音室に入れば、自らの神経と血流のそれぞれの周波が
頭蓋の内側に持続して反響する。
実際に発話されたことばの群れの中に込めたつもりが
むこうがわへ届かなかった意味、
あるいは言語化されぬままに、胸奥で心身を傷め始める
鉛、あるいは水銀のように凝固した情念が、
自分だけで行う自分自身の純化を許さない。
思念のイデアを試みるうちに、取り除いたノイズによって
われわれは常なる危険に晒されることになる。
自らの志向を一点へと絞るうち、ファインダーから外した
雑多なものたちが、志向の中へとだんだんと攻め寄せる。
われわれは、自らが排撃したノイズに攻め立てられてくる。
時には、自らがよしとしないものを仕事として遂行したとき、
それに抗おうとするひとびとに、まさに自らの考えと同一の
ものによって攻撃もされる。
社会の中に自己を喪失していくにつれて、自らが放った矢が
めぐり巡って自らの背に突き刺さったとしても、
もはやそれが自分が放った矢であることすらも忘れている。
いずれ、自らの信条によって、自らが排撃されることにすら
なりかねないことを忘れているから、
われわれは安心して眠ることができるのかもしれない。
**************************
いのちなきものをいのちとし、
音声や符牒を互いのもついくつもの鍵と鍵穴に挿しいれる。
こうした作業によって、自らの内側にあって
誰からも覗かれ、あるいは侵犯されなかったものが暴かれる。
ことばが情念をかたちにして、相手へと開示することにより
自分だけのものとして「所与」のものであった特殊な情念は
途端に一般化され、誰のものにもなり得るようになった。
ことばは情念を交換する。そして交換そのものの作用によって、
ひとびとは自身を、特殊で誰のものでもない唯一性に満ちた
ものであると邪気無く思うことが出来るような、
いわば、「自我の楽園」ともいうべき甘美な幻想から追放された。
情念がことばによって相対的なものになったように、
自分ただひとりの力でも、自身を唯一のかけがえの無いものと
思うことができるような念、
端的にいえば、自己愛すらも、交換によって相対化されている。
愛はいつからか、交換を前提としたものになった。
自己を保存するという種族的・生物的本能に由来する、
本来は最も大切であるはずの自己愛が、ナルシシズムという名の
嘲笑の意味合いを附与されるに到ったのは、それが理由だろう。
交換されぬ、交換できぬ愛など、無いのと同じなのだ。
*************************
情念がかたちとして明確に開示されるのは、ことばによる
意味の領野だけにはとどまらない。
色彩と造形、音や記号、科学技術とマテリアルが巧妙に結託し、
芸術やさまざまのプロダクトという果実となることによって、
情念はさまざまなかたちとなって、この世界のあらゆるものを
相対化していく。
しかし、その源泉たる情念は、その帰結のもたらす相対性故に、
発生の場所と時間を次々に変えていくことになる。
それは、絶える事の無いプロダクトの生成と帰結の
一連のプロセスの相対化が、次に生まれてくる情念の端緒を
すでに相対化し、絶対的な唯一性を剥奪しているからだ。
そして絶える事の無い相対化がひとびとにもたらしたのは、
唯一性の剥奪によってもたらされた、価値の毀損滅失と
絶対的なるものの喪失だった。
無神論が蔓延し、文不文を問わず、既存の倫理秩序が崩れ、
神話性や幻想が軽んじられることとなった。
そこでひとびとが発明したのが、交換による既存の社会の
システムを破壊せず、唯一指標として明確な規準となり得る
ものとしての、お金だったわけである。
*************************
唯一基準として、既存のシステムから純化されて取り出された
「貨幣という名のイデア」は、長らくは金や銀、石油といった
自然界の資源プロダクトをその根幹に置いて来た。
貨幣は現在ではそれらを捨てて、信用や偶発性といった
マインドそのもの、いわば情念の錯綜と集束の方向性を根拠に
交換される傾向を一層強めている。
貨幣が社会システムの純化作用の結晶である以上、
貨幣から排撃されたさまざまのノイズが発生する。
貨幣への復讐として企てられた共産主義は頓挫したが、
貨幣の集中から排撃された「貧しき者」は
貨幣を多く集めようとする意志によって、
金銭への強欲に猛り狂う。
ひとびとの経済活動は、この唯一基準による社会における
絶対性を隣人よりもかき集めようとする者の発する、
欲望の轟音である。
しかし、貨幣自身が交換を拒否してしまえば、
現在の社会システムは途端に頓挫し、危機的状況に陥る。
それがかつてのニクソン・ショックであり、
日本における円の導入であった。
今後起こりうる貨幣の交換拒否は、現在の貨幣交換が
信用や偶然性などのマインドそのものに根拠を置く傾向を
ますます強めている現在、
社会の成員同士の信用の拒否、互いのこころの断絶という
人間にとって絶望的な形で起こってくるのではないだろうか。
先ごろ、名も知らぬ者同士が偶然に居合わせた女性を襲い
金銭を奪って殺害するという事件が起こったけれど、
それはまさに貨幣の集積から弾き出されたもの同士が
互いが誰であるかもわからぬままに犯罪を起こすという、
現在の社会状況に対する復讐としての強烈なノイズだと思う。
**************************
われわれはノイズを排撃するだけではなく、
ノイズ自体に木霊する排撃されたものの憾みを聴き、
あるいは、一旦は捨ててしまっていた純化のための種苗を
ノイズから取り出すような試みをしなければならない。
ノイズの中には、排撃して忘却した自らの端緒が映っている。
そして同じように、向かい合う誰か、見知らぬ誰かの端緒も
響いている。
ぶつかり合い、ちらつき、引っかき、揺れ、歪み、引き攣り、
ふるえ、ぶれ、ふれ、ねじれ、さざめき、うなり、つぶれ、
混乱し、伸び縮み、途切れる、そのノイズの有態こそが
もともとのわれわれの本質なのだから。
それは眼にも耳にも決して心地よいものではないが、
ではわれわれは、そのようにいい切れるほどに
きれいな姿をしているのだろうか。
クセナキスを聴き、最近のエレクトロニカの隆盛を思うと、
そのことに自覚的な人間は案外に多いようだと気付いた。
そのことに少し安心して、僕はオーネット・コールマンを
史上最高のバラード・プレイヤーだと思っている、と
試しに言い切ってしまうことにしようと思う。
あるいは、即興演奏のなかに色彩と形式を取り入れて
こころになにかを刻み付けることがうまれるよう腐心して
いくら純化、ろ過、蒸留を繰り返しても、
どうしても、生肉にたかる蝿のようなノイズは消えない。
眼球を流れる埃はまるで水中のプランクトンのように
受像されて「見えて」くる。
無音室に入れば、自らの神経と血流のそれぞれの周波が
頭蓋の内側に持続して反響する。
実際に発話されたことばの群れの中に込めたつもりが
むこうがわへ届かなかった意味、
あるいは言語化されぬままに、胸奥で心身を傷め始める
鉛、あるいは水銀のように凝固した情念が、
自分だけで行う自分自身の純化を許さない。
思念のイデアを試みるうちに、取り除いたノイズによって
われわれは常なる危険に晒されることになる。
自らの志向を一点へと絞るうち、ファインダーから外した
雑多なものたちが、志向の中へとだんだんと攻め寄せる。
われわれは、自らが排撃したノイズに攻め立てられてくる。
時には、自らがよしとしないものを仕事として遂行したとき、
それに抗おうとするひとびとに、まさに自らの考えと同一の
ものによって攻撃もされる。
社会の中に自己を喪失していくにつれて、自らが放った矢が
めぐり巡って自らの背に突き刺さったとしても、
もはやそれが自分が放った矢であることすらも忘れている。
いずれ、自らの信条によって、自らが排撃されることにすら
なりかねないことを忘れているから、
われわれは安心して眠ることができるのかもしれない。
**************************
いのちなきものをいのちとし、
音声や符牒を互いのもついくつもの鍵と鍵穴に挿しいれる。
こうした作業によって、自らの内側にあって
誰からも覗かれ、あるいは侵犯されなかったものが暴かれる。
ことばが情念をかたちにして、相手へと開示することにより
自分だけのものとして「所与」のものであった特殊な情念は
途端に一般化され、誰のものにもなり得るようになった。
ことばは情念を交換する。そして交換そのものの作用によって、
ひとびとは自身を、特殊で誰のものでもない唯一性に満ちた
ものであると邪気無く思うことが出来るような、
いわば、「自我の楽園」ともいうべき甘美な幻想から追放された。
情念がことばによって相対的なものになったように、
自分ただひとりの力でも、自身を唯一のかけがえの無いものと
思うことができるような念、
端的にいえば、自己愛すらも、交換によって相対化されている。
愛はいつからか、交換を前提としたものになった。
自己を保存するという種族的・生物的本能に由来する、
本来は最も大切であるはずの自己愛が、ナルシシズムという名の
嘲笑の意味合いを附与されるに到ったのは、それが理由だろう。
交換されぬ、交換できぬ愛など、無いのと同じなのだ。
*************************
情念がかたちとして明確に開示されるのは、ことばによる
意味の領野だけにはとどまらない。
色彩と造形、音や記号、科学技術とマテリアルが巧妙に結託し、
芸術やさまざまのプロダクトという果実となることによって、
情念はさまざまなかたちとなって、この世界のあらゆるものを
相対化していく。
しかし、その源泉たる情念は、その帰結のもたらす相対性故に、
発生の場所と時間を次々に変えていくことになる。
それは、絶える事の無いプロダクトの生成と帰結の
一連のプロセスの相対化が、次に生まれてくる情念の端緒を
すでに相対化し、絶対的な唯一性を剥奪しているからだ。
そして絶える事の無い相対化がひとびとにもたらしたのは、
唯一性の剥奪によってもたらされた、価値の毀損滅失と
絶対的なるものの喪失だった。
無神論が蔓延し、文不文を問わず、既存の倫理秩序が崩れ、
神話性や幻想が軽んじられることとなった。
そこでひとびとが発明したのが、交換による既存の社会の
システムを破壊せず、唯一指標として明確な規準となり得る
ものとしての、お金だったわけである。
*************************
唯一基準として、既存のシステムから純化されて取り出された
「貨幣という名のイデア」は、長らくは金や銀、石油といった
自然界の資源プロダクトをその根幹に置いて来た。
貨幣は現在ではそれらを捨てて、信用や偶発性といった
マインドそのもの、いわば情念の錯綜と集束の方向性を根拠に
交換される傾向を一層強めている。
貨幣が社会システムの純化作用の結晶である以上、
貨幣から排撃されたさまざまのノイズが発生する。
貨幣への復讐として企てられた共産主義は頓挫したが、
貨幣の集中から排撃された「貧しき者」は
貨幣を多く集めようとする意志によって、
金銭への強欲に猛り狂う。
ひとびとの経済活動は、この唯一基準による社会における
絶対性を隣人よりもかき集めようとする者の発する、
欲望の轟音である。
しかし、貨幣自身が交換を拒否してしまえば、
現在の社会システムは途端に頓挫し、危機的状況に陥る。
それがかつてのニクソン・ショックであり、
日本における円の導入であった。
今後起こりうる貨幣の交換拒否は、現在の貨幣交換が
信用や偶然性などのマインドそのものに根拠を置く傾向を
ますます強めている現在、
社会の成員同士の信用の拒否、互いのこころの断絶という
人間にとって絶望的な形で起こってくるのではないだろうか。
先ごろ、名も知らぬ者同士が偶然に居合わせた女性を襲い
金銭を奪って殺害するという事件が起こったけれど、
それはまさに貨幣の集積から弾き出されたもの同士が
互いが誰であるかもわからぬままに犯罪を起こすという、
現在の社会状況に対する復讐としての強烈なノイズだと思う。
**************************
われわれはノイズを排撃するだけではなく、
ノイズ自体に木霊する排撃されたものの憾みを聴き、
あるいは、一旦は捨ててしまっていた純化のための種苗を
ノイズから取り出すような試みをしなければならない。
ノイズの中には、排撃して忘却した自らの端緒が映っている。
そして同じように、向かい合う誰か、見知らぬ誰かの端緒も
響いている。
ぶつかり合い、ちらつき、引っかき、揺れ、歪み、引き攣り、
ふるえ、ぶれ、ふれ、ねじれ、さざめき、うなり、つぶれ、
混乱し、伸び縮み、途切れる、そのノイズの有態こそが
もともとのわれわれの本質なのだから。
それは眼にも耳にも決して心地よいものではないが、
ではわれわれは、そのようにいい切れるほどに
きれいな姿をしているのだろうか。
クセナキスを聴き、最近のエレクトロニカの隆盛を思うと、
そのことに自覚的な人間は案外に多いようだと気付いた。
そのことに少し安心して、僕はオーネット・コールマンを
史上最高のバラード・プレイヤーだと思っている、と
試しに言い切ってしまうことにしようと思う。
恐れ入ります。