ボルボの車中に、1960年3月29日パリでの実況録音による
カウント・ベイシーを流しながら、
一路、四日市社会保険病院へと走る。
年の瀬の国道一号線は、ショッピングセンターや各種レジャーへ
繰り出さんとする人々の車で激しい渋滞となっていた。
30分ほど走り、ちょうどBlues In Hoss Fratのあたりで到着、
移動型輸液装置を取り付けたバストロ吹きに数ヶ月ぶりに再会。
敷地内とはいえ、トタンで囲われただけの寒風吹きすさぶ屋外の
喫煙ブースにて、温かい飲み物を飲みながら煙草を燻らせつつ、
雑談。
その後屋内の談話室にて、近況等、他愛もない話を交わす。
手術を控えているとはいえ、ずいぶんふくよかになった姿に
安心する。
5月に豊中病院で会ったときの、枯れ枝のような四肢を
引きずるようにして歩いていた痛々しい姿が焼きついていたから、
素直に、うれしくもあった。
この数年の、彼の内側の葛藤がいかばかりであったのか、
僕は思い巡らせて共振することしか出来ないけれども、
彼がそのことを口にしない限りは、僕も聞く事はしない。
それが礼節というものだろう。
帰り際、Who Meを大音量で車中から再生して快癒を祈る。
彼がこの一月を過ごしている病院では、夕刻、館内放送で
オールドベイシーやエリントンが流れるという。
阪急梅田駅の館内放送でドルフィーのファイア・ワルツが
大音量で流れていた2000年の冬を思い出した。
**************************
僕の弾く「幻想即興曲」が聴きたい、というひとがいて
そのリクエストに答えることにした。
練習を重ねているのだが、なかなかうまくいかない。
手首の硬さ、開かない手のひら、短い小指、
ぼくの手の特性のいずれもが、ショパンを弾くのには
向いていない。
けれど、どうしても応えてあげたいという思いから、
自分の演奏力に苛立ち時に鍵盤を殴りつけながらも
練習を重ねている。
そもそもぼくが誰かに請われて、そのリクエストに
応えるべく曲を練習したというのは、
高校時代に一度あったきりのことだ。
それは、当時の彼女と付き合い始めるほんの少し前に、
エルトン・ジョンの「ユア・ソング」を弾き語りで
聞かせて欲しい、とせがまれてのことだった。
ぶっきらぼうに僕の机の上にぽん、とCDを置いて、
たった一言、「聴かせて」とだけ言われたことを
覚えている。
CDを何度も聴いて、覚えて、指に映し、
次いで、歌にした。
数日後の音楽の授業のあと、無言で彼女の肩を叩き、
手を引いてピアノの前に彼女を連れてきて、
おもむろに弾き始めた。
演奏が終わったあと、彼女は「ありがとう」と言って
軽く僕にキスをした。
あれからもう、10年が経った。
*************************
僕の手の中には、さまざまの温度が宿っている。
肉親の亡骸の冷たさも、涙する女性の背中の温かさも、
演奏を終えて感謝に上気する共演者の熱さも、
この手の中にいまも潜んでいる。
僕に「幻想」をせがんだひとが涙しているとき、
差し出した手を彼女はぎゅっと、力強く握り返した。
その温度を手がかりにして、僕は「幻想」を弾いている。
はかなさではない、一種の凛とした強さを宿すような
叙情性の表現と、激しい波動の対比とを貫通する
一条のまっすぐに差し込む光を思いながら。
ショパンの手の動きの追体験をしながら、
いわば、ショパンの手となりながら。
ショパンの身体そのものになって、呼吸し、音を掘り下げ、
また音に包まれながら、
空虚なる音の羅列に、僕自身を充填していく。
そうして弾き出された音が、
彼女のなかの病を、少しでも軽くできるように、そして、
彼女の生に、響き渡ってほしいという、祈りのようなこころで、
この曲に向かっている。
***************************
弾きつかれて、何気なく弾き始めた即興の最中、
ぼくは自らに響く音の力に揺さぶられて泣き出してしまった。
自分の音に対する陶酔でもなく、様々な想念に引き裂かれた
わけでもなく、
音に求められているようにして、ただ指を落としていたとき、
音がこころとなっただけのことかもしれない。
カウント・ベイシーを流しながら、
一路、四日市社会保険病院へと走る。
年の瀬の国道一号線は、ショッピングセンターや各種レジャーへ
繰り出さんとする人々の車で激しい渋滞となっていた。
30分ほど走り、ちょうどBlues In Hoss Fratのあたりで到着、
移動型輸液装置を取り付けたバストロ吹きに数ヶ月ぶりに再会。
敷地内とはいえ、トタンで囲われただけの寒風吹きすさぶ屋外の
喫煙ブースにて、温かい飲み物を飲みながら煙草を燻らせつつ、
雑談。
その後屋内の談話室にて、近況等、他愛もない話を交わす。
手術を控えているとはいえ、ずいぶんふくよかになった姿に
安心する。
5月に豊中病院で会ったときの、枯れ枝のような四肢を
引きずるようにして歩いていた痛々しい姿が焼きついていたから、
素直に、うれしくもあった。
この数年の、彼の内側の葛藤がいかばかりであったのか、
僕は思い巡らせて共振することしか出来ないけれども、
彼がそのことを口にしない限りは、僕も聞く事はしない。
それが礼節というものだろう。
帰り際、Who Meを大音量で車中から再生して快癒を祈る。
彼がこの一月を過ごしている病院では、夕刻、館内放送で
オールドベイシーやエリントンが流れるという。
阪急梅田駅の館内放送でドルフィーのファイア・ワルツが
大音量で流れていた2000年の冬を思い出した。
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僕の弾く「幻想即興曲」が聴きたい、というひとがいて
そのリクエストに答えることにした。
練習を重ねているのだが、なかなかうまくいかない。
手首の硬さ、開かない手のひら、短い小指、
ぼくの手の特性のいずれもが、ショパンを弾くのには
向いていない。
けれど、どうしても応えてあげたいという思いから、
自分の演奏力に苛立ち時に鍵盤を殴りつけながらも
練習を重ねている。
そもそもぼくが誰かに請われて、そのリクエストに
応えるべく曲を練習したというのは、
高校時代に一度あったきりのことだ。
それは、当時の彼女と付き合い始めるほんの少し前に、
エルトン・ジョンの「ユア・ソング」を弾き語りで
聞かせて欲しい、とせがまれてのことだった。
ぶっきらぼうに僕の机の上にぽん、とCDを置いて、
たった一言、「聴かせて」とだけ言われたことを
覚えている。
CDを何度も聴いて、覚えて、指に映し、
次いで、歌にした。
数日後の音楽の授業のあと、無言で彼女の肩を叩き、
手を引いてピアノの前に彼女を連れてきて、
おもむろに弾き始めた。
演奏が終わったあと、彼女は「ありがとう」と言って
軽く僕にキスをした。
あれからもう、10年が経った。
*************************
僕の手の中には、さまざまの温度が宿っている。
肉親の亡骸の冷たさも、涙する女性の背中の温かさも、
演奏を終えて感謝に上気する共演者の熱さも、
この手の中にいまも潜んでいる。
僕に「幻想」をせがんだひとが涙しているとき、
差し出した手を彼女はぎゅっと、力強く握り返した。
その温度を手がかりにして、僕は「幻想」を弾いている。
はかなさではない、一種の凛とした強さを宿すような
叙情性の表現と、激しい波動の対比とを貫通する
一条のまっすぐに差し込む光を思いながら。
ショパンの手の動きの追体験をしながら、
いわば、ショパンの手となりながら。
ショパンの身体そのものになって、呼吸し、音を掘り下げ、
また音に包まれながら、
空虚なる音の羅列に、僕自身を充填していく。
そうして弾き出された音が、
彼女のなかの病を、少しでも軽くできるように、そして、
彼女の生に、響き渡ってほしいという、祈りのようなこころで、
この曲に向かっている。
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弾きつかれて、何気なく弾き始めた即興の最中、
ぼくは自らに響く音の力に揺さぶられて泣き出してしまった。
自分の音に対する陶酔でもなく、様々な想念に引き裂かれた
わけでもなく、
音に求められているようにして、ただ指を落としていたとき、
音がこころとなっただけのことかもしれない。
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