467『自然と人間の歴史・世界篇』ジンバブエ
ジンバブエ(1980年4月18日に独立、旧宗主国はイギリス)は、アフリカ大陸の南部に位置する。首都はハラレ。内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。世界遺産のビクトリア湖の滝など、観光地としても有名だ。
11世紀に遡ると、ショナ族によるマプングブウェ王国の成立がある。13世紀からは、モノモタバ王国(通称ジンバブエ王国)が繁栄する。ジンバブエとは、「石の家」を意味するらしい。これを伝えるのが、グレート・ジンバブエ遺跡であって、壮大な「石の家」として1986年のユネスコ世界遺産に登録される。王宮の跡や宗教儀式の場所、それに自然石の間を不整形の石を積み上げた壁などが残っているという。
1890年代には、セシル・ローズの率いる英国南アフリカ会社による、モノモタバ王国に対する占領がなされる。このあたりへのイギリス人の入植も進んでいく。
1923年、白人の住民たちが、イギリスの自治植民地としての南ローデシア(現在のジンバブエ)をつくる。1924年には、イギリスの直轄植民地(現在のザンビア)が設立する。これにいたる前には、1922年のイギリス南アフリカ会社の経営の行き詰まりが介在していた。
同社が、これを理由にローデシアの経営の放棄を決めたのに対し、イギリス政府は南アフリカ連邦への統合を望むのだが。1923年、英国の自治植民地として南ローデシアが発足する。一般的には、この頃のことを「旧イギリス領ローデシア」と呼んで区別している。
そして、第二次世界大戦後に、この地域の白人中心社会の独立は持ち越される。南ローデシアの白人政権は、北ローデシアの銅とニヤサランド(現在のマラウィ)の豊富な労働力に着目する。そして、この流れで3植民地の連邦化を行うことを志向する。自分たちの夢をもたせてくれるのは、互いにタッグを組み、現地民を支配することだとする。そして迎えた1953年、白人たちはローデシア・ニヤサランドを結成する。
1963年には、アフリカ諸国に独立の大波が起こって、連邦制が解体を余儀なくされる。これに伴い、南ローデシアの白人至上主義者たちは、イギリスにかけあい、独立を認めるよう交渉に入る。イギリス政府は、これを認める上での条件として、多数支配への漸次的移行をいうのだが、あくまで白人による少数支配にこだわる白人政権はこれを拒絶する。そしそういうことで、両者の話し合いは膠着状態となり、1965年11月のローデシア共和国の一方的独立宣言の日から1979年12月までの間は、一方的に独立宣言した入植者の白人強硬派の支配下にあった。
それでも、歴史は進んでいく。そんな中でも、1968年には国連安全保障理事会による、対ローデシア経済制裁決議が採択される。1970年代、ムガべらが指導する黒人解放団体によるゲリラ活動が白人政権を脅かすようになっていく。1979年、イギリスが乗り出しての、独立に向けての平和的解決合意を署名するにいたる。これを「ランカスターハウス制憲協定」と呼ぶ。
そして迎えた1980年には、ジンバブエ共和国としてイギリスから独立を果たし、黒人のムガベが新国家の首相に就任する。ここにいたって、ようやく黒人と白人が共存する建前の国家になった訳だ。
1987年には、ムガベが大統領に就任し、以後、19909年、1996年、2002年へと回を重ねていく。2008年3月の総選挙(大統領選挙、上院・下院選挙、地方選挙)が実施される。2008年6月、大統領決選投票の末にムガベ大統領が五選を果たす。白人の農園を強制的に収用して黒人に与える土地改革を進め、欧米と対立する。
経済制裁もあって国内経済は混乱し、中央銀行は紙幣を濫発。これが影響して2008年には、インフレ率が一時2憶3千万%以上になったというから、驚きだ。2009年、経済崩壊による超インフレーションによりジンバブエドルに代わり、米ドルなど外貨使用を全面許可するにいたる。
2013年7月、ムガベ大統領は六選され、長期独裁政権の悪弊が目立つようになっていく。2015年には、ジンバブエドルが廃止される。2017年に入って、大統領の有力後継候補の副大統領を解任したものの、国軍司令官がこれに反発する。11月、ムガベ大統領は辞任に追い込まれ、ムナンガグワが大統領に就任する。
2017年現在の人口は、約1600万人、タバコや綿花などの農業が盛んだ。プラチナや金、ダイヤモンドなどの鉱物資源が豊富である。
(続く)
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