306『自然と人間の歴史・世界篇』普仏戦争(1870~1871)
1868年には、転機が起こる。スペインで革命がおこり、革命政府はイザベル2世を廃位とし、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)の支流ジグマリンゲン家の王子レオポルトに王冠を与える。フランスのナポレオン3世(1808~1873、ナポレオン・ボナパルトの甥)はこれに反対して、プロイセン政府に抗議するのであったが、ビスマルクはこれを巧みに利用して、1870年7月ついにフランスをしてプロイセンに宣戦布告させた。南ドイツ諸邦はプロイセン側についた。これを「普仏戦争」と呼ぶ。
1871年には、ドイツ北部に位置する国家のプロイセンとその連合軍が、宰相のビスマルク(1815~1898)の指導により、ナポレオン3世のフランスとの戦いを有利に展開していく。そして迎えた1870年9月のセダンの戦いでフランス軍を撃破するに至り、ナポレオン3世は捕虜になる。
そのまま進んでの1871年1月に相手国の首都パリを占領したプロイセンの軍は、ドイツ帝国の成立を宣言する。その間、フランスの共和主義者たちは、ナポレオン3世の廃位と共和体制の樹立を行って戦ったものの、飢えと寒さも災いして敗退した。
かくも華々しいプロイセン側の勝利になったのには、兵士の数の違いのみならず、次のような装備の差もあったと言われる。
「また、フランス軍は紺の上着に赤いズボンという‘威嚇’理念に基づく派手な軍服だったから、簡単にプロシャ軍の標的となった。これに対し、黒の上着に褐色のズボンというプロシャ軍の軍服は銃弾からよく兵士たちを守った。武器の点から見ても、フランス軍のシャスポー銃はプロシャ軍のドゼ銃より射程が優れていたが、肝心の弾薬が決定的に不足していた。大砲も、フランス軍の先込め式ブロンズ砲では、プロシャ軍の元込め式のクルップ鋼鉄砲の敵ではなかった。」(鹿島茂『怪帝ナポレオン3世、2004、講談社学術文庫)
この戦いでプロイセンは、1871年5月のフランクフルトにおいて、かつてないほどの大きな収穫を手にした。まずは、アルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)を手に入れた。この地方は、鉄鉱石と石炭が豊富にあり、プロイセンの工業化には大きな力となっていく。二つめは、50億フランの賠償金を新生ドイツに支払うことになった。これらで力を得たドイツは、この戦争の勝利によって、大陸としての西欧州の派遣をフランスからもぎ取ったのである。
(続く)
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