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小説『黒い蝶』

2023年06月10日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

5月21日のブログ『「エンタメ」の夜明け』で、


小谷正一というプロデューサーのことを紹介し、


彼がモデルとなった、井上靖の「闘牛」について
ブログに書いたが、
もう一つ、井上靖が小谷をモデルに書いたという小説、
「黒い蝶」を読んだ。

冒頭の写真は単行本の表紙だが、
図書館にはなく、
新潮社刊「井上靖全集」第11巻に掲載されているものを読んだ。


第11巻は、700ページで、
「黒い蝶」「射程」「氷壁」の3つの長編を収録。
この全集、二段組で600ページを越えるものが28巻+別巻1巻
文豪の筆はすごいものだと驚かされる。

「黒い蝶」は、
小谷が実施した
1955年2月のソ連のヴァイオリニスト、
オイストラッフの招聘に題材を取っている。
戦後初めて、国交のない鉄のカーテンの向こうから、
当時世界一といわれたヴァイオリニスト、
ダヴィート・フョードロヴィチ・オイストラッフ(1908-1974)を招いたもの。


実現のための高いハードルがいくつもあり、
ソ連の許可、アメリカの許可、政府の許可、
ギャラの交渉、事業の活動資金の調達、
なにより日ソ関係の動向。
これらすべてをクリアし、オイストラッフが実際に日本に来た時、
マスコミは“事件”として報じ、
社会的話題となり、
その演奏の素晴らしさは日本人を熱狂させた。

「闘牛」同様、実話に基づく、
招聘実録、と思ったら、全然違った

主人公は三田村伸作という、事業家だが、半分ペテン師
いろいろな事業に手を出しては失敗を繰り返し、
今日も計量器店を倒産させたばかり。
その夜、食堂で江藤弥介という男と知り合い、
病院にいる江藤の娘の死の床での言葉を聞き取るが、
「ムラビヨフ」という謎の言葉の意味が分からない。
やがて、ムラビヨフとは、
娘の憧れの世界的ヴァイオリニスト、
ソ連にいるムラビヨフだと分かる。
江藤は死んだ娘のためにムラビヨフを日本に招聘することを思いつく。
三田村はこの話に乗り、
招聘の運動費と称して江藤から金を引き出し、
自分の新しい事業に注ぎ込むが、
江藤の美しい妹・舟木みゆきはその魂胆を見透かしている。
三田村は、最初からムラビヨフは来ない、
と思っていたが、
いろいろな人が絡んでいるうちに、
瓢箪から駒で、ムラビヨフの招聘が成功してしまう・・・

三田村はしょうもないペテン師だが、
どことなく魅力的だ。
江藤という男は親の財産を引き継いだ富豪で、
気が小さく、人前では全く口がきけない。
お金に細かく、出資した金がちゃんと効果的に使われているか
催促するが、いつも三田村に言いくるめられる。
三田村が、その江藤の性格を利用して、
金を引き出すのが面白い。
もう一人、ヤクザな音楽家の左近豹太郎がからんで、
話を弾ませる。

三田村は、最初からムラビヨフが来るとは思っていないし、
みゆきも同様で、
三田村をペテン師だと見抜いている。
しかし、それが反動となって、
三田村の中に招聘に対する闘志に火がつくのだから、面白い。
いつの頃からか二人は惹きつけあう関係になっていた。

最後は、飛行機が羽田に到着して、
本当にムラビヨフが姿を現すかのサスペンス。
この時、三田村は、光の中に黒い蝶が飛翔するのを見る。
それは、ムラビヨフが付けていた蝶ネクタイだった。
これが題名の由来。
小説は、この場面で終わっている。

井上靖は、オイストラフの来日時、羽田空港に同行して、
「奇跡のヴァイオリニスト」が日本の地を踏むさまを取材していた。
その時、井上靖も黒い蝶を見たのだろうか。

井上は、こう書く。

左手にヴァイオリン・ケースを抱えているムラビヨフが
右手を高く掲げて笑うのがはっきり見えた。
大男ではあったが、スターリンとは似ても似つかぬ人物であった。
肉切庖丁を持たせれば肉屋にもなり、
アイロンを握らせれば洗濯屋にでもなるという
平凡な、柔和ないかにも庶民的な感じの人間であった。
向こうが笑いかければこちらも笑い返さずには居られないような、
そんな人物であった。

「黒い蝶」は井上靖唯一の書き下ろし長編

 



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