我が道を行く人を素敵だなと思っていても、「みんな俺に恋してる」「私が世界を変えている」みたいな雰囲気が出てくると、さーっと気持ちが冷めてしまいます。
と、先日「幼児的万能感」の記事で書かせてもらいました。
自分はこんなにすごいんだから君たちにこんなにも影響を与えられるし、世界をコントロールできるんだぜっていうようなおごった雰囲気に、違和感センサーが反応するのです。
その人が与えようとしているのか、奪おうとしているのか。
愛したいのか、愛されたいのか。
相手を満たしたいのか、自分を満たしたいのか。
例えば贈り物をもらった時
与えようとしている人からは、温かな真心を感じます。
奪おうとしている人からは、下心とか見返りを感じます。これだけやってあげたんだから同等の物を返してね、と言われているようで生気を吸い取られます。
SNSなどに投稿された記事の場合、
与えようとしている人の言葉は温かく、発信することを楽しんでいて、自分の話が誰かのお役に立てれば、楽しんでもらえれば、ほっとしてくれたらというような、一歩引いた謙虚さを感じます。例え誰かと意見が違ったとしても、人の大切に守っているスペースを傷つけたり侵食したりしない思いやりを感じます。
奪おうとしている人の言葉はあからさまでない場合もどこか冷たくて、自分の正しさを主張して名声や他人の共感という安心感を勝ち取り、みんな違っていいはずの個々の持つ正しさに侵食してくる感じがあります。
あなたの幸せを願っているというきれいな言葉の裏には、自分のファンにさせてお金をどんどん巻き上げて自分が豊かになることを最終目標にしていると感じたりも。
豊かさを目指すこと自体は悪くないと思うけど、自分の富と名声を得ることが第一目的の人のそばにいたら、命を吸い取られそうです。
このように「与える」と「奪う」の2つに分けることで、短絡的な見方になってしまっているかもしれませんが、表面的な表現に惑わされずに繊細に気付くことで自分を守れるのかもしれないと思ったのです。
表面上の「あなたのため」という言動が、本当に誰かを思ってのことなのか、自分の富と名声のためなのか見極めることができれば、人に振り回されなくてすみそうです。
あなたは素晴らしい、あなたの力が必要と誰かに褒められている時に、心から言ってくれているのか、それとも褒めることでコントロールして便利なコマとして利用されそうになっているのか。
他人の表面的な甘い言葉に振り回されてきた人生だったので、いい加減地に足つけ、自分の意志で歩んでいきたい今日この頃です。
愛を欲しがっている人を全否定するではなく、相手のスペースを尊重して、自分は巻き込まれないように一定の距離を置くという術を身につけたいと思っています。
さて、ところでなぜ私は今日もこのような文章を公表するのか?
①どなたかの参考になればいいなと思う。
②自分の考えをまとめるため。
③公表して人目に晒(さら)すことで、有言実行を目指す。
④書くテーマを日々考えることで、日常の中であらゆることに気付く感度を上げる。
⑤毎日何かを続ける練習
⑥単純に書くことが楽しい。
書き出してみると、自分のための要素ばかりでした。公表することで、何かしら楽しんでもらえたりお役に立てればという気持ちは本当です。
楽しんでもらえるかどうかは読む方々に委ねられているとして、私自身が何かを奪うような思考をしていないかだけは、いつも気にしていたいなと改めて思いました。
私はこんなにも正しい、私の気持ちを誰かに分かってほしい、そういう思考は誰かの生気を吸い取る「奪う思考」なので気をつけたいです。
ブログランキングの順位が上がると単純に嬉しいけれど、そこに一番執着するとおかしくなりそうです。
人気が出ると、自分の後ろに道ができて民がぞろぞろついてくると勘違いしたり、自分の持つ情報を小出しにしてお客を惹きつけようとしたり、声援が少ないと欲しがり過ぎたりする人にはなりたくないです。
(写真は、3年前に旅行した時のもので、戸隠神社の奥社につながる道です)
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