私は「森のようちえん」に勤めている。
森のようちえんの保育って、豊かな自然の中で育てたいという思いとともに、子どもの世界に大人が手を加えたくない、というような「自然」の意味も含まれている気がしていた。
子どもを自然に育てる、大人が口出ししない、子どもだけで考えて行動できるのを待つという理念を掲げてるところが多いように思う。
早期教育で大人が子どもの考える余地なく教え込むイメージが悪くて、その逆でもっと「自然に」「子どもが自ら育つ力を信じて」大人が子どもの世界に入らないように離れたところから観察しているような姿勢だった。愛あって見守る、子どもの邪魔をしない、子どもを尊重するあたたかい意図もあったのだが、大人が口出ししないという縛りが、子どもが困っている時にも手助けしにくく、そこにいる大人や子どもを苦しくしてるように感じた。私の今お仕事してる園の初期の頃は。
早期教育とも超自然派育児ともまた違う、真ん中のやり方があるのではないかと私は思った。
ケンカをやりきらせる、も一理あるけど、痛すぎたり、心に重すぎたりするケンカはもちろん、些細な心のすれ違いだって、幼い子の純粋無垢なハートで消化できるように、自分の思いを言葉にできるように丁寧に関わっていくことが大切だろうと思う。
それが幼児期には丁寧にできるのだと思う。小学生になれば、どんどん大人の目が届かなくなっていくので。
大人が一切手を加えず「子どもが一から実際に何かの形を作り上げる」ことよりも、適切なフォローを受けながら、安心して自分の力で目の前の何か興味があることに取り組んでみようとすること、僕私はできる!仲間と一緒なら何かができそうだ!この人たちなら自分の話を聞いてもらえそうだ、話してみよう!というような「希望」が心に満ちていればいいんだろうと思う。
それが財産になる気がする。
だから、森のようちえんであっても、大人と子どもの信頼関係や、子ども同士の仲間作りというのはとても重要だと私は思っている。
大人との信頼関係、安心感がベースになって、仲間や自然や自然物に目が向いていく。だから、ケンカを見ている保育、見殺しにする保育、なりゆきに任せる保育はとても違和感があったのだ。やっと今言葉にできる気がする。
だけど、幼児期に不安の中で育ったからって、人生が台無しになるかというとそうでもなく、誰だってどこからだって自分を満たしてやり直せるように思う。
みんな、人それぞれに親や環境を選んできて、自分の学びに必要な経験をしている。と私は思っている。
だから、色々な教育方法を否定することはできないんだと思う。
大人も子どももみんながそれぞれの人生に必要な経験をしていて、みんなに共通する最良の方法や普遍的な正解がないとしたら・・・今私がしている幼児教育ってなんなんだろう。
「希望にあふれた素敵な子どもを育てるため」というのは大義名分で、私が子どもに優しいおとなでいることによって、私が癒されている、学べている、子どもを尊重できたことで自分が尊重されたような。私が必要な経験をさせてもらっている。私の喜び、趣味嗜好、興味のためにやっているのだ、ということを自覚せざるを得ない。
趣味嗜好、興味では言葉が悪いだろうか。
私は情熱が勝手に沸いてくるというかなんというか。
私は子どものために幼児教育をやっています!と正義を押し付けてしまうくらいなら、自分が好きでやっているんです、というくらいの謙虚でフラットな心持ちがいいなと思った。
色々な方法を否定したり、自分が正しいと思ったりすることより大切なのは、自分がどうしたいか、その自分の思いを仲間と分かち合えるかどうか。
今仲間がいるから素直に書ける気がします。
これは、どんぐりの芽がどちらが長いか比べているところ。「どっちだと思う?」「どっちだろうね?」「わからん」そっと私が芽を伸ばしてみたらびょーんと伸びて長くなったので「すごい!」と目を丸くしていた。大人に思いを一生懸命伝えてきてくれる。信頼してくれているのを感じる。安心・満足したら周りに目が向いていき、少し難しいことに挑戦しようとしたり、友達と長い時間遊びたくなったりして大人の手を離れていく姿が見られた。
子ども同士の関係を急ぐ必要はなかったし、大人を頼ってきた時に、「自分でやって」「子ども同士で考えて」などと心の中で思ったりして、全力で受け応えることに迷ったり、突き放したりしなくてよかったと私は思う。
森のようちえんの保育って、豊かな自然の中で育てたいという思いとともに、子どもの世界に大人が手を加えたくない、というような「自然」の意味も含まれている気がしていた。
子どもを自然に育てる、大人が口出ししない、子どもだけで考えて行動できるのを待つという理念を掲げてるところが多いように思う。
早期教育で大人が子どもの考える余地なく教え込むイメージが悪くて、その逆でもっと「自然に」「子どもが自ら育つ力を信じて」大人が子どもの世界に入らないように離れたところから観察しているような姿勢だった。愛あって見守る、子どもの邪魔をしない、子どもを尊重するあたたかい意図もあったのだが、大人が口出ししないという縛りが、子どもが困っている時にも手助けしにくく、そこにいる大人や子どもを苦しくしてるように感じた。私の今お仕事してる園の初期の頃は。
早期教育とも超自然派育児ともまた違う、真ん中のやり方があるのではないかと私は思った。
ケンカをやりきらせる、も一理あるけど、痛すぎたり、心に重すぎたりするケンカはもちろん、些細な心のすれ違いだって、幼い子の純粋無垢なハートで消化できるように、自分の思いを言葉にできるように丁寧に関わっていくことが大切だろうと思う。
それが幼児期には丁寧にできるのだと思う。小学生になれば、どんどん大人の目が届かなくなっていくので。
大人が一切手を加えず「子どもが一から実際に何かの形を作り上げる」ことよりも、適切なフォローを受けながら、安心して自分の力で目の前の何か興味があることに取り組んでみようとすること、僕私はできる!仲間と一緒なら何かができそうだ!この人たちなら自分の話を聞いてもらえそうだ、話してみよう!というような「希望」が心に満ちていればいいんだろうと思う。
それが財産になる気がする。
だから、森のようちえんであっても、大人と子どもの信頼関係や、子ども同士の仲間作りというのはとても重要だと私は思っている。
大人との信頼関係、安心感がベースになって、仲間や自然や自然物に目が向いていく。だから、ケンカを見ている保育、見殺しにする保育、なりゆきに任せる保育はとても違和感があったのだ。やっと今言葉にできる気がする。
だけど、幼児期に不安の中で育ったからって、人生が台無しになるかというとそうでもなく、誰だってどこからだって自分を満たしてやり直せるように思う。
みんな、人それぞれに親や環境を選んできて、自分の学びに必要な経験をしている。と私は思っている。
だから、色々な教育方法を否定することはできないんだと思う。
大人も子どももみんながそれぞれの人生に必要な経験をしていて、みんなに共通する最良の方法や普遍的な正解がないとしたら・・・今私がしている幼児教育ってなんなんだろう。
「希望にあふれた素敵な子どもを育てるため」というのは大義名分で、私が子どもに優しいおとなでいることによって、私が癒されている、学べている、子どもを尊重できたことで自分が尊重されたような。私が必要な経験をさせてもらっている。私の喜び、趣味嗜好、興味のためにやっているのだ、ということを自覚せざるを得ない。
趣味嗜好、興味では言葉が悪いだろうか。
私は情熱が勝手に沸いてくるというかなんというか。
私は子どものために幼児教育をやっています!と正義を押し付けてしまうくらいなら、自分が好きでやっているんです、というくらいの謙虚でフラットな心持ちがいいなと思った。
色々な方法を否定したり、自分が正しいと思ったりすることより大切なのは、自分がどうしたいか、その自分の思いを仲間と分かち合えるかどうか。
今仲間がいるから素直に書ける気がします。
これは、どんぐりの芽がどちらが長いか比べているところ。「どっちだと思う?」「どっちだろうね?」「わからん」そっと私が芽を伸ばしてみたらびょーんと伸びて長くなったので「すごい!」と目を丸くしていた。大人に思いを一生懸命伝えてきてくれる。信頼してくれているのを感じる。安心・満足したら周りに目が向いていき、少し難しいことに挑戦しようとしたり、友達と長い時間遊びたくなったりして大人の手を離れていく姿が見られた。
子ども同士の関係を急ぐ必要はなかったし、大人を頼ってきた時に、「自分でやって」「子ども同士で考えて」などと心の中で思ったりして、全力で受け応えることに迷ったり、突き放したりしなくてよかったと私は思う。
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