703『自然と人間の歴史・世界篇』米ソの核軍縮(1980年代、1987年のINF全廃条約など)
1985年秋、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連の核廃絶に方向をチェンジするとともに、一方的に核実験の敗死を宣言する。1986年1月、ゴルバチョフは、ヨーロッパに配備されている米ソの中距離核戦力(INF、Intermediate-range Nuclear Forces)の全廃を提案する。
1987年11月19日、議会は米ソ首脳会談を約3週間後に控え、SDI(宇宙での核戦争をも視野に入れる)予算を政府要求額の約3分の2に圧縮した。1987年12月、米ソ首脳(レーガンとゴルバチョフ)がINF全廃条約に署名した。
ミサイルの撤去のみならず、双方の査察を規定した。寄せては返すであろう、軍備拡張の競争には、果てしがないのだ。
この条約では、射程距離が500キロメートルから550キロメートルまでの、地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄を規定した。これには、核弾頭や通常弾頭の両方が含まれる。廃棄の期限とされる3年後の1991年6月までに、米国側は846基、ソ連側は1846基のINFミサイルを廃棄するということで、将来の保有も決めるという画期的なものだ。
両国は、条約の規定に従って廃棄後、互いの軍事施設を査察し、相手側が条約内容を遵守しているかを検証したという。
1988年5~6月、アメリカノレーガン大統領がソ連を訪問した。では、なぜこの時期、かくも大胆なミサイル廃棄劇が実現したのだろうか。経済的には、ソ連側が国力(単に経済力の疲弊というレベルを超えつつあったという意味で)の疲弊の見通しを持っていたことが容易に想像できる。
翻ると、そうした国力の低下には、アフガニスタンへの軍事介入の失敗も糸を引いていた。この介入の始まりは、こうである。
1978年4月の軍事クーデターでアフガニスタンに非共産主義政権が立ち上がる。南の隣国であるソ連は、その影響を受けることを怖れた。アミン新政権がアメリカとの協力関係でこの地に前線基地を設けるかも知れないとの懸念もあっただろうし、この動きの東側同盟国への波及を怖れたのかもしれない。
ソ連のこの介入は、アフガニスタンの内戦を引き起こしていく。ソ連軍は、アメリカに支援されたイスラム原理主義勢力とも戦わねばならなかった。ほぼ10年に及ぶ介入により、ソ連軍の被害は1万4千人余の使者を数えたと伝えられる。
だが、そればかりではなかった。それとともに、ソ連側に大きな軍縮への意思形成を与えたのはチェルノブイリ原子力発電所の事故であった。そのことを窺わせる後年のゴルバチョフとの一問一答が紹介されている。
「米国には、INF全廃条約を可能にしたのは、米国がSDIを推し進めたためとの意見がある。米国は何でも自分が勝利者でないと気がすまないようだ。決して、SDIのおかげで実現したわけではない。ソ連は、SDIへの対抗手段を持っていた。詳細は公表できないが、レイキャビクでのレーガン大統領との首脳会談でも、そのことははっきりと伝えた。それに、SDIはいずれ下火になるだろうと考えていた。そこで、SDIの宇宙実験を禁止するABM制限条約を7~10年間、お互いに遵守するよう調整を試みた。予想通り、この間にSDIは失速した。」
では、何がソ連指導部を軍縮に向かわせたのかの問いに対し、こう答えたという。
「1986年に起きたチェルノブイリ原発事故だ。私は、チェルノブイリ事故前の世界と以後の世界を分けて考えている。あの事故で、制御を失った核エネルギーが、どのような惨状を生み出すかを実感させられた。ソ連という核大国が大変な苦労をして、やっとのことで、たった一基の原発の核エネルギーの制御を取り戻すことができた。もし戦争で核兵器の制御を失い、チェルノブイリのような汚染が蔓延したら、もう手に負えない。チェルノブイリ原発事故は、核軍縮に取り組む私にとって、大きな教訓となった。」(吉田文彦「核のアメリカートルーマンからオバマまでー」岩波書店、2009、151~152ページよりゴルバチョフの発言を引用)
1989年12月、レイキャビクでの米ソ首脳会談において、「冷戦の終結」が確認される。翌1990年には、東ドイツが西ドイツに併呑される形でドイツ統一が為された。
これは後のことだが、2018年10月には、アメリカのトランプ政権が、この条約を「破棄するつもりだ」と言明する。アメリカは、その理由としてロシアの条約違反や、中国への対抗措置上、アメリカも中距離ミサイルの開発・配備をすすめる必要があることを言っている。
(続く)
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