434の2『自然と人間の歴史・世界篇』インドの独立への道(塩の行進などの抵抗運動)
1920年8月には、非暴力抵抗運動(サティヤーグラハ運動)が全国に広がっていく。そして迎えた1929年12月、国民会議派ラホール大会で、「プールナ=スワラジ(完全なる自治)」を宣言しました。この大会でネルーが指導力を発揮する。翌年の1930年~第二次の非暴力・不服従のイギリスからの独立が再開された。
そして迎えた1930年3月、ガンディーは製塩禁止法に反対して306キロメートルの「塩の行進」を行い、逮捕された。1932年8月16日のマクドナルド裁定には、宗教集団・社会集団別に代表権を認める条項が盛り込まれた。1935年、インド統治法と、マクドナルド裁定に対し、イギリス議会が承認を与えた。
新しい統治法においては、イギリスは州の自治をインド人に与える傍ら、連邦制をとる中央政府で権力と人民支配を維持しようという苦肉の策を弄した格好である。1939年に第二次世界大戦が始まると、インド人及びインド国民会議派の意思に反して、イギリス領インドも連合国側の一員として参加した格好になった。1940年、ムスリムの連盟がラホールに集まり決議を採択した。
1941年9月には、タイにおいて日本軍による「藤原機関」が組織された。この機関は、イギリス軍のインド人捕虜を中心に「インド国民軍」として組織し、イギリスに対抗させようとしたものであった。1944年3月、日本軍がインパール作戦を開始した。ビルマ防衛とインド人による独立への加勢によりイギリスに打撃を加えようと、「インド国民軍」2個師団もその作戦に加わる。
ところが、日本軍は補給が続かなくなり、7月には作戦は中止となる。1945年9月、イギリスのアトリー首相が、インド委員会を開催した。総選挙の実施と、その後の議会によるインド人内閣の樹立をひとまず約束することで、独立運動の勢いをそぎつつ、自らの権益をできるだけ残そうとの考えからであった。
しかし、独立運動はかえって勢いすを増し、インド人により編成されたイギリス軍の反乱が起きるなど、もはやイギリスが鎮圧できるようなものではなくなっていったのである。
1947年2月3日、ムスリム同盟が憲法制定議会入りを拒否したのを踏まえ、イギリスのインド総督は段階的な政府権限移譲案を本国に送った。同年2月20日、アトリー首相は1948年6月以前に権力を移譲したいと公言した。3月には総督をこれまでのウェーベルに替わってマウントバトゥンにすることも含んでいた。
1947年6月3日、マウントバトゥンとアトリーは、インドは分割されて権力は自治領となる二つの別々の国家に移譲されるという意味の発表を行った。同年6月9日、ムスリム連盟評議会がこの分離独立案を「妥協として」受諾すると発表した。その6日後に、会議派全国委員会が同案を受諾し、ここに分離独立が決まる。(この政治的駆け引きの流れは、アーイシャ・ジヤラール著・井上あえか訳「パキスタン独立」けい草書房、1999に詳しい。)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆