MRJが撤退することになった。
MRJ(三菱リージョナルジェット)とは、旧名称で、
今は「スペースジェット」と呼ばれている。
2008年、プロジェクトをスタート。
国産初のジェット旅客機として期待されていた。
2013年には最初の顧客である全日本空輸への納入を予定していたが、
技術力の不足などでトラブルが相次いで
6度にわたる納期の遅れが生じ、
当初1500億円としていた開発費は
1兆円規模に膨らんだ。
コロナ禍の2020年には、
航空需要の回復が見通せないとして、開発を凍結、
開発の継続には、年間1000億円規模の費用がかかる上、
今の市場環境では採算性の確保が難しいとして
撤退することが正式に決まったのだ。
「日の丸ジェット」とも呼ばれ、
官民が連携して巨額の開発費が投じられたプロジェクトは、
事業として実現することなく、
ついに終わりを迎えた。
MSJは、90席クラスの小型機体で、
1962年に初飛行したプロペラ機「YS-11」以来となる
日本の航空機産業を育成する官民肝煎りの一大プロジェクトだった。
三菱重工は開発中止の理由について、
新型コロナウイルス禍から航空市場が回復した後も、
座席が100未満の小型ジェット旅客機「リージョナルジェット」
の市場規模が見通しにくいことや、
脱炭素化に向けた電動化への対応が必要な点などを挙げた。
開発が長期化したことで、技術面の競争力が低下したことも影響したという。
また機体の安全性を証明する型式証明の取得には
さらに巨額の資金(1000億円)を要するほか、
海外パートナーの協力確保が困難なことや
足元でのパイロット不足の影響で
小型ジェット機の市場規模が不透明な点などを挙げた。
結果、「事業性を見いだせなかった」と説明。
これまでにの開発で培った経験や人材を、
次期戦闘機の開発などに生かす考えだという。
三菱重工は今後は日本と英国、イタリアの3カ国で
2035年の配備に向けて次期戦闘機の開発をめざしている。
わが国の航空機開発の技術、能力の向上には寄与したものとも捉えられる。
国産初のジェット旅客機の開発に失敗したことは、
大変残念でならない。
「技術のニッポン」は、どこへ行った。
一方、衝撃的なニュースも飛び込んで来た。
米中に次ぎ世界第3位の日本の名目国内総生産(GDP)が、
経済の長期停滞などを受けて
近くドイツに抜かれ、
4位に転落する可能性が出てきたという。
国際通貨基金(IMF)の経済見通しでは、
22年の名目GDP(予測値)は
3位の日本が4兆3006億ドル(約555兆円)なのに対し、
4位のドイツは4兆311億ドルで、
ドイツが約6. 7%増えれば逆転することになる。
IMF予測では23~27年は辛うじて逆転を免れるものの、
23年時点(予測値)でその差は約6.0%に縮小する。
第一生命経済研究所の熊野英生首席エコノミストの試算では、
仮に今年のドル円相場が年間平均で1ドル=137円06銭より円安に振れれば
順位が入れ替わる計算という。
日本の名目GDPは高度経済成長期の1968年に西ドイツを抜き、
米国に次ぐ2位となった。
だが、2010年には台頭する中国に抜かれて3位に転落し、
40年近く維持したアジア首位の座を奪われた。
GDPは、人口の多い国の方が有利だから、
米国、中国の後塵を拝するのは、ある意味仕方ない。
しかし、ドイツにまで負けるとは。
日本のおよそ1億2千万人に対しドイツは8千万人にとどまる。
14億人を超える中国に抜かれたのは仕方ないとしても、
なぜドイツに追い付かれたのだろうか。
専門家の分析では、
大きく影響したのは円安の進行と、
名目GDPを引き上げる物価上昇率の低さだという。
円安に伴うドルベースの経済規模の縮小に加え、
「日本病」とも揶揄される低成長が経済をむしばんだ結果だ。
専門家は企業の労働生産性や国際競争力を高める政策をテコ入れしなければ、
遅くとも5年以内には抜かれる可能性が高いと警鐘を鳴らす。
日本の落日は近いのか。
MRJからの撤退に際し、
「これまでにの開発で培った経験や人材を、
次期戦闘機の開発などに生かす」
というが、それは可能だろうか。
その点で、
NHKで1月23日に放送された
「映像の世紀」の「零戦その後の敗者の戦い」が興味深い。
日本の工業技術の粋を集めて開発された「零式戦闘機」。
欧米のどんな技術も届かない高性能のものだった。
真珠湾攻撃などに投入され、米軍から恐れられた。
米国の海軍将校だったリンドン・ジョンソンは
「ゼロ戦は手強い」として、ゼロ戦対策の教育映画を作り、
パイロット役はのちに大統領となるレナルド・レーガンが務めた。
米軍は、ゼロ戦と戦うときは2対1で戦うように、と指導した。
敗戦後、GHQにより日本の航空産業は解体され、
零戦は燃やされ、研究開発の一切が禁じられた。
零戦の設計者堀越二郎は「自分は職業の選択に失敗した」と思ったという。
すべてを否定された技術者たちは、絶望の淵に落とされた。
しかし、ここから敗者の戦いが始まった。
1949年、オリンパス光学の杉浦睦夫は、
海軍の技術者で零戦の機銃の同調発射装置
(回転するプロペラの間隙を縫って弾丸を発射する装置)
を担当した
深海正治と共に胃カメラの開発を始めた。
胃カメラは零戦の機銃の内部の検査装置とよく似ていた。
胃カメラは翌年完成し、
その後のガンの早期発見に大きく寄与した。
中島飛行機にいて戦闘機「隼」の設計に関わり、
戦後、東大生産研究所にいた糸川英夫は、
宇宙ロケットの研究を始めた。
零戦のエンジン「栄」を作った中川良一が取締役をしていた
富士精密工業が協力してくれて、
材料や資金、それに、若手10人も付けてくれた。
糸川はペンシル・ロケットを開発し、
1957年、国際地球観測年に当たって、
ペンシル・ロケットの23倍の大きさのロケットを
高度60㎞まで打ち上げ、大気の観測に成功した。
1964年10月1日、東海道新幹線が開通した。
新幹線の開発にもやはり、
戦時中の兵器開発チームが
国立鉄道技術研究所に入って活躍した。
零戦の振動の解析を行なった松平精が
新幹線の振動解析装置を作った。
また、空気バネも開発した。
新幹線の先頭の流線形を設計したのは、
爆撃機「銀河」を設計した三木忠直だった。
堀越は一時、田舎にこもって、農機具などを製作していたというが、
1956年に通産省から国産旅客機の開発を委嘱された。
戦闘機「飛燕」の設計者で、堀越の同級生の土井武夫と共に、
1964年に国産初のプロペラ旅客機YS-11を完成させた。
YS-11は、日本の空を駆け、
2006年8月30日、最後の飛行を行い、引退した。
ジェット時代に入り、プロペラ機が退くのは、必然だった。
その後、日本は長らく航空機の生産から撤退した。
だからこそ、MRJの開発には大きな期待がかけられていたのだ。
MRJからは撤退したが、
零戦と同じように、
敗者の復活は可能なのだろうか。
それとも、このまま、日本の落日は止まらないのか。
以前、紹介した本「総理にされた男」の最後に、
主人公が国民に向かってする演説は、こうだ。
「この国は既に輝く季節を過ぎたという者がいます。
疲弊した老人ばかりが多くなり、
未来には何の希望もないと言う者がいます。
しかしわたしはそうは思わない。
この国の人間は基本的に勤勉で、
我慢強く、思いやりがあって、思慮深い。
そんな国民に未来がないはずがない。
わたしたちにはまだ未来を創る力がある。
他人の幸福を願う力がある。
希望を見出す力がある。
この人生を素晴らしい冒険に変える力がある・・・」
日本の先人の技術の継承、
若者の飛躍に期待するしかないのか。
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