880『自然と人間の歴史・世界篇』カンボジア内戦と和平への歩み(1970~2018)
1970年、親米のロンノル将軍の率いる軍がクーデターを起こす。元国王のシアヌークは国家元首であった人物なのだが、弾圧を恐れて中国の北京に亡命。
この年、親中国のクメール・ルージユ(KR)との間でカンボジア内戦が始まる。1975年には、KR・共産党側がプノンペンを制圧する。ポル・ポト書記らが権力を行使し、私有財産廃止などを行う。これによる政権は、強制移住や虐殺もためらわなかった。一説には、その後数年間に200万人以上が死亡と推定される。
1977年、フン・センらは、ポル・ポト派から離脱してベトナムへ亡命する。1979年、ベトナム軍の支援でヘン・サムリン政権が成立する。1982年、シアヌーク派、ポル・ポト派を含む反ベトナムの連合政府が発足する。内戦が激化する。
1989年、米ソ首脳が冷戦の終わりを宣言する。1990年9月、国連安全保障理事会の常人理事国5か国が、カンボジア最高国民評議会(SNC)を設置する。これは、シハヌークを議長とし、ヘン・ サムリン政権6名、ソン・サン派2名、シハヌーク派1名、ポル・ポト派2名から成る。この下で、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)による停戦監視・総選挙実施などの枠組みで合意に漕ぎ着ける。
これを踏まえての1991年10月、紛争当事者4派と関係18か国(国連常任理事国や日本を含む)が、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ平和協定)に調印することで、カンボジアにようやく和平の道筋がつく。12月、ポル・ポト派による反対行動が多発し、国際的な和平プロセスに暗雲が垂れ込める。
1992年3月、国連PKO(平和維持活動)に新国家樹立の準備が任される。日本からは施設部隊、停戦監視要員、文民警察官らが現地に派遣される。1993年5月、国連カンボジア暫定機構の下での制憲議会選挙を実施した。恐れていたポル・ポト派の攻撃はなかった。6日間にわたる選挙は投票率89%。シアヌーク派のフンシンペックが第1党、親ペトナム勢力の流れをくむ人民党が第2党となる。6月には、両党による共同首相制の暫定政府が発足する。具体的には、ラナリットが第一首相に、フン・センが第二首相に就任する。
1993年9月、新憲法が公布される。立憲君主制によるカンボジア王国が成立。シアヌークが再び国王になる。これにより、UNTACの任務が終了する。1997年、プノンペンで両首相陣営が武力衝突し、ラナリット側が失脚する。1998年、ポル・ポトが死亡したことで、ポル・ポトが消滅する。
2004年、シアヌークが退位し、実子のシハモニが新国王となる。2008年、人民党のフン・セン首相による事実上の単独政権が成立する。2012年、シアヌーク前国王が北京で死去する。2013年には、総選挙で救国党が躍進する。2016年、国連の支援を受け、元ポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷が開かれる。同派の元幹部らに、最高刑の終身刑などを言い渡し、ようやくにしてカンボジア内戦に政治的決着がつけられる。
2017年、最高裁が救国党の解党命令を発す。2018年7月には、総選挙(下院の定数125議席)でフン・セン率いる人民党が全議席獲得で躍進する。投票率は83.02%で前回の69.61%を上回ったものの、無効票の割合は前回の1.6%から8.54%に急増した。同党は、2月の上院選挙(定数62)についても、国王の指名などで決まる4議席を除く全議席を得ている。
(続く)
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