2月23日、高槻の社員寮から引越しをした妹の部屋の
リフォームを手伝いに、車で西宮・神戸方面へ赴いた。
*****************************
新名神高速道路の開通によって、我が家から名神吹田まで
1時間25分、西宮インターまで1時間40分の所要となり
大阪方面への交通アクセスが至極便利となった。
無論それは、気象条件が整っていての話である。
23日の夜から寒波が日本上空を覆うという情報は得ていたが
まず大雪にはならないだろう、早めに帰れば無事だろう、と
予断していたため、ノーマルタイヤのままで出発した。
京滋バイパスでは横風の強さで車が左右に振られたものの
空は青く、尼崎を過ぎる頃には日差しも暖かだったことから
大丈夫だな、と考えていたのだが、
妹の家でのリフォーム作業のさなかにふと外を眺めると、
まるで晩秋の日本海側の天気のように俄かに空は太陽を呑んで
橙色を帯びている重苦しい鉛の雲が一面に広がり、
時折雪が激しく舞うようになった。
これはまずい、ということになり、妹手製のカレーを慌しく
かき込んで、7時半、妹の家を後にした。
交通情報では名神関ヶ原方向が雪による速度規制にあるとの
ことだったために、新名神高速を通って帰ることとした。
中途、国道2号線西宮~尼崎間の関西圏ドライバーの運転の
荒さ、乱暴さ、マナーの悪さに辟易しつつ、
8時、名神尼崎から高速に入った。
外気温の急降下は、車載の気温計に示された1度という表示で
把握していたのだが、
茨木を過ぎた辺りで、ヘッドライトが舞来る雪を照らし始めた。
ボルボにはABSのほか、スノーモードも搭載されており、
雪に強いように設計されてはいるのだが、
いかんせん履いているのはノーマルタイヤであり、それだけでも
雪道を走るには致命的である。
幸い京滋バイパスでは雪に見舞われず、何とか草津から新名神へ
入ることが出来たのだが、路面は少しずつ凍り始めていた。
そして、草津から信楽へと進んだところで、辺りは突如猛吹雪と
なった。
草間弥生が見ているのはこういう景色なのだろうか、と思うような
無数の白い雪がこちらへと乱れながら吹き寄せてくるような車窓。
路面は一面の白色、もはや高速走行出来るような状態ではない。
行けるところまで行かないとまずい、という焦りからめまいもし、
いよいよ土山を過ぎたところで吹雪で視界が効かなくなったため、
午後9時、土山SAに退避した。
車を降りると、辺りは一面10センチほどの積雪であり、スキーには
理想的な、さらさらとした雪の質、
広大な駐車場に積もった雪は強風にあおられてブリザードのようで、
これ以上の走行の不可能と車中泊を覚悟させるに十分な光景だった。
ガソリンも心細い残量であったことから、そろそろと車を給油所へ
走らせると、本線を走る除雪車が見えた。
それならば除雪車についていって、何とか行ける所まで、と覚悟し
再び本線上に車を運び、猛吹雪、視界100mの中、
時速50kmでそろそろと走り、何とか鈴鹿峠を越え、亀山に抜け、
這々の体で、10時半に帰着することが出来た。
雪道でのボルボの強さを実感したとはいえ、ノーマルタイヤでの
高速道路走行という命がけの行為を余儀なくされたおかげで、
心身がひどく疲労した。
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2月24日、三重県川越町で開催された、舘野泉のコンサートを
鑑賞した。
2005年5月31日付の僕のブログの記事にあるひとであり、
北欧音楽のエクスパートであったのだが、
脳溢血により右半身の自由を失って以降、左手のための作品を
取り上げて、演奏活動を行っている。
右足を引きずり、ステージに登場した舘野の姿はやはり病の
後遺症を感じさせた。
やや紅潮した顔貌と、姿勢の均整の危うさ、
そして、両の手の肉付きの違い。
依然として柔軟で発達した筋肉を保っているふくよかな左手と、
萎縮して、すっかり筋肉の落ちてしまった小さな右手とは、
大きさ、太さ、強さのいずれにおいても大きな落差があった。
かつて鍵盤に、セブラックのやわらかな飛翔を刻んだその右手が
いまは小さく畳まれているのを眺めているだけでも、
ピアニストの端くれとして、単なる痛々しさやつらさといった
言葉では述べつくせないような、悲しみ、痛みが心を覆った。
受難ともいうべきその感情は、バッハ=ブラームス編曲による
「シャコンヌ」の、確固たる造形と構成のなかにも決して解消は
されなかった。
ピアノという楽器は、もともと左手のみで弾くようには設計を
されていない。
それゆえに、左手のための作品というものも数が少ない。
したがって舘野のコンサートは、その選曲構成が極めて近寄った
ものになってしまう。
そのために、彼自身が委嘱し、あるいは献呈されるかたちで、
作曲家による左手のための作品が作られ始めているようだ。
スクリャービンによる、ショパンの色彩を色濃く反映させた
初期作品に続いて、間宮芳生による「風のしるし」が演奏された。
身体を激しくねじり、時として椅子から崩れ落ちそうになりながら
舘野が弾く音は、凛として峻厳であり、白色であり、
作品に対する敬意と、真摯な態度とひたむきな追求、細心の注意が
払われた奏法によって生み出されている。
情念の音楽は、聴くものの脳髄の前部に、煮凝りのような澱みを
残すのだが、
舘野の音は、耳から入っても脳髄を震わさずに、頭蓋骨と脳の
その間を、絹でなでるようにして去って行く。
轟音が、とても静かに響く。
芳香はないが、確固たる造形意識に支えられた純真で無垢な音楽は
演奏者という主体の肉感を消していき、安らかな焔のような祈りの
なかで、聴衆の前にそっと現れて、そっと吹いて、消えて行く。
緻密に設計された音の配列は、必ずしも聴衆の耳に心地よくは
響くことがない。
しかし、舘野は作曲者との誠実な対話の中に、凡百の人間とは
すこし違った形で、音の中に生きていた。
譜をめくるアシスタントの女性が、終盤、舘野の傍らで涙を
流していた。
コンサートの白眉は、吉松隆による「タピオラ幻景」だった。
71歳となり、技巧面では左手にも老いが忍び寄っている舘野は
多くのミスタッチをし、明らかに鍵盤を捉えられない動きも
見受けられた。
しかし、この曲において、舘野は表現衝動を初めて剥き出しにし、
時にコントロールを失いそうになりながら、自らの現在の演奏の
能力の限界を超えようとする激しさを見せた。
彼の左手が、時に右手となっているのを感じた。
間宮の作品があくまでも純粋芸術の中にあるのに対して、
吉松の作品は、舘野が舘野自身を超えられるように、という祈りと
願いをもって、実際にそうさせるように作曲された素晴らしいもので、
舘野自身もそれを信頼しているかのように、安心して難曲に挑み、
それを楽しんでいるようだった。
事実、コンサートの後半はすべて吉松の作品が演奏され、
作曲者と演奏家がそれぞれを尊敬し、信頼していることの証が音に
現れていて、すがすがしい時間が過ぎていった。
そして、最終曲の終盤に、心ではなく、体が震えた。
アンコール、カッシーニ=吉松編曲による「アヴェ・マリア」が
演奏され始めて数秒たったとき、頬を涙が伝って、
そのまま、コンサートが終わるまで、止まらなかった。
****************************
帰宅して、即興を試みたとき、
音楽は、すぐそこにあった。
雪の嵐を超えて、音の風を過ぎてきて、
いびつな指の影に時が消えることが、とても穏やかだった。
舘野さん、ありがとうございました。
リフォームを手伝いに、車で西宮・神戸方面へ赴いた。
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新名神高速道路の開通によって、我が家から名神吹田まで
1時間25分、西宮インターまで1時間40分の所要となり
大阪方面への交通アクセスが至極便利となった。
無論それは、気象条件が整っていての話である。
23日の夜から寒波が日本上空を覆うという情報は得ていたが
まず大雪にはならないだろう、早めに帰れば無事だろう、と
予断していたため、ノーマルタイヤのままで出発した。
京滋バイパスでは横風の強さで車が左右に振られたものの
空は青く、尼崎を過ぎる頃には日差しも暖かだったことから
大丈夫だな、と考えていたのだが、
妹の家でのリフォーム作業のさなかにふと外を眺めると、
まるで晩秋の日本海側の天気のように俄かに空は太陽を呑んで
橙色を帯びている重苦しい鉛の雲が一面に広がり、
時折雪が激しく舞うようになった。
これはまずい、ということになり、妹手製のカレーを慌しく
かき込んで、7時半、妹の家を後にした。
交通情報では名神関ヶ原方向が雪による速度規制にあるとの
ことだったために、新名神高速を通って帰ることとした。
中途、国道2号線西宮~尼崎間の関西圏ドライバーの運転の
荒さ、乱暴さ、マナーの悪さに辟易しつつ、
8時、名神尼崎から高速に入った。
外気温の急降下は、車載の気温計に示された1度という表示で
把握していたのだが、
茨木を過ぎた辺りで、ヘッドライトが舞来る雪を照らし始めた。
ボルボにはABSのほか、スノーモードも搭載されており、
雪に強いように設計されてはいるのだが、
いかんせん履いているのはノーマルタイヤであり、それだけでも
雪道を走るには致命的である。
幸い京滋バイパスでは雪に見舞われず、何とか草津から新名神へ
入ることが出来たのだが、路面は少しずつ凍り始めていた。
そして、草津から信楽へと進んだところで、辺りは突如猛吹雪と
なった。
草間弥生が見ているのはこういう景色なのだろうか、と思うような
無数の白い雪がこちらへと乱れながら吹き寄せてくるような車窓。
路面は一面の白色、もはや高速走行出来るような状態ではない。
行けるところまで行かないとまずい、という焦りからめまいもし、
いよいよ土山を過ぎたところで吹雪で視界が効かなくなったため、
午後9時、土山SAに退避した。
車を降りると、辺りは一面10センチほどの積雪であり、スキーには
理想的な、さらさらとした雪の質、
広大な駐車場に積もった雪は強風にあおられてブリザードのようで、
これ以上の走行の不可能と車中泊を覚悟させるに十分な光景だった。
ガソリンも心細い残量であったことから、そろそろと車を給油所へ
走らせると、本線を走る除雪車が見えた。
それならば除雪車についていって、何とか行ける所まで、と覚悟し
再び本線上に車を運び、猛吹雪、視界100mの中、
時速50kmでそろそろと走り、何とか鈴鹿峠を越え、亀山に抜け、
這々の体で、10時半に帰着することが出来た。
雪道でのボルボの強さを実感したとはいえ、ノーマルタイヤでの
高速道路走行という命がけの行為を余儀なくされたおかげで、
心身がひどく疲労した。
******************************
2月24日、三重県川越町で開催された、舘野泉のコンサートを
鑑賞した。
2005年5月31日付の僕のブログの記事にあるひとであり、
北欧音楽のエクスパートであったのだが、
脳溢血により右半身の自由を失って以降、左手のための作品を
取り上げて、演奏活動を行っている。
右足を引きずり、ステージに登場した舘野の姿はやはり病の
後遺症を感じさせた。
やや紅潮した顔貌と、姿勢の均整の危うさ、
そして、両の手の肉付きの違い。
依然として柔軟で発達した筋肉を保っているふくよかな左手と、
萎縮して、すっかり筋肉の落ちてしまった小さな右手とは、
大きさ、太さ、強さのいずれにおいても大きな落差があった。
かつて鍵盤に、セブラックのやわらかな飛翔を刻んだその右手が
いまは小さく畳まれているのを眺めているだけでも、
ピアニストの端くれとして、単なる痛々しさやつらさといった
言葉では述べつくせないような、悲しみ、痛みが心を覆った。
受難ともいうべきその感情は、バッハ=ブラームス編曲による
「シャコンヌ」の、確固たる造形と構成のなかにも決して解消は
されなかった。
ピアノという楽器は、もともと左手のみで弾くようには設計を
されていない。
それゆえに、左手のための作品というものも数が少ない。
したがって舘野のコンサートは、その選曲構成が極めて近寄った
ものになってしまう。
そのために、彼自身が委嘱し、あるいは献呈されるかたちで、
作曲家による左手のための作品が作られ始めているようだ。
スクリャービンによる、ショパンの色彩を色濃く反映させた
初期作品に続いて、間宮芳生による「風のしるし」が演奏された。
身体を激しくねじり、時として椅子から崩れ落ちそうになりながら
舘野が弾く音は、凛として峻厳であり、白色であり、
作品に対する敬意と、真摯な態度とひたむきな追求、細心の注意が
払われた奏法によって生み出されている。
情念の音楽は、聴くものの脳髄の前部に、煮凝りのような澱みを
残すのだが、
舘野の音は、耳から入っても脳髄を震わさずに、頭蓋骨と脳の
その間を、絹でなでるようにして去って行く。
轟音が、とても静かに響く。
芳香はないが、確固たる造形意識に支えられた純真で無垢な音楽は
演奏者という主体の肉感を消していき、安らかな焔のような祈りの
なかで、聴衆の前にそっと現れて、そっと吹いて、消えて行く。
緻密に設計された音の配列は、必ずしも聴衆の耳に心地よくは
響くことがない。
しかし、舘野は作曲者との誠実な対話の中に、凡百の人間とは
すこし違った形で、音の中に生きていた。
譜をめくるアシスタントの女性が、終盤、舘野の傍らで涙を
流していた。
コンサートの白眉は、吉松隆による「タピオラ幻景」だった。
71歳となり、技巧面では左手にも老いが忍び寄っている舘野は
多くのミスタッチをし、明らかに鍵盤を捉えられない動きも
見受けられた。
しかし、この曲において、舘野は表現衝動を初めて剥き出しにし、
時にコントロールを失いそうになりながら、自らの現在の演奏の
能力の限界を超えようとする激しさを見せた。
彼の左手が、時に右手となっているのを感じた。
間宮の作品があくまでも純粋芸術の中にあるのに対して、
吉松の作品は、舘野が舘野自身を超えられるように、という祈りと
願いをもって、実際にそうさせるように作曲された素晴らしいもので、
舘野自身もそれを信頼しているかのように、安心して難曲に挑み、
それを楽しんでいるようだった。
事実、コンサートの後半はすべて吉松の作品が演奏され、
作曲者と演奏家がそれぞれを尊敬し、信頼していることの証が音に
現れていて、すがすがしい時間が過ぎていった。
そして、最終曲の終盤に、心ではなく、体が震えた。
アンコール、カッシーニ=吉松編曲による「アヴェ・マリア」が
演奏され始めて数秒たったとき、頬を涙が伝って、
そのまま、コンサートが終わるまで、止まらなかった。
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帰宅して、即興を試みたとき、
音楽は、すぐそこにあった。
雪の嵐を超えて、音の風を過ぎてきて、
いびつな指の影に時が消えることが、とても穏やかだった。
舘野さん、ありがとうございました。
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