♦️619『自然と人間の歴史・世界篇』(ベネズエラ、1960年代~)

2018-10-18 22:13:13 | Weblog

619『自然と人間の歴史・世界篇』(ベネズエラ、1960年代~)

 ベネズエラの状況は、21世紀に入ってからは大きな変化が進行中だといってよいだろう。

 2013年3月には、チャベス大統領が死去し、カリスマ的指導者がいなくなったことで政治の流動化が始まる。4月の大統領選挙で、後継指名を受けたマドゥロが当選を果たす。

 2015年3月、アメリカのオバマ政権が経済制裁を発動する。この措置により、ベネズエラ政府関係者

7人のアメリカ国内の資産が凍結されるとともに、アメリカの金融機関との取引が止められる。

 2017年4月には、反政府デモが起こる。7月、政府が制憲議会選挙を強行する。野党勢力はこれをボイコットし、結果的に大統領派が議席をほぼ独占するにいたる。2018年1月、選出された制憲議会が大統領選挙の前倒しを発表する。

 2月には、原油を担保とする仮想通貨「トロ」を発行する。3月、政府は、記録破りの物価上昇に対処するべく、6月4日付けで通貨の単位を1000分の1に切り下げるデノミネーションを実施すると発表する。

 5月、マドゥロ大統領が再選を果たす。アメリカのトランプ政権が追加制裁を発表する。その内容は、ベネズエラ政府や政府系企業のアメリカ経由での資金調達を禁じるものだ。同月、ベネズエラ政府は予定のデノミネーションを60日間延期し、8月4日付けで実施すると発表する。その際、切り下げ幅を10万分の1に拡大すると発表する。そして迎えた8月20日、政府はデノミネーションを強行する。

(続く)

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♦️454『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

2018-10-18 21:32:03 | Weblog

454『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

 ナイジェリア共和国の建国までの道のりはどのようであったのだろうか。この国は、西アフリカに位置する。およそ2億人の人口を抱え、アフリカ最大。面積も広い。
 13~18世紀、現在のナイジェリアの西部州を根拠地にベニン王国が栄える。1920年、イギリス領ゴールドコースト(黄金海岸)のアクラで、イギリス領西アフリカ国民会議が開催される。この会議には、ナイジェリアからも6人が参加する。

1922年、立法審議会設置を受けて、ハーバート・マコーレーを党首とするナイジエリア国民民主党が結成される。1947年にはリチャードソン憲法が、1951年にはマクファーソン憲法が英国植民地政府によりつくられ、西部、東部及び北部の3州制への移行と、選挙権の拡大がなされる。
 1951年以降、北部人民会議(NPC、ハウサ族が中心)、西部の行動党(AG、ヨルバ族が中心)、東部州ではNCNC(イボ族が中心)がそれぞれ活動する。1960年10月1日、これらの諸州が集まってナイジェリア連邦としてイギリスから独立を果たす。ここに国号の「ナイジェリア」とは、ニジェール川の英語読みのナイジャーにちなむとか。東隣のカメルーンの住民投票にて、旧イギリス信託統治領の北部がナイジェリアへの併合を決める。そのことで、この部分の領土を合わせての独立を勝ち取る。
 独立の3年後には共和国となる。それまで元首であったエリザベス女王に代わって、アジキウエ博士が大統領職に就く。独立の6年後の1966年1月には、若手将校による最初の軍事クーデターが起きる。これによってバレワ連邦首相と2人の州首相、汚職の代表格であったオコチエ連邦大蔵大臣が殺される。それでも落ち着かず、イロシン将軍による軍事クーデターが起こる。イボ人の利益に沿う形で、イロシン少将(1925-66)の率いる「事態収拾クーデター」により彼を首班とする軍政が始まる。
 当時この国は、北部、西部、東部、中西部の諸州からなる連邦制をしいていた。その当時、ナイジェリアの部族は北部のハウサ人が人口比で最大であり、他のイボ族などを圧倒していた。にもかかわらず、政治的経済的には、この国は建国以来ずっとイボ人が支配していた。こうした多数派から見た人々の不満と怒りは、2つの軍事クーデターではおさまらない。この後、北部州において、イボ人支配に反発するハウサ人などによって、北部州に居住するイボ人の大虐殺(ポグロム)が起きる。北部州からは、このとき100万人以上のイボ人が東部の州に逃れたとも伝えられる。
 21世紀に入ってからナイジェリアにおいては、「ボコ・ハラム」と称する反体制組織が台頭している。その大まかな歩みは、2002年にナイジェリア北部で設立された。2009年になると、政府軍治安部隊との政党が激化してくる。2014年4月、ポルノ州チボックで生徒276人が誘拐される。6月、ポルノ州において複数の村を襲撃し、200人を超える死者が出たという。

2015年3月、過激派組織「イスラム国」(IS)の指導者に忠誠を誓うとする録音声明を公開する。2016年12月には、ポルノ州の市場で女性2人が自爆をしたことで、57人が死亡したという。2018年2月、今度はヨベ州ダプチで110人が誘拐される。約1か月後にその大半を解放したものの、5人が死亡したとされる。


 
(続く)

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♦️440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン

2018-10-18 21:05:37 | Weblog

440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン

 ブータン王国は、南アジアに位置する。北は中国、東西南はインドと国境を接する。内陸国だ。国教はチベット派仏教。21世紀初頭での民族構成は、チベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語だが、英語も一般化している。首都はティンプー。
 9世紀頃までに、原住民はチベット軍の支配下に入る。その前のこのあたりの歴史は、はっきりしないのだが。チベットの力が浸透するにつれ、両者の混血により、現在の中心民族ガロップがつくられていく。
 17世紀、チベット仏教の高僧ガワン・ナムゲルらがこの地にやってくる。布教のためではなく、この地を治めるためであった。そして、各地に割拠する群雄を征服していく。自ら初代法王と称し、ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握する。
 18世紀に入ると、中国そしてイギリスの影響がこの地に及んでくる。19世紀末、今度は東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが、支配的郡長として台頭してくる。
 1907年、トンサの領主ウゲン・ワンチュクが、ラマ僧や住民に推される形で法王と摂政を廃す。そして、初代の世襲藩王に就任する。これにより、豪族のワンチュク家が親政を行う形で支配を確立し、現王国の基礎を確立する。1949年には、インドとの友好条約を結ぶ。
 1952年に即位した第3代国王ジグメ・ドルジ・ウォンテュック(在位は1952~72)は、気鋭の近代化政策を打ち出す。1959年のチベット動乱を契機に、インドとの外交、軍事のみならず、経済でも結びつきを深めていく。当時のインドから民主化で茂樹を受けたものと思われる。農奴解放、1人あたり30エーカー以下への耕地所有の制限、英語による近代教育の普及、国民議会の創設、最高裁判所の設立、郵便制度の創始など、盛り沢山の制度改革を行う。
 かれは、経済政策でも新味なものを打ち出す。友好国インドの援助を受けながら、5か年計画で、森林開発や水力発電、鉱物資源探査など、大いなる山間地で小国が生きて行くための方策を練るのであったが。
 1962年には、国家としての自立を目指してのコロンボ・プランを試みる。1964年、地方豪族間の争いに起因する首相暗殺があったり、その後に任命された首相による宮廷革命の企み発覚があったりする。これらによる政情不安定に対し、首相職が廃止され、国王親政がとられる。1969年の万国郵便連合、1971年の国際連合へと連なっていく。
 1972年、16歳で即位した第4代国王ジグメ・シンゲ・ウォンチュックは、前の国王が敷いた近代化、民主化路線を継承・発展させていく。王政から立憲君主制への移行準備を主導していく。2001年には、成文のなかった憲法草案の作成が始められる。
 2005年、4代国王が立憲君主制への移行を表明する。2006年12月、第4代国王の退位により、5代目が王位を継承する。

 2007年12月及び2008年の初めての総選挙を経て、2008年4月に憲法が施行され、王政から立件民主制に移行を果たし、民主的に選出されたティンレイ政権が誕生する。5月には国会(一院制)が召集される。7月に憲法が施行となり、それまでの王政から議会制民主主義を基本とする立憲君主制に移行する。

(続く)

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♦️834の3『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、サブプライム問題)

2018-10-18 10:19:57 | Weblog

834の3『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、サブプライム問題)

 いったい、これほどまで大規模な景気後退がなぜ起こったのか。諸説に概ね共通しているのは、通常の景気循環の中では考えられない程の「バブル経済」が現出していたことであった。そんな中でも、2007年の途中までは米国型の投資、中でもサブプライム関連商品がうってつけの投資商品であった。リーマンブラザーズを含むこの国の投資銀行は、これを扱う金融機関に湯水のように大量の資金を流していた。
 なお、ここでサブプライム・ローンとは、2001年金融監督当局の通達にある。具体的には、(1)過去12か月以内に30日延滞を2回以上、または過去24か月以内に60日延滞を1回以上、(2)過去24か月以内に抵当権の実行、債務免除、(3)過去5年以内に破産宣告、(4)返済負担額が収入の50%以上のいずれかに該当する住宅等に関わるローンであって、ローンの格付けとしては、「FICOスコア 660点以下(620点以下とする分類もある)」(倉橋透・小林正宏「サブプライム問題の正しい考え方」中公新書)とある。
 わかりやすくするために、サブプライム・住宅ローンは、例えば最初の2年間は月々の支払いを債務者の所得の範囲内に留めているとしよう。3年目以後の支払い時には倍のローン利率にはね上がり、住宅保有者の所得では返済を賄えなくなり、その不足分は支払い利率が上がる前にローンを借り換えることで調達しなければならない。そのためには(つまり、うまく転がしていくためには)担保価値である住宅価格の絶えざる上昇が必要となるだろう。米国では今世紀に入ってからこの仕掛けで住宅取得が刺激され、そのローンを民間ローン会社から買った金融機関が多様な債権に組み込んだ仕組商品とすることで米国内外の絶えざるマネーが投入されていった。
 そういうことがあって、2006年秋を境に住宅価格が下落に転じます。それからは返済の焦げ付きが増すとともに、同証券の格下げが相次ぎました。銀行の不良債権が増えることで彼らは新たな融資を貸し渋るようになり、その分人々の投資が冷え込んできたのです。
 それでは、この頃までに住宅ローンはどれくらいの規模となっていたのだろうか。倉橋透・小林正宏「サブプライム問題の正しい考え方」中公新書、2008にFRBの資料として、2007年末の住宅ローン残高とその証券化比率が載せられている。それによると、「住宅ローン残高 105,088(億ドル、以下同じ)、エージェンシー証券化43,025、40.9%、民間証券化21,166、20.1%、証券化合計64,191、61.1%」だという。
 このままでは流動性危機になると見たFRB(米国連邦準備制度理事会)は、2007年8月から2008年3月までの間に5度にわたり政策金利を下げる(FF(フェデラルファンド)レートで年5・25%から2・25%へ)等して、市場に資金を提供する手立てをとった。しかし、2008年3月には証券金融大手からも経営破綻が出るに及んで、FRBは史上初めての「直接金融」(グリーンスパン前議長)に乗り出す。その中で特に問題となったのは、野放図なリスク管理とは表面上異なる金融工学を駆使した商品である住宅担保証券の複雑さであった。

(続く)

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♦️834の2『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、マクロ経済)

2018-10-18 10:19:09 | Weblog

834の2『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、マクロ経済)

 顧みれば、アメリカのマイナス成長は2008年7~9月期の実質GDP(国内総生産)0.5%減から始まった。2008年10~12月期のアメリカの実質GDP(商務省が2009年1月30日に発表)は、年率換算で前期比3.8%減となり、約27年ぶりの落ち込みとなった。個人消費については、3.5%減で、約28年ぶりの落ち込みとなった7~9月の3.8%に続き大幅減となった。それから企業の設備投資は19.1%の大幅減となる。これは1975年以来の急激な減少を記録したことになる。住宅投資にはさらに勢いなく、同23.6%減となった。これは、12四半期連続のマイナスを記録したことになっている(1月30日~31日各紙)
 そこでアメリカの、この間のGDP各要素の伸び率を振り返ってみよう。GDP(国内総生産)+IM(輸入)=C(消費)+IH(民間住宅投資)+II(民間設備投資)+GC(政府消費)+GI(政府固定資本形成)+EX(輸出)の関係式がある。これを用いて、2008年10~12月期から2009年7~9月期までの国民経済指標に係る数字をはめ込むと、こうなる。ただし、以下の数字は伸び率であって、そのまま数式としては用いていない。
○2008年10-12月期(年率換算):
GDP(ー5.4)+IM(ー16.7)=C(-3.1)+I(-24.2)+G(1.2)+EX(-19.5)
○2009年1-3月期(年率換算):
GDP(ー6.4)+IM(ー36.4)=C(0.6)+I(-50.5)+G(-2.6)+EX(-29.9)
○2009年4-6月期(年率換算):
GDP(ー0.7)+IM(ー14.7)=C(-0.9)+I(-23.7)+G(6.7)+EX(-4.1)
○2009年7-9月期(年率換算):
GDP(3.5)+IM(16.4)=C(3.4)+I(11.5)+G(2.3)+EX(14.7)
(データの出所)GDP and the Economy,Advance Estimates for the Third Quarter of 2009:Survey of Current Business,November 2009.(電子版)、作成は(丸尾))

(続く)

 

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♦️834の1『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、その経過)

2018-10-18 10:18:20 | Weblog

834の1『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、その経過)

 2008年9月に勃発したアメリカ発の「リーマン・ショック」は、同国のバブル景気を旧冷却させてのみならず、グローバル化を一層強めていた世界経済を大いなる混乱に陥れた。

はじめに、このショックの前後のアメリカ経済を中心とした動きを、振り返っておこう。

3月16日、米大手証券ベアスターンズを、JPモルガン・チェースが「救済」と称して買収した。9月7日には、米金融当局がファニイメイおよびフレデリックへの支援策を発表した。そして迎えた9月15日、米証券大手のリーマン・ブラザーズが破綻した。同日、米銀行大手のバンク・オブ・アメリカが、米証券大手のメリルリンチを救済合併すると発表した。

 9月16日には、FRB(米連邦準備制度理事会)が、米保険大手のAIGの救済策を発表した。10月18日、日米欧の6中央銀行が、市場への流動性供給のための対応策を公表した。11月14~15日には、初めてのG20会合がワシントンで開催される。11月23日、米当局が、金融大手シティグループに盾居する救済策を発表した。

(続く)

 

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638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1960年代)

2018-10-18 09:24:09 | Weblog

638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1960年代)

 1964年、コロンビア革命軍(FARC)結成、内戦が勃発する。2010年、サントス大統領当選。2012年、和平交渉が開始される。
2016年6月23日、サントス大統領とFARCのドニョ最高司令官が停戦合意に署名。9月26日、和平合意文書に両氏が署名する。
 その内容は、「FARCに2018年から2期8年、上下両院で各5議席を与える。FARCが資金源としてきた麻薬の原料のコカイン農地を田の作物に転換。

 犯罪を告白した革命派幹部には懲役刑の代わりに、規定の非武装地帯内で社会奉仕活動に従事する罰を与える。FARCは保有するすべての財産を放棄し、内戦の遺族、被害者の金銭補償に充てる。」(毎日新聞、2017年12月1日付け)


 そして迎えた10月2日、国民投票で合意が否決される。10月7日、サントス氏にノーベル平和賞授与が発表される。11月24日、和平合意文書の改訂版に両氏が署名する。11月30日、議会承認を受け、和平合意が進む。
 2017年8月15日、FARCの武装解除完了得。9月1日、FARCが政党に移行する。


(続く) 

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○○36『自然と人間の歴史・日本篇』古墳時代の始まり(4世紀後半頃~6世紀前半頃)

2018-10-18 09:03:20 | Weblog

36『自然と人間の歴史・日本篇』古墳時代の始まり(4世紀後半頃~6世紀前半頃)

 弥生時代の末期になると、この列島のあちこちで巨大墳墓が次々と造成される。そして、
この列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。
この古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀始めも含む)である。さりとて、この時代分類分けには、確固とした根拠が添えてあるのではないらしい。
 さて、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は、前方後円墳だといえよう。中国にも朝鮮(現在の韓国)にも、その原型の類例はほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのかもしれない。

中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。
 畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。前方後円墳の分布は広範囲にわたっている。ごく小さなものでは、武蔵国(現在の比企郡嵐山町)にもあって、たかだか10メートルくらいのものさえあるところだ。

 その逆に大きいところから並べると、次のようであるという。1番目は、墳丘の長さ486メートルの大山古墳(大阪府百舌鳥、通称は「仁徳陵古墳」)。2番目は、墳丘の長さ425メートルの誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやまこふん、大阪府古市、通称は「応神(おうじん)陵古墳」)。3番目は、墳丘の長さ365メートルのミサンザイ古墳(大阪府百舌鳥、通称は「履中陵古墳」)。4番目は、墳丘の長さ350メートルの造山(つくりやま)古墳(岡山県、被葬者は不明)。5番目は、墳丘の長さ335メートルの河内大塚山古墳(大阪府、陵墓参考地)。

   6番目は、墳丘の長さ310メートルの丸山古墳(奈良県、陵墓参考地)。7番目は、墳丘の長さ300メートル以上のニサンザイ古墳(大阪府、陵墓参考地)。8番目は、墳丘の長さ300メートルの渋谷向山古墳(奈良県、通称は「景行陵古墳」)。9番目は、墳丘の長さ290メートルの仲津山古墳(大阪府、通称は「仲姫命陵古墳」)。そして10番目は、墳丘の長さ286メートルの作山(つくりやま)古墳(岡山県、被葬者は不明)

   これらの大規模古墳のうち毛現在の奈良県の大和盆地と大阪平野を拠点とする「ヤマト王権」があったとする説のほか、現在の岡山県あたりを拠点とする吉備(きび)の二つの古墳を根拠にこちらの勢力がかかるヤマト王権と勢力が拮抗していたとみる向きもあろう。吉備の2大古墳の被葬者が誰だかわからないのは、学術的な発掘はすでになされているものの、これといった特段の遺物が見当たらなかった。そもそも、そのことが盗掘されたものか、破壊・持ち去りなどされたものかなどはわかっていない。

  さらに前者の勢力の中でも、5世紀に造営されるようになった百舌鳥・古市古墳群につき、4世紀末頃にヤマト盆地の勢力から大阪平野の勢力が権力を奪取したという「河内政権論」を唱える向きもあるという。

   これまでのところ、宮内庁の管轄する古墳については、ことごとくと言っていい程に、きちんとした学術調査は行われないでいる。部分的な崩れについてさえも、一般人を入れ公開した調査を実施してこなかった。「崩れた部分の修理の際などに一部を宮内庁の考古学の専門職員が発掘しているよ」(朝日新聞、2017年8月2日付け)ということなら、国民は何がどうなっているのかわからない。

   古代の陵墓の造営では、報酬のある労働であれ「ただ働き」であれ、当時の権力者によって多くの人民が動員されたのは疑う余地がない。よって、現在でのそれらは国有資産の一部であり、国民のいわば共有財産であって、特定の政治的な事情や思惑にとどめられていいものではあるまい。特に歴史学者は、諸外国での例に習い、国民の知る権利のためにもっと前面に出るべきだ。そして、内部の石室などの調査を含めた発掘に向け、この国の「古代史」を明らかにしようとの公論をリードすべきであろう。

   以下は後の時代のことだが、6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。

   政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家、すなわち後の天皇家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。7世紀の早早の造営も伝わるところから、最近の日本考古学では、これまでこの時代も含めて後期古墳時代と呼んでいたものを、前方後円墳の終焉の時期をもって古墳時代の後期と終末期とに細区分する考えが出されているとのことだ。

(続く)

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