□159『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

2018-10-15 21:21:03 | Weblog

159『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

 雪舟(せっしゅう、1420?~1506?)の人生がどんなであったかは、実はあまりわかっていない。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。

 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。帰国後、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。

 「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

(続く)

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□215『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山室軍平)

2018-10-15 20:35:19 | Weblog

215『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、山室軍平)

 山室軍平(やまむろぐんぺい、1872~1940)は、岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)に生まれた。家が貧しかったため少年時代に養子に出された。上京して働いていたときにキリスト教に触れる。同志社大学に入学したものの、同大学を中退して岡山に帰り、石井十次らと高梁教会などで伝道活動を行った。

 その後、石井十次の勧めで救世軍に参加する。救世軍(Salvation Army)とは、現在世界の120以上の国と地域でキリスト教の伝道、社会福祉、教育、医療などを推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体である。

 入軍してからはめきめきと頭角をあらわし、やがて東洋で最初の中将となり、さらに日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動などに力を尽くした。 

(続く)

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□214『岡山の今昔』岡山人(20世紀、留岡幸助)

2018-10-15 20:28:00 | Weblog

214『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、留岡幸助

 留岡幸助(とめおかこうすけ、1864~1934)は、備中松山藩(現在の高梁市)の理髪業の家に生まれた。生まれて後、米小売商留岡家の養子になった。8歳で漢学塾に学び、小学校に通う。1880年(明治13年)、キリスト教を知る。1884年、高梁で行われたキリスト教宣教師の講演で「武士も農民も商人も、神の前では皆同じで、平等である」と聞き感銘を受け、上代知新から洗礼を受けた。 

 郷里の先達、山田方谷(やまだほうこく)の教えの一つに、「至誠惻怛(しせいそくだつ)」といって、福祉と奉仕の勧めにも影響を受けたのではないか。やがて地元の支援により同志社大学に進学する。卒業後は、結婚し京都の丹波(たんば)で宣教師として働く。やがてアメリカへ留学し、彼の地で監獄制度や感化事業を学んだ。特に、感化事業に関心をもち、日本でも同様の施設を創設するために奔走した。東京巣鴨や北海道に家庭学校を設立した。これらの活動をして 彼は「感化事業の父」と称される。感化事業とは、非行の性癖のある少年少女を保護・教育してその矯正を図ることをいう。

(続く)

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◻️213『岡山の今昔』岡山人(20世紀、石井十次)

2018-10-15 20:24:17 | Weblog

213『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、、石井十次


 石井十次(いしいじゅうじ、1865~1914)は、現在の宮崎県高鍋町に生まれた。
長じては、1879年に東京の芝の攻玉社に入学する。1881(明治14年)年に結婚し、宮崎で小学校教師、警察署の書記として勤めた。1882年(明治15年)、岡山県甲種医学校(現在の岡山大学医学部)に入学。1884年(明治17年)、岡山にて金森通倫より受洗してキリスト教徒となる。医学を志すも、1887年卒業試験に失敗し、岡山の上阿知診療所で医師としての実習を兼ねて代診をしていた。
 その後、1887年(明治20年)に岡山市の三友寺を借りて、日本孤児教育会を開始する。通称は「岡山孤児院」(岡山市門田屋敷に在)といって、日本で最初に孤児院を創設したことになっている。ちなみに、「紅岸寺跡から県道28号線を東へ3.5キロメートルほど行き、上阿知中バス停から北に入ると大師堂があり、東側に「岡山孤児院発祥地碑」が立っている」(岡山県の歴史散歩編集委員会編「岡山県の歴史散歩」山川出版社、2009)とのこと。

 その石井は、最初から孤児救済施設を「教育院にして養育院にあらず」と述べ、食べさせるだけではなく、労働を通じて教育をすることが大切であるとの信念のもと、以降、多いときは千数百人の子供を養っていた。この岡山での施設は、彼の生きていた頃の全盛期1907年(明治40年)を経て、1912年(大正元年)の里預かり地の91名を残して宮崎県に移転するまで続いた。石井は、その2年後に力尽きたのであろうか病没する。その新天地に移るまでの間、延べ3000人以上の孤児を救済したとも言われる。
 石井十次と友情で結ばれ支援した人々の中に、大原孫三郎と児島虎次郎(1881~1929)がいる。大学を中退し倉敷で悶々としていたであろう大原は、石井の講演を聞いて感銘を受ける。それまでの放蕩癖を改め、倉敷の事業家となってからは石井の事業の最大の支援者となった。児島は、大原家の奨学生となって絵画を学んだ。後の大原美術館開設に当たっては、大原の元でその美術面での目利きの手腕を発揮した人物だ。その彼が、大原の紹介で岡山孤児院に泊り込んで「情けの庭」を描いた。石井十次は、児島虎次郎の実直な人柄に惚れこみ、長女を児島の嫁にした。こうして彼の社会事業は、地元実業家の支えもあって発展していったのであった。

(続く)

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□212『岡山の今昔』岡山人(20世紀、アリス・ペティ・アダムス)

2018-10-15 20:11:26 | Weblog

212『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、アリス・ペティ・アダムス

 アリス・ペティ・アダムス(1866~1937)は、アメリカのニューハンプシャー州に生まれた。教師になるためボストンで勉強中に、市内のスラム街を見て救済事業に参加することを思い立つ。やがてアメリカンボールド宣教師となる。そんな中、彼女はまたまアメリカに帰国していた従兄弟ジェイムス・ペティと会って、日本での話を聞いた。この従兄弟は、1880年(明治13年)に岡山基督教会に派遣された宣教師4人の中の1人だった。その彼は、石井十次(いしいじゅうじ)が運営する岡山孤児院の有力支援者で、「院のおじいさん」と呼ばれていたらしい。
 1891年(明治24年)、24歳で開通から2、3年目の大陸横断鉄道に乗ってカリフォルニアのサンフランシスコにやって来る。そこから船に乗って、はるばる日本の横浜に着いた。彼女の両親は、娘の外国での生活に反対するどころか、逆に励ましたというから、驚きだ。布教を兼ねていたのであろうか、「セツルメント」に従事する目的を持って岡山に着いたのは、同年の5月の初めであった。 

 その仕事とは、貧民街に住み、そこの住民と個人的に接触しながら生活の向上を図ること、例えば授産所・託児所・診療所などの活動をいい、聖書の上での裏付け(バック・ボーン)としては、イエスが「どんないいことをしたら天国に入れるでしょうか」の問いに答えた時の、つぎの文句があるという。
 「それはのどが渇いていたときに飲ませ、腹が減ったときに食べさせ、裸のときに着せ、宿がないときに宿を貸し、また病気のときに見舞い、獄にとらわれていたときに訪問してくれることだ。」(『新約聖書』のマタイ福音書25章35~40節)
 さて、岡山での彼女の生活だが、当時の東山(びがしやま)に建っていた宣教師館の一室をもらって住処とし、まずは花畑尋常小学校で、貧しい子供達に英語なんかを教える。初代の校長は、小野田牧師であった。ところが、初めての外地での活動だというのに、彼女の活動意欲は留まるところを知らなかったらしい。更井哲夫氏(岡山博愛会)は「アダムス女史」についての講演会で、こう述べておられる。
 「アダムス先生は、そうした宣教師がせ作った学校だけで英語を教えていたわけではありません。岡山の北に御津郡金川町があります。もう合併して岡山市になりましたけども、その金川城主の日置さんは非常に対外的な人で、これからは教育が大事だということで学校を作りました。それが養忠学校です。ここにアダムス先生は教えに行きました。」(山陽学園大学・山陽学園短期大学社会サービスセンター編『日本の教育、岡山の女史教育、2006年公開講座講演集』吉備人出版、2006)
 70歳になり、しかも乳がんの手術の後遺症で苦しんでいた彼女にとっては、日本に滞在した45年間への感慨は、いかばかりであったろうか。彼女は、長きに亘って岡山に留まり、聖書に基づく、愛に溢れた働きをした。日本人は、そのことを忘れはしまい。故郷のアメリカの東海岸のニュートンという町へ帰っての翌年、彼女はその慈愛に満ちた人生を終えた。

(続く)

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