独身の頃は、スーパーとかでどぎつく子どもを怒ってる母親を見ると腹が立ってしょうがなかったです。
もっと子どもの気持ち考えろや!ないがしろにするなや!とか思ってじろじろ見てました。(性格悪い😅)
それは、そういう場面を見た時に無意識に自分自身が子どもの気持ちになっていて、私を尊重しないでこうしろああしろとコントロールしようとした大人に対する嫌悪感やら敵対心やらが投影されて怒りが込み上げてきていたんだと思います。
そういった私の中での反骨精神もあって、絶対に子どもを尊重して輝かせる大人になるんだ!と保育の勉強を必死でしてました。
しかし自分が母親になってみると、子どもは思い通りにならないし、ちゃんと育てなきゃいけないと焦るし、感情的に怒ってしまうことも多々ありました。
子どものためには、子どもの感情をないがしろにしてはいけないという知識は知りすぎているのにも関わらずです。
知識が毒になり、子どもに感情的に怒って傷つけてしまったという事実にいつも自分が傷ついてぼろぼろになってました。
一通り傷つくと、街中で子どもに怒り散らしてるお母さんを見ても、怒りが湧くどころか親近感すら湧いてきて「一人で子育てを抱え込んでつらそうだな」と思うようになりました。
自分の中で、子育ては楽しいこともあるけど、自分に向き合う作業でもあり、孤独だし辛いという気持ちが体感できたためになんとなく人の抱えるつらさを想像できるようになったのです。
自分の思った通りにはうまくいかないし、うまくできないものなんだなと腑に落ちて、「敗北宣言」した時に世界が変わって見えました。
宣誓。私はちゃんとした子育てなんてできません。ちゃんとした人間になれません。ちゃんとしてなくたって大丈夫です。
ちゃんとできない自分を受け入れてしまうと、私をコントロールしようとした「ちゃんとしてない」と思っていた大人たちも親も、わたしには想像しきれない苦しみがあったんだろうなと許せるようになり、戦う気持ちがすーっと消えて気持ちが楽になったのでした。
子どもをほったらかして働いている母親というものにもずっと嫌悪感があって、私は絶対に働かずに子どもを自分の手で育てる!という意気込みがあったのですが、その意気込みが余計自分と娘を苦しめました。振り返ればとてもアンバランスです。(今は、子育てしながら働くお母さんはすごい!という思いに変わりました)
私が子どもをなんとかしなくてはいけない!ちゃんと子どもをよく見て、ちゃんと育てなければいけない!という強いこだわりは、自分も親にもっとなんとかしてもらいたかった!というこだわりかもしれないとある時自分の場合は気が付きました。
子どもは自分で自分の道を切り開いていくと腑に落ちてきた時、子どもをちゃんと私が育てなければならないというコントロール幻想が手放せてきました。
私には手の届かないところで、子どもは色んな経験を通して内面をどんどん成長させていくんだろうと一歩離れて見られるようになると、自分の中にくすぶっていた「周りの大人にもっとなんとかしてもらいたかった」という気持ちが軽くなっていきました。ないがしろにされたという怒りが和らいでいきました。
色んなことを許した、解消したと思っても、誰かや自分を責めたくなるような気持ちはふと湧いてきます。
そういう時が自分のうちにくすぶっているものを明るみに出すチャンスで、自分がもっと生きやすくなるための成長のチャンスだと思うようになりました。
不登校はその最たるもので、非常に辛かったですが、ものすごく勉強になりました。そういう意味で体当たりでぶつかってきてくれた娘に今は本当に感謝しています。
しかし、本当にすごく辛かったので、今辛い人にかける言葉が簡単には見つからないのです。
簡単に言葉がかけられたとしたら自分のおごりであり嘘だとも思えてきます。
今辛さを抱える人の心が少しでも軽くなりますようにといつも祈っています。
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