♦️306『自然と人間の歴史・世界篇』普仏戦争(1870~1871)

2018-10-06 21:08:34 | Weblog

306『自然と人間の歴史・世界篇』普仏戦争(1870~1871)

 1868年には、転機が起こる。スペインで革命がおこり、革命政府はイザベル2世を廃位とし、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)の支流ジグマリンゲン家の王子レオポルトに王冠を与える。フランスのナポレオン3世(1808~1873、ナポレオン・ボナパルトの甥)はこれに反対して、プロイセン政府に抗議するのであったが、ビスマルクはこれを巧みに利用して、1870年7月ついにフランスをしてプロイセンに宣戦布告させた。南ドイツ諸邦はプロイセン側についた。これを「普仏戦争」と呼ぶ。

 1871年には、ドイツ北部に位置する国家のプロイセンとその連合軍が、宰相のビスマルク(1815~1898)の指導により、ナポレオン3世のフランスとの戦いを有利に展開していく。そして迎えた1870年9月のセダンの戦いでフランス軍を撃破するに至り、ナポレオン3世は捕虜になる。

そのまま進んでの1871年1月に相手国の首都パリを占領したプロイセンの軍は、ドイツ帝国の成立を宣言する。その間、フランスの共和主義者たちは、ナポレオン3世の廃位と共和体制の樹立を行って戦ったものの、飢えと寒さも災いして敗退した。

かくも華々しいプロイセン側の勝利になったのには、兵士の数の違いのみならず、次のような装備の差もあったと言われる。  

 「また、フランス軍は紺の上着に赤いズボンという‘威嚇’理念に基づく派手な軍服だったから、簡単にプロシャ軍の標的となった。これに対し、黒の上着に褐色のズボンというプロシャ軍の軍服は銃弾からよく兵士たちを守った。武器の点から見ても、フランス軍のシャスポー銃はプロシャ軍のドゼ銃より射程が優れていたが、肝心の弾薬が決定的に不足していた。大砲も、フランス軍の先込め式ブロンズ砲では、プロシャ軍の元込め式のクルップ鋼鉄砲の敵ではなかった。」(鹿島茂『怪帝ナポレオン3世、2004、講談社学術文庫)

 この戦いでプロイセンは、1871年5月のフランクフルトにおいて、かつてないほどの大きな収穫を手にした。まずは、アルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)を手に入れた。この地方は、鉄鉱石と石炭が豊富にあり、プロイセンの工業化には大きな力となっていく。二つめは、50億フランの賠償金を新生ドイツに支払うことになった。これらで力を得たドイツは、この戦争の勝利によって、大陸としての西欧州の派遣をフランスからもぎ取ったのである。

(続く)

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♦️305『自然と人間の歴史・世界篇』普墺戦争(1865~1867)

2018-10-06 21:07:38 | Weblog

305『自然と人間の歴史・世界篇』普墺戦争(1865~1867)

 そして迎えた1865年、ビスマルクはこの両国の独立勢力を押さえ込み、オーストラリアと「ガシュタイン条約」を結ぶ。これにより、シュシスヴィヒはプロイセンの、ホルンシュタインはオーストリアの支配下におかれる。
 ところが、1866年になると、ビスマルクは新たな手を打つ。列強が干渉しないように工作した上、オーストリアに圧力をかける。これに対しオーストリアがドイツ連邦議会に提訴すると、ガシュタイン条約違反だといって、ホルンシュタインに出兵する。プロイセン軍はオーストラリア軍を破り、8月にはプラハ条約を結ぶ。
 この条約により、オーストリアはプロイセンにホルンシュタインに譲り、ヴェネツィアをイタリアに譲渡する。それに、オーストリアは2000万ターレルの賠償金をブロイセンに支払うこととする。
 この戦争の後、プロイセンの国力と勢いは増していく。ハノーファーやクール、へッセン、ナッソウなどの諸国家を併合する。1867年には、マイン川の諸国家とともに来たドイツ連邦をつくる。この連邦だが、軍事と外交はプロイセン王が握る。なお、バイエルンなど南ドイツ4国家は連邦に留まったものの、ビスマルクはそれらとも攻守同盟を結ぶのを忘れなかった。
 こうして、プロイセンは大きな国にのし上がった。プロイセン国内においては、この戦争を通じ、ビスマルクは、議会に対する工程権力を確立させた。わけても、1862年以後の予算の事後承認を求める「事後承諾法」を議会に提出する。同案の賛否で、進歩党は分裂する。ビスマルクを支持する一派は進歩党から離脱し、国民進歩党を結成する。このようにして、議会ではビスマルク指示は安定多数を占めるようになっていく。これをもっていうなれば、「ドイツ統一は自由を犠牲にして行われることになった」(米田治・東畑隆介・宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信教育教材、1988)のだ。

(続く)

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♦️304『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンの強大化(1818~1864)

2018-10-06 21:06:55 | Weblog

304『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンの強大化(1818~1864)

 ウィーン会議での列強間の決定によって、プロイセンは得業の発達したライン地方を獲得する。1818年になると、政府は「プロイセン関税法」を制定する。近隣諸国をに対し、プロイセンを中心とする関税同盟に加盟を促す。1834年には、「ドイツ関税同盟」を発足させる。これには、18か国と約2230万人の人口を含む。
 1850年、プロイセン政府はオーストリアと条約を結び、名目ばかりとなっていたドイツ連合を解散させる。1850年代のドイツ産業革命を経ての1854年までに、南ドイツ諸国をドイツ関税同盟に加入させるのであった。
 1861年にヴィルヘルム1世が即位すると、保守的なマントイフェル内閣を辞職させ、新たな軍制を敷こうとする。当時、議会の下院ではプロイセン進歩党が勢力を成していた。責任内閣制の確立、平時における軍事予算の削減、2年現役制と後備軍制度の存続を掲げ、国王の軍制改革案に反対する。
 1861年12月の総選挙で、進歩党は第一党に躍進する。これに対し、プロイセン国王は駐仏大使のビスマルクを首相に任命し、難局に当たらせる。そのビスマルクは、就任直後の下院演説で、次のようにいう。
 「現今の大問題は、言論や多数決ーこれが1848年及び49年の大錯誤であったーによってではなく、鉄と血によってのみ解決されうる」と。
 ところが、ここにプロイセントともにドイツ連邦の大きな一翼を担うオーストリアとの間に、シュシスヴィヒ・ホルンシュタイン問題が起こる。この両国はデンマーク王の支配下にあったものの、住民の多数がドイツ人であった。そのため、早くからデンマークからの独立運動があった。1864年10月、ビスマルクのプロイセンは、オーストリアと語らって、両公国をデンマークから奪い取るのに成功する。

(続く)

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