♦️434の2『自然と人間の歴史・世界篇』インドの独立への道(塩の行進などの抵抗運動)

2018-10-01 21:49:26 | Weblog

434の2『自然と人間の歴史・世界篇』インドの独立への道(塩の行進などの抵抗運動)

   1920年8月には、非暴力抵抗運動(サティヤーグラハ運動)が全国に広がっていく。そして迎えた1929年12月、国民会議派ラホール大会で、「プールナ=スワラジ(完全なる自治)」を宣言しました。この大会でネルーが指導力を発揮する。翌年の1930年~第二次の非暴力・不服従のイギリスからの独立が再開された。
 そして迎えた1930年3月、ガンディーは製塩禁止法に反対して306キロメートルの「塩の行進」を行い、逮捕された。1932年8月16日のマクドナルド裁定には、宗教集団・社会集団別に代表権を認める条項が盛り込まれた。1935年、インド統治法と、マクドナルド裁定に対し、イギリス議会が承認を与えた。

   新しい統治法においては、イギリスは州の自治をインド人に与える傍ら、連邦制をとる中央政府で権力と人民支配を維持しようという苦肉の策を弄した格好である。1939年に第二次世界大戦が始まると、インド人及びインド国民会議派の意思に反して、イギリス領インドも連合国側の一員として参加した格好になった。1940年、ムスリムの連盟がラホールに集まり決議を採択した。

   1941年9月には、タイにおいて日本軍による「藤原機関」が組織された。この機関は、イギリス軍のインド人捕虜を中心に「インド国民軍」として組織し、イギリスに対抗させようとしたものであった。1944年3月、日本軍がインパール作戦を開始した。ビルマ防衛とインド人による独立への加勢によりイギリスに打撃を加えようと、「インド国民軍」2個師団もその作戦に加わる。

   ところが、日本軍は補給が続かなくなり、7月には作戦は中止となる。1945年9月、イギリスのアトリー首相が、インド委員会を開催した。総選挙の実施と、その後の議会によるインド人内閣の樹立をひとまず約束することで、独立運動の勢いをそぎつつ、自らの権益をできるだけ残そうとの考えからであった。
 しかし、独立運動はかえって勢いすを増し、インド人により編成されたイギリス軍の反乱が起きるなど、もはやイギリスが鎮圧できるようなものではなくなっていったのである。

  1947年2月3日、ムスリム同盟が憲法制定議会入りを拒否したのを踏まえ、イギリスのインド総督は段階的な政府権限移譲案を本国に送った。同年2月20日、アトリー首相は1948年6月以前に権力を移譲したいと公言した。3月には総督をこれまでのウェーベルに替わってマウントバトゥンにすることも含んでいた。

 1947年6月3日、マウントバトゥンとアトリーは、インドは分割されて権力は自治領となる二つの別々の国家に移譲されるという意味の発表を行った。同年6月9日、ムスリム連盟評議会がこの分離独立案を「妥協として」受諾すると発表した。その6日後に、会議派全国委員会が同案を受諾し、ここに分離独立が決まる。(この政治的駆け引きの流れは、アーイシャ・ジヤラール著・井上あえか訳「パキスタン独立」けい草書房、1999に詳しい。)

(続く)

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♦️434の1『自然と人間の歴史・世界篇』インドの独立への道(アムリトサル虐殺事件など)

2018-10-01 21:48:14 | Weblog

434の1『自然と人間の歴史・世界篇』インドの独立への道(アムリトサル虐殺事件など)

 インドの独立にあっては、これを植民地にしていたイギリスがどんな国であったか、その植民政策はどんなであったかを知っておくことが、極めて重要である。加藤祐三氏の論考に、次のとりまとめがある。
 「イギリスは、農業革命を産業革命と同時に遂行した国である。農業革命については、別の機会に述べる予定だが、次の点はここではっきり記憶しておかねばなるまい。農業革命によってたしかに単位当たりの収穫は飛躍的に高まったが、農業人口の減少がいちじるしく、非農業人口すなわち食糧の消費人口が急増したために、食糧の国内での自給は、ますます困難になった。大陸への食糧依存は、いっそう大きくなった。農業を捨てて、不安定だが利益があれば大きい加工貿易の道を選んだのである。
 輸出入の上位品目を見ると、19世紀中葉から、次のようになっている。輸出は、綿製品、鉄鋼、毛織物、輸入は穀物、原綿、原毛、砂糖、紅茶。輸出品の綿製品の原料を輸入、毛織物の原料も輸入、鉄鋼だけは自国産である。あとの輸入品は、いずれも食料で穀物、砂糖、紅茶の三つ。この三つは、加工品を作る労働力の「原料」(肉体の再生産の原料」)といいかえてもよいだろう。これはまさに加工貿易の典型といえる。当時の世界には類をみない特殊な減少であったし、イギリス史においても初めてのことであった。
 その自分の姿に似せて、植民地ではモノカルチャーを強制していった。米作なら米作のみ(たとえばビルマのように)、茶園なら茶園のみ(たとえばセイロンのように)、あまりに大きいインドのばあいでも、地域的にアヘン原料のケシ栽培あるいは綿花栽培に特化させるという方法である。コメの輸出国だったインドが一転してビルマ米の輸入国に転じるのも、この植民地間の結果である。

モノカルチャーを各植民地に配置して、全体としての植民地経済を作る。それらを結ぶのが海運であった。海運というサービス業によって得た利益が、商品取引(のちに資本取引もふくめて)面での国際収支の赤字を十二分に補った。加工貿易を可能にするには、とくに海運という流通網の確保が不可欠である。理論的にも現実的にも、これは不可欠であった。配船の都合一つで原料の綿花が入ってこなくなれば、綿工業は停止する。食糧が入ってこなくなれば食糧暴動がおこる。」(加藤祐三「イギリスとアジアー近代史の原画ー」岩波新書、1980、94-95ページ)
 1885年には、インド国民会議派の創立大会が行われた。1915年1月9日インド独立の父であるマハトマ・ガンジーが20年ぶりにインドに帰国した。彼はイギリスで法律学を学んだ。大英帝国統治下の南アフリカに渡り、弁護士として人権問題に多く携わった経験をもとに、帰国後は「非暴力、非服従」を貫いての独立運動に明け暮れた。
 1917年8月、イギリスのインド担当相であるモンタギューがインドの戦後の自治を約束した。だか、本気でインド人に自治を与えようとするものではなかった。1919年3月には、イギリスでローラット法が発布された。この法律では、第一次世界大戦後予想される民族運動の高揚に対し、通常手続き抜きの裁判や令状なしの操作・逮捕・投獄などを可能にするものであった。

 そして迎えた1919年4月13日、現在でいうところのパンジャブ州、集会禁止令の出ていた現地の公園にて、抗議集会に集まったおよそ1~2万人の人々にイギリス軍が発砲した。100人からの兵士たちに発砲を指示したのは、イギリス人将校のダイヤー将軍であった。無抵抗の市民たちは銃弾になぎ倒されていった。イギリス側の資料で、379人、のちのインド人側調査で1000人以上が殺されたという。

 

(続く)

 

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