○○349の『自然と人間の歴史・日本篇』占領統治下での積極的平和主義(憲法草案など)

2018-10-27 19:11:51 | Weblog

349の1『自然と人間の歴史・日本篇』占領統治下での積極的平和主義(憲法草案など)

 こうしてポツダム宣言が受諾され、第二次大戦に敗北してからは、連合国軍に占領された。占領政策を実行したのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部:GHQ/SCAP,General Head Quarters,Supreme Commander for rhe Allied Powersの略)である。そこでの最高司令官には、アメリカ大平洋陸軍司令官のダグラス・マッカーサーが連合国の同意の下に就任した。そのGHQの上部に、1945年(昭和20年)12月には、対日占領政策の最高意思決定機関として、アメリカ、イギリス、中国(国民党政府)、ソ連など11ヶ国(後に13ヶ国)からなる極東委員会(FEC:Far Eastern Commission、本部はワシントンに設置)ができた。
 なお、GHQ最高司令官の諮問機関として、アメリカ、ソ連、イギリス、中国(国民党政府)からなる連合国対日理事会(ACJ:Allied Council for Japan、本部は東京に設置)が設けられた。とはいえ、実質的にはGHQはアメリカの指導力が群を抜く形で組織され、アメリカの意向に添った政策が実施された。そのため、米ソによる冷戦時代にはいると極東委員会、対日理事会はソ連が反発したため急速に機能しなくなっていく。
 こうして日本政府の上に立つ最高権力が与えられたGHQの下で、数々の改革が行われていった。そのGHQは参謀部の他に民政局など多数の部局を持ち、日本の民主化をすすめる改革の立案にもあたった。形式はGHQによる間接統治であったが、その権限は強く、日本政府はその指示によって民主化政策の実施にあたった。なお、館林については、しばらくGHQによる「直接統治」が行われ、その後撤収がなされた。その意図、その実際については、今もその全容はわかっていない。このような占領統治は、1952年(昭和27年)4月27日の日本のいわゆる「単独講和」により連合国による占領が一応終わり、独立が回復されるまで、日本全体としては、いわば二重権力ならぬ、外部権力による間接統治が続いた。
 1946年(昭和21年)2月3日、GHQが日本国憲法の草案作成を民放局に指示した。その10日には草案が完成している。表向きは、僅か一週間ほどで基本的な考え方と編成が凝縮して出来上がったのだとされる。

これに至る前、GHQは占領開始直後に、日本側に憲法改正を求めていた。ポツダム宣言受諾直後に成立していたのは東久邇(じ)内閣であったのだが、同内閣は敗戦処理しか眼中になかった。そもそもこの内閣においては、戦後の混乱の中、食糧をはじめ、生活必需物資が極度に不足していたことから、憲法改正を考える余裕はなかったものと推察される。
 1945年(昭和20年)10月9日に幣原内閣が成立すると、その翌日の10月11日、マッカーサー最高司令官は憲法改正の素案を示すよう支持を与えた。同内閣は、10月末に憲法問題調査委員会(憲法調査会)を設け、憲法改正の調査に着手する。

だが、彼らは、国民主権の原理に立つ新憲法の制定を行う気概に乏しかった。そんな内閣であるから、日本側作成の憲法改正草案作りの中身は、明治憲法のごく一部の修正に留まっていた。
 1946年(昭和21年)2月8日、同内閣の松本大臣は、「憲法改正要綱」及び説明書をマッカーサーに提出するに至る。ところが、2月1日にはこれがマッカーサーの知るところとなっており、「改正草案は、明治憲法の字句の最も穏やかな習性にすぎず、日本国家の基本的な性格はそのまま変わらずに残されている」と評価された。それゆえ2月3日、マッカーサーは民政局長ホイットニー准将(じゅんしょう)に対して、憲法草案の起草を命じた。起草に当たって、彼は次の3つの原則を示しつつ、GHQ民政局に文案作成の自由裁量を与えることを伝えた。 
 ところで、アメリカ政府は、1945年10月頃から日本の憲法改正の項目に関する案を考えていた。その結果を、いわゆる「SWNCCー228」(国務・陸・海三省調整委員会文書228号「日本統治制度の改革」)に取りまとめ、翌1946年(昭和21年)1月11日、これをマッカーサーに送付していた。
 話を戻して、マッカーサーからの命令を受けた民政局は、かかる「マッカーサー3原則」と「SWNCCー228」を指針として、日本政府とは関係なく、独自に日本国憲法草案を起草した。2月10日にこれが出来上がると、GHQは2月13日に日本政府に提示するに至った。これが「マッカーサー草案」と通称されるものである。

その第8条には、こう書かれていた。

「国民の一主権として戦争は之を廃す他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す。

陸軍、海軍、空軍又は其の他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるべし。」

 これを受け取った日本政府は、その内容に驚愕するのであったろうが、秘密裏に交渉を試みるも跳ね返され、結局占領軍の強固なる意思に従うほかないと悟るに至る。かくて同草案が踏襲されての新たな「憲法改正案要綱」が日本政府により作成され、3月6日には国民の前に発表された。マッカーサーは同要綱を指示するとの声明を発表し、これでGHQの了承を取り付けたことになる。
 同年4月10日、衆議院選挙が行われ、この憲法改正草案要綱が論議の的になったが、3月6日まで従来の天皇制(天皇主権)護持を掲げていた自由党、進歩党は一転この草案要綱に賛意を表すに至った。4月17日、日本政府はかかる草案要綱を上部に整理して、11章100条にわたる、口語体で書かれた「日本国憲法草案」が発表されるに至る。1946年(昭和21年)5月には、第一次吉田内閣が成立し、この内閣の下で同憲法草案を枢密院の諮詢(しじゅん)に付し、6月8日に可決され、5月16日には第90議会が招集され、6月20日開会の日が提出された。

 衆議院での審議はおよそ2か月にわたり、その後の8月24日若干の修正を加えて可決した。貴族院は、8月26日から同草案の審議に入り、10月6日、若干の修正を加えて可決した。10月7日、衆議院は、貴族院の修正分を可決し、ここに帝国議会での議決が完結した。こうして議会の議決を経た憲法改正案は、10月29日枢密院で可決された。
 日本国憲法が公布されたのが、その年の11月3日、その翌年の1947年(昭和22年)5月3日、天皇の裁可を経て、「朕(ちん)は、日本国民の総意に基づいて、親日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」なる「上諭」を付して施行された。
 こうして日本国憲法が制定されてから70年を経た頃、制定当時の制定者しての国民の意思を振り返る観点を含め、またぞろこの憲法は「借り物」だとか、「日本国民が原案をつくったのではなく、GHQがつくった」だとか、主体性に触れる議論が止まない。その中には、憲法の平和条項、基本的人権の保障を守る立場からのものもあるので、一概に言えないものの、そのことの内容抜きに、概観だけを殊更に強調することに傾いているのではないかと思われる。

 なぜなら、制定前の日本政府案は旧態依然のもので話にならない水準であったのに加え、日本国憲法案の制定手続き、内容に国民には大きな反対はなかったのだし、その後これら基本条項の主旨は国民の理解と協力、そして研鑽(けんさん)などの自主的努力によって今日まで保持され、国民に根付いてきたと考えられるからである。

(続く)

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