36『自然と人間の歴史・日本篇』古墳時代の始まり(4世紀後半頃~6世紀前半頃)
弥生時代の末期になると、この列島のあちこちで巨大墳墓が次々と造成される。そして、
この列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。
この古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀始めも含む)である。さりとて、この時代分類分けには、確固とした根拠が添えてあるのではないらしい。
さて、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は、前方後円墳だといえよう。中国にも朝鮮(現在の韓国)にも、その原型の類例はほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのかもしれない。
中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。
畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。前方後円墳の分布は広範囲にわたっている。ごく小さなものでは、武蔵国(現在の比企郡嵐山町)にもあって、たかだか10メートルくらいのものさえあるところだ。
その逆に大きいところから並べると、次のようであるという。1番目は、墳丘の長さ486メートルの大山古墳(大阪府百舌鳥、通称は「仁徳陵古墳」)。2番目は、墳丘の長さ425メートルの誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやまこふん、大阪府古市、通称は「応神(おうじん)陵古墳」)。3番目は、墳丘の長さ365メートルのミサンザイ古墳(大阪府百舌鳥、通称は「履中陵古墳」)。4番目は、墳丘の長さ350メートルの造山(つくりやま)古墳(岡山県、被葬者は不明)。5番目は、墳丘の長さ335メートルの河内大塚山古墳(大阪府、陵墓参考地)。
6番目は、墳丘の長さ310メートルの丸山古墳(奈良県、陵墓参考地)。7番目は、墳丘の長さ300メートル以上のニサンザイ古墳(大阪府、陵墓参考地)。8番目は、墳丘の長さ300メートルの渋谷向山古墳(奈良県、通称は「景行陵古墳」)。9番目は、墳丘の長さ290メートルの仲津山古墳(大阪府、通称は「仲姫命陵古墳」)。そして10番目は、墳丘の長さ286メートルの作山(つくりやま)古墳(岡山県、被葬者は不明)
これらの大規模古墳のうち毛現在の奈良県の大和盆地と大阪平野を拠点とする「ヤマト王権」があったとする説のほか、現在の岡山県あたりを拠点とする吉備(きび)の二つの古墳を根拠にこちらの勢力がかかるヤマト王権と勢力が拮抗していたとみる向きもあろう。吉備の2大古墳の被葬者が誰だかわからないのは、学術的な発掘はすでになされているものの、これといった特段の遺物が見当たらなかった。そもそも、そのことが盗掘されたものか、破壊・持ち去りなどされたものかなどはわかっていない。
さらに前者の勢力の中でも、5世紀に造営されるようになった百舌鳥・古市古墳群につき、4世紀末頃にヤマト盆地の勢力から大阪平野の勢力が権力を奪取したという「河内政権論」を唱える向きもあるという。
これまでのところ、宮内庁の管轄する古墳については、ことごとくと言っていい程に、きちんとした学術調査は行われないでいる。部分的な崩れについてさえも、一般人を入れ公開した調査を実施してこなかった。「崩れた部分の修理の際などに一部を宮内庁の考古学の専門職員が発掘しているよ」(朝日新聞、2017年8月2日付け)ということなら、国民は何がどうなっているのかわからない。
古代の陵墓の造営では、報酬のある労働であれ「ただ働き」であれ、当時の権力者によって多くの人民が動員されたのは疑う余地がない。よって、現在でのそれらは国有資産の一部であり、国民のいわば共有財産であって、特定の政治的な事情や思惑にとどめられていいものではあるまい。特に歴史学者は、諸外国での例に習い、国民の知る権利のためにもっと前面に出るべきだ。そして、内部の石室などの調査を含めた発掘に向け、この国の「古代史」を明らかにしようとの公論をリードすべきであろう。
以下は後の時代のことだが、6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。
政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家、すなわち後の天皇家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。7世紀の早早の造営も伝わるところから、最近の日本考古学では、これまでこの時代も含めて後期古墳時代と呼んでいたものを、前方後円墳の終焉の時期をもって古墳時代の後期と終末期とに細区分する考えが出されているとのことだ。
(続く)
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