白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

ことばにしない

2006-06-28 | 日常、思うこと


・・・・・・・・・・・・・・。




書かないほうがいいこともある。
だから、書かないことにする。





7月の3連休、京都国立近代美術館へ藤田嗣治展を
観にいこうと思うのだが、
せっかくだから、誰か一緒に、と思うのだが、
僕からの誘いは断りにくいので困る、という話が
あるらしいということを聞いたりして、
それでは僕はもう、誰をも、何事にも誘えないのでは
ないか、と思うようにもなり、
(それは必然、遊びや飲み会や音楽や、いわゆる全ての
 物事を指しているわけで)
僕が発作の持病があることや人格的に拒絶したい何がしらを
持っていることや、
僕が誘った相手の安寧な生活が乱れることに対する拒否に
端を発したものであるのであればまだいいとして、




単なる僕への気づかいや同情が、誘った相手の功利心や
打算によって、自分をよく見せるための化粧に使われるという
ことなのであれば、どうすればいいのだろうか。




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「ぼくはあなたのために身を粉にして働きましたよ。
 ほら、そのせいで、ぼくの右半身は無いでしょう?」





こういう冗談がわかる人間が、近くにいてくれたら。





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空気は光の粉であり、
水は光の溶液である、というようなことを語ったのは
中村彝だった。
彼の絵を見ていると、カンヴァスの色彩の形象の群れから
質感に満ちた風が穏やかに吹き寄せてくるのを感じる。
明治後期から昭和初期の日本人画家の描いた作品の多くは
芸術が芸術と信じられているが故の陰鬱さ、暗さに満ちて、
鮮血を滴らせながら、澄明なる光と美を求めている。
彼の絵とて、その例外ではないのだが、
その詩性の天分が、鮮血に満ちた苦悩の鉄臭さを消している。




苦しみ無く、淀みなく、「ひとりでに描けてしまう」画家の
その筆致が藤田にはある。
ダリのように、饒舌に語ることもなく、
その淀みのない筆致が、画家の狂気を隈なく照射してしまう。
その狂気に、なんらの生理臭を感じないという部分が、
芸術家の天才の証明なのだろうか。




・・・と、坂本繁二郎の自伝を読みながら、そんなことを思った。
坂本繁二郎は青木繁と同郷・同世代の画家である。
冷静沈着で寡黙な知性が物する文章は明快で心地よい。
奔流して狂熱的であるか、精密で凍結しているか、といった
皮膚感覚的かつ聴覚的な読み方をしがちな僕には、
画家の文章の、そのデッサン性・視覚性、つまり物事に対する
大局観と細密なディテールが、文体の中から鮮明に映像化されて
浮上してくるさまが新鮮であり、ぼくを上手に挫折させてくれる。
それはとてもありがたいことだ。





上手に挫折させてくれるものにこそ感謝する。




それが、表現を試みるものにとって重要なことだ。
けれど、けっしてそれを口に出してはいけない。
褒めてもいけない。
讃えてもいけない。




ことばにできないものはある。
beyond description という言い回しもあるくらいだ。
また、ことばにしなければ伝わらないこともある。
けれど、ことばにしない、ということがたいせつなときもある。




それは、礼節だからである。




ぼくは、礼節を知らない。
だから、ここで、確認をする。




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youtubeにて、トスカニーニの指揮するベートーヴェンを
視聴した。
贔屓にしている蕎麦屋に久々に行き、その美味さを改めて確認して
顔もほころばせずに納得して帰るような心持、
その情緒性を抜きにした「得心」の喜びというべきか、
最近感じるようになったこの心情は、退化か、老いか、それとも。


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2 コメント

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Unknown (カン朝名人)
2006-07-02 10:37:33
初めてコメントさせていただきます。

(デリカシーのない名前ですみません)

illyちゃんのところから来ました。

何度か、いろいろ読ませてもらっている間に

「自分が無くしてしまったモノ、コト、キモチ」があまりにたくさんあったことを実感しました。



返信する
すごいお名前ですね (lanonymat)
2006-07-02 20:50:20
お子さんのことですよね。





コメントありがとうございます。

illyから少しだけですが、あなたのことを聞いた記憶が

あります。





まだ26歳の僕が言うことでもないのでしょうけれど、

無くそうとして無くすものなど一握りしかなくて、

実はほとんどは、「忘れてきた」とか「置き去りにした」

とか、そういうものなのではないか、と思ったりします。





ひょっとすると、誰かの手に渡って、さまざまに流転を

した後に、

ある日、あなたがたまたま通りかかった道で、

その忘れ物に気づき、拾い上げたのかもしれません。

それが今の自分にとっても必要なものならば、

拾い上げて持ち帰ればいいのでしょうし、

不要なものならば、それを見過ごしたり、眼をつむるのも

いいのでしょう。





僕の文章が、暗がりにあなたが置き忘れた物を照らす

一条の光となることがあったのなら、うれしく思います。

僕の文章が僕の手を離れて、誰のものでもなくなった事の

証でもありますしね。
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