白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

水鏡

2008-11-09 | 音について、思うこと
水鏡を、胸の底へと嵌めてあります。
そこへとなにか、美しいものを、
石にしてから投げこみます。
ちゃぽん、
波紋のせいで、胸底に映る碧空も揺れて乱れて、
綿雲が、白板にまでひき延ばされます、
それに、ことばを書き連ねます。





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かそけき呼吸の、ほとんど静寂となる夜に、
押し黙ってひそやかに、ペルセウスの瞬くのをば
じぃっと聴いているうちに、
光線が空を透過するとき、微弱な摩擦で熱が生じて
埃が焦げて、塵の滅びる音がするのに気がつきました。





ひさかたぶりに、月夜をひとりで飲みつづけて、
薄明の空の天頂の、朱と青の友禅色のあわいを仰いで
しばらく眺めているうちに、
からだの部分のあちらこちらがひとりでに眠り始めて
崩れ落ちていきはじめる、
意識の軽みが、遊星が群れ飛躍するようにして、
あちこちで引斥しあうからだの部分を追い切れなくなる、
膝の裏で考えて、眼で歩き、太腿で聴いて、指で舐める、
混ぜこぜの、蕩けたいのちになったせいかもしれません。





昼の瞼を閉じて、闇を得ることは叶わなかった、
むろん夜の眼を開いても、射す光はありません。
太陽周期に生きるものは周期と往還を繰り返していて、
閾を越える差異のみが、世界を開いて見せるのです。
水面に生じた波の紋は巨大な力学を享けてなお、
無数のノイズをうねりに飲んで平らかにあるのです。
分子の衝突は轟然と、瞳にちりちり射影するのみ、
その総体は響いているのに、音に生まれることもなく、
荒ぶる大鷲の翼を無数にすり抜ける乱気流のように
かくれて姿を見せぬまま、さざめき、ふるえ、沸きたち、
かすれ、くすぶり、花火して、尽き果てていきます。





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いのちとて、螺旋の構造の転写音を聞くことはなく、
塩基配列を翻訳する声に、耳を澄ますこともありません。
しかし、無音室のなかで、外界音を完全に遮られてから
われわれの聴覚のすべてとなる血流と心拍、
繊維と関節のあつれきは、それら無音の喧騒の総和に
間違いありません。
とても静かでありながら、途轍もなくけたたましい
われわれの細胞は、
さながら水のなかに浸された一弦の琴のようです。





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「紙一重ほどの、聾唖感」 (古井由吉)



われわれは60兆の細胞鍵盤の響きからなる房、
それらめいめいのなかから、ほんの数個だけが響き
協和音となることなどありません。
60兆の音響であることがぼくを生かしているのです。
それゆえか、ぼくはふるえない鼓膜と響かない骨、
感じない細胞の総体として、鍵盤を叩いたときのことを
思うのです。





ふだん、演奏者は、うまくいかなかった演奏に
耳をふさぐ自由をもっています。
胸の底に嵌めてある水鏡へとなにか、美しいものを
石にしてから投げこんで、
ちゃぽん、
そのちゃぽん、が、聴こえないならば、と思うのです。
耳をふさいだまま、何も聞こえなくなってしまったら、
世界の遠近を視覚だけに頼るうちに、
光線にやられてどんどん薄くなっていってしまって
かげもかたちもやがて輪郭をうしなって
粘液質のからだとなって地へ融解してしまうような、
原生動物のすがたへと戻ってしまうのではないかと
思われてならないのです。





響くものがあるのならば、それを余さずに聴きとって
鏡へと映しこみたいという切なる希求のゆえに
ピアノという楽器に、触れてきたのかもしれません。
直にふるえる楽器のなかで最大の発音数を持つがゆえに
感応する細胞数も多くなるだろう、という錯覚なのか、
あるいは、60兆の細胞鍵盤の不協和がいやになって
協和音へと調律させるにはこの楽器がよいのでは、と
錯覚したのか、
そんなことを考えるまえに、透徹した倍音に魅せられて
もう椅子の前に座って指を鍵盤に落としていたのでした。





時折、ぼくは指に導かれて鍵盤の前で聾唖となります。





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思潮、ということばが好きです。
海が、微弱にさざめきながら月に引斥されているとき、
巨大に、悠久の沈黙のなかで無音の呼吸をしている、
そんなイマージュが観えてくるからです。
白砂の岸辺で意識を海へ陥落させてしまえるからです。





十指を舞わせるアルペジオは波動、あるいは飛翔、と
響いてくる、

「生身には発声不可能の音」 (吉増剛造)





未生の繭のなかで死んでいる蚕の桑葉を食む音を聴いて
打音に映じることの出来るのが鍵盤弾きだと思うのです。
あるいは、光を音の粒ではなく、音の雲として朦朧と、
個々を見分けがたく湧きあがらせることの出来る、
ふるわせることの出来る・・・





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シューリヒトのブルックナーもカラヤンのレスピーギも
聴き終えてすぐに消えてしまうのに、
スリランカの仏教声明に映じるグレゴリオ聖歌の陰影は
聴き終えて数年を経ても明滅揺曳しています。
それはきっと、細胞のふるえと60兆の総体がしっかりと
延長されて、引き継がれているからなのでしょう。





試しに、ジスモンチの作品を思い、
虹彩が鼓膜に蒸着するような、
散弾が、心臓を穿って花を植え、消えていくような、
あの音に向けて、
耳を楽器にぴったりと寄せて、木霊を聴くようにして、
森の、黒緑のさざめく葉をかき分けて
黄金の燐粉のような光と、地のにおいに分け入るように
演奏に入ろうとするのですが、
土と常緑の葉の匂いは漂わず、
それはそう、僕は地熱と戯れたことがないのだから・・・





音が光の糸となってふるえ、群れ飛び、花となり、蝶となり、
鸚鵡となり、樹林となり、魚となり、
天衣無縫の線描で織りなす1枚の熱帯のタペストリーである
ジスモンチの音楽に、
おぼつかない、なにも知らない無防備さでちかづいていく、
そのおぼつかなさのみが、ぼくの持っている水盤であって、
胸の奥に嵌めこまれた水鏡です。





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ともにふるえているときの、どうしようもない心細さを
鍵盤をとおして灯に燈せるならば、と、おもっています。
高島野十郎の、あの蝋燭の絵のように音もなく、しかし
途方もない強さで灯っている、静謐な、
光でも闇でもない、焔の気配を、分かち合うようにして。





フリューゲル、という、翼を意味するドイツ語が、
ピアノという楽器を意味もします。
翼の起こす風によって立ち消えることのない焔であって
ほしいものだと、鍵盤の前で聾唖となって祈り、
試み、試み、試み、試み、
なにか、美しいものを、石にしてから投げこみます。





ちゃぽん、と、
聴こえますか。








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