鎌倉の翌日は母子3人で江ノ島を初めて訪れました。
(写真は、帰りの船からの江ノ島)
8月のうちに弁財天さんを2箇所もお参りできるなんて幸せに思います。残す大弁財天は、いつかは家族で行きたい厳島神社です。
イチキシマヒメさんが祀られている、中津宮では「もっと自分の本心を表現しなさい」と後押しされたような気がしました。
母子の旅行で昼からビール飲んでるとか、あかん気がしてたけど、やってみたらなんのことはない、とにかく景色丸ごと美味しかったです。
人気の店は行列で、とても待てなかったので少しだけ道を戻ったところのお店に入りました。
クーラーはない代わりに窓無しのめちゃ開放感のある空間で、BGMはフラソング。しかも、自分が踊ったことのある音源そのままで、あぁ、ここで良かった、最高!と嬉しくなりました。
しらすとなにかの魚丼。なんだったけ(笑)
残念ながら名物の生しらすは水揚げされておらず、またいつかのお楽しみとしました。
神社でおみくじを引いたら持って帰る派です。
ぐっときた一言。
「水至って清ければ則ち魚なし。人至って察(あきら)かなれば則ち徒(とも)なし。」
意味は、きれいすぎる水には魚は住まない。
それと同じように、潔白すぎて物事を白黒つけてとがめたてるような人に仲間はいない。
白黒つけてとがめ立てがちな私なので、今改めてこの意味を考えると突き刺さるのですが、これを初で読んだ時は、とにかくあいまいで濁ったままでいることを許されたようなほっとした気持ちになったのでした。
神さまには「いつも清くあれ」と言われる気がするのに、ここの神さまは清すぎなくていい、間違いだらけの人間も許しながらそのままで共存できると言われた気がして、あぁ、何か弁財天さんぽいな、と。生身の人の温もりを感じる思いでした。
弁財天の巫女さんや神主さんも、どこか人間味があるというか。
普通の人間ぽく家庭の事情をちょっと楽しそうに愚痴ってるのが聞こえてきたり、お堂に入ろうと初穂料を出したら、入場券でなくて出したお金を返してくださって、「あ、お金返したら意味ないですね」って言われたり笑
完璧でないところを見せてもらいました。
足りない、劣る、上手くない、優しくない、その他色々な自他の「清らかでない」部分を咎めないというのは、私のテーマだと改めて気がつきました。
人間らしくていいじゃないかと、この清らかでない私は魚のように清らかすぎない色々なものが共存する水の中をとにかく泳ぎたいと思いました。
実は、自他を咎めながら、とにかく下手くそに息苦しく泳いできた自分が嫌いなようで、意外と気に入っていたのです。
厄介な人ですね笑
息苦しさに生きるのはもうそろそろやめてもいいかと。
嫌いな人がいるとき、自分のことが大嫌いです。
下手くそで意地悪でかっこ悪い自分をすっかり認めてしまったら、人のそういう部分も愛せる気がします。
人に言いたいことは、全部自分に言いたいことだと再確認しています。
自他のにごりを咎めず、とにかく泳いで立ち止まって見つめたいです。
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