白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

TOY

2006-10-14 | 音について、思うこと
午前11時から練習を始め、
バッハ、ドビュッシーを弾きこむ。
ケニー・ホイーラーの『gnu high』から
「heyoke」「smatter」を、探りながら
弾き進めた後、キース・ジャレットの
「paint my heart red」を素描し、
即興の試行錯誤へと移る頃にはどっぷりと
日は暮れて、いつのまにか午後8時。




これほど楽器を弾きこんだのは久々のことで、
心配していた視野狭窄や極度の疲労感もなく、
目に映る光景が溶解することもなかった。
自分の技巧の稚拙さが、こぼれ出る音符を
拾いきれぬうらみは、いつものこと。
練習をすればするほど、自分の至らなさを
嫌というほどに自覚することになるけれど、
それもまあ、いつものこと。




淡々と弾き進め、あるいは感情を込めて
何度も、異なる弾き方を試す。
全く同じ音使いからの展開であっても、
その弾き進める方法の差異によって、
全く異なる音使いが導かれる。




あるいは、完全なる再現を目指しているのに
どうしても「差異」が生じること、
その不随意性を逆手に取って
音を統べることの不可能を再確認する。




どうやって弾いているのか、
どうやって思いつくのか、と聴かれても、
自分でもそれをどうやっているのか
必ずしもわかってやっているわけではないから、
指に導かれる、とか、頭蓋の内に湧き出して
溢れ、零れようとするものを拾う、という
言葉にしか出来ないときもある。




今日はいい音遊びをしたように思う。
けれど、ピアノをおもちゃにしてしまうことの贅沢を
味わうことが許されているのは、
考えてみれば、もったいない話でもある。




公開演奏の日取りもそろそろ決まる。
どのような音からはじめるのか、
僕にもわからない。
一期一会のその場所に、たった一度だけ
現れるかもしれない「音楽」のために、
精一杯準備をして、こころを砕き、
音の現れを待つだけだ。




まだ、音はどこにも生まれていない。


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