◇◇◇副・目次『美作の野は晴れて』第一部・序~○○(2018年10月05日時点)

2018-10-04 21:24:30 | Weblog

◇◇◇副・目次『美作の野は晴れて』第一部・序~○○(2018年10月05日時点)

 

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2.早春1

3.早春2

4.村にテレビがやって来た

5.都会への憧れ

6.農暦の始まり

7.冬場の狩り

8.故郷の人々1

9.故郷の人々2

10.父と戦争1

11.父と戦争2

12.幼年期1

13.幼年期2

14.春一番1

15.春一番2

16.春爛漫1

17.春爛漫2

18.春の学舎1

19.春の学舎2

20.春の課外授業と城下町・津山

21.初夏の輝き1

22.初夏の輝き2

23.遠足、修学旅行など1

24.遠足、修学旅行など

25.田植えの頃

26.夏の自然の中で1

27.夏の自然の中で2

28.夏の自然の中で3

29の1.七夕の空(多彩な行事)

29の2.七夕の空(星の物語)

29の3.七夕の空(瞬く天の川)

 

30.自然の猛威

31.夏の子供たち(夏休みへ)

32.夏の子供たち(自然と風物)

33.村落共同体

34.夏の果物と野菜

35.夏の子供たち(手伝い)

36.夏の子供たち(遊び)

37.夏の子供たち(勉強など)

38.津山へ鳥取へ奈義へ1

39. 津山へ鳥取へ奈義へ2

39. 津山へ鳥取へ奈義へ3

41.初秋の風1

42.初秋の風2

43.初秋の風3

44.初秋の風4

45.月見

461.運動会

462.学芸会

47.実りの秋(稲刈りと脱穀)

48.実りの秋(籾摺りと麦植え)

49.秋の風物詩(鮒とり)

50.秋の風物詩(多様な食べ物)

51.秋の風物詩(様々な幸)

52.晩秋の輝き()

53.村祭り1

54.村祭り2

55.母の青春1

56.母の青春2

57.冬への備え1

58.冬への備え2

59.冬の暮らし1

60.冬の暮らし2

61.新しい年へ1

62.新しい年へ2

63.新しい年へ3

64.学び舎で何を学んだのか1

65.学び舎で何を学んだのか2

66.新たな出発1

67.新たな出発2

68.新たな出発3

69.新たな出発4

70.

71.

72.

73.

74.

75.

76.

77.

78.

79.

80.

 

(続く)

 

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◇◇◇目次『美作の野は晴れて』第一部・序~○○(2018年10月05日時点)

2018-10-04 21:23:39 | Weblog

◇◇◇目次『美作の野は晴れて』第一部・序~○○(2018年10月05日時点)

 

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2.早春1

3.早春2

4.村にテレビがやって来た

5.都会への憧れ

6.農暦の始まり

7.冬場の狩り

8.故郷の人々1

9.故郷の人々2

10.父と戦争1

11.父と戦争2

12.幼年期1

13.幼年期2

14.春一番1

15.春一番2

16.春爛漫1

17.春爛漫2

18.春の学舎1

19.春の学舎2

20.春の課外授業と城下町・津山

21.初夏の輝き1

22.初夏の輝き2

23.遠足、修学旅行など1

24.遠足、修学旅行など

25.田植えの頃

26.夏の自然の中で1

27.夏の自然の中で2

28.夏の自然の中で3

29の1.七夕の空(多彩な行事)

29の2.七夕の空(星の物語)

29の3.七夕の空(瞬く天の川)

 

30.自然の猛威

31.夏の子供たち(夏休みへ)

32.夏の子供たち(自然と風物)

33.村落共同体

34.夏の果物と野菜

35.夏の子供たち(手伝い)

36.夏の子供たち(遊び)

37.夏の子供たち(勉強など)

38.津山へ鳥取へ奈義へ1

39. 津山へ鳥取へ奈義へ2

39. 津山へ鳥取へ奈義へ3

41.初秋の風1

42.初秋の風2

43.初秋の風3

44.初秋の風4

45.月見

461.運動会

462.学芸会

47.実りの秋(稲刈りと脱穀)

48.実りの秋(籾摺りと麦植え)

49.秋の風物詩(鮒とり)

50.秋の風物詩(多様な食べ物)

51.秋の風物詩(様々な幸)

52.晩秋の輝き()

53.村祭り1

54.村祭り2

55.母の青春1

56.母の青春2

57.冬への備え1

58.冬への備え2

59.冬の暮らし1

60.冬の暮らし2

61.新しい年へ1

62.新しい年へ2

63.新しい年へ3

64.学び舎で何を学んだのか1

65.学び舎で何を学んだのか2

66.新たな出発1

67.新たな出発2

68.新たな出発3

69.新たな出発4

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(続く)

 

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新29の3『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空(瞬く天の川)

2018-10-04 20:35:42 | Weblog

新29の3『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空(瞬く天の川)

 宇宙におけるフィールドとは、空間、時間、そして物質のことである。その出発点を地球とすると、地球から10億キロ、つまり10の12乗キロメートル離れると、木星の軌道が視界に現れてくる。木星は、私たちの地球のおよそ1000倍の質量がある。さらに100億キロメートルになると、太陽系の全体がすっぽりと入ってくる。太陽は、銀河系と呼ばれる小宇宙に属する一つの恒星にして、地球から1億5000万キロメートル、光の速さでいうと10光分のところにある。地球は、一日に1回自転しながら、この太陽の周りを平均で秒速約30キロメートルで公転している。それは、円軌道ではなく楕円軌道に乗っかっている。17世紀のヨハネス・ケプラーにより発見された。なおここに「平均で」というのは、地球と太陽の間の距離が一番近づくのを近日点といい、ほぼ1億4700万キロメートル、そこでの公転速度は秒速約30.3キロメートルであるのに対し、反対側の一番遠くなるところを遠日点といい、そこでの公転の速さは毎秒29.3キロメートルとやや遅くなっている。
 さて、1000億キロ、つまり10の14乗キロメートルになると、ここでもまだ太陽が見える。太陽は、恒星だから自分で燃えて光って見える。そして10の21乗キロメートル。つまり約10万光年で美しい渦巻き銀河の構造が見えてくる。これが私たちの住む銀河系なのだとされている。一般に、この渦巻きをした銀河(galaxy:ギャラクシー)は1億から1兆個もの星から成り立っており、その銀河が多数集まって銀河群・銀河団となり、それがまた多く集まって超銀河団になるというように階層構造が広がっている。その全体が宇宙だと言える。そこで、この渦巻き銀河を上から見ると、アンドロメダ座の近くに肉眼で見える、「M31」と呼ばれるアンドロメダ銀河のような、渦巻き形を形成している星の大集団を横から見ると凸レンズ状に見える。1924年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルによって、それまでは私たちの銀河系の一部だと考えられていたのが実は別の銀河であり、それは天の川銀河と隣合わせであることが発見された。ちなみに、M31銀河は、私たちの銀河系から約250万光年の彼方にある。それは、銀河系の約2倍の大きさで、秒速300キロメートルの速さで銀河系に近づいているのだという。
 このままいくと、およそ50億年後には銀河系の方がアンドロメダ星雲の中に吸収され、両者は合併するのではないか。ところが、物理学者が予言する「そのとき」はかなり違っうのだと教わった。講義では、「でも、もし君たちが生きていたとしても、その衝突には気づかないだろう。銀河はほとんど空っぽの空間だから、ぶつかっても星々はお互いの間をすり抜ける。ほとんどの星はぶつかることのないまま二つの銀河は合体して、渦巻き銀河ではなくなり、倍の規模の楕円形の銀河を形成する。でも、もしきみがその中の星の一つにいたとしても、数十億年もかかる合体のプロセスに気づくことはないだろう」(クラウス教授の講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送より)ということなので、驚きだ。
 地球と太陽の距離は、およそ1億5千万キロメートルある。太陽からの光は、およそ500秒をかけて地球にやってくる。光は一秒の間に真空中を約30万キロメートルだけ進む。つまり、私たちが見ている太陽は、その都度500秒の前の姿なのである。私たちの太陽系は、銀河の中心から約2万7~8千光年、およそ2京7~8千兆キロメートルの「オリオンの腕」と呼ばれるところにある。
 私たちの銀河系に含まれる星の数は、およそ1000億個と見積もられる。それらの集合は、ディスク(円盤)に見立てることができるだろう。その直径は、約10万光年だと言われる。ここに1光年は1年の間に光が進む距離で、約10兆キロメートルを表す。およそ10京キロメートルある訳だ。ディスクの厚さは約1000光年ある。バルジとは、膨らみや樽の胴部分のことで、銀河系中心の盛り上がりをいう。このバルジを入れたディスクの厚さは1500光年位ある。いずれにしても、大変平べったい形をしている訳だ。その真ん中は実に沢山の星が密集していることから、まるで目玉焼きの黄身のように盛り上がっている。
 その銀河の渦巻きの外延部に近い部分、そこを川底に見立てて、我が身を置いたとしよう。そこから「天の川銀河」(銀河系の別名)を見上げてみる。すると、天の川は夜空をぐるりと一周するようにして繋がっている。が星が集結している部分と、星がまばらになって見える部分とが分かれている。渦巻き銀河の中で星が一番集結しているバルジには、恒星集団が密集していると考えられている。外側まで広がっている円盤構造の部分に対し、こちらは厚さ方向に丸いというよりは、楕円体のような広がりをしている。
 このバルジは、「巨大なブラックホール」で満たされていると考えられる。それは、例えば物理学者の高梨直紘(たかなしなおひろ)氏によって、比較的私のような者にもわかりやすく説明されている。少し長くなるが、引用させていただきたい。
 「赤色巨星になった後の星の運命は、星の重さによって2つに分かれます。太陽の重さの8倍よりも軽い星は、星をつくっていたガスが宇宙空間に放出されていき、惑星状星雲と呼ばれる段階を経て、最終的には星の芯の部分だけが残ります。これが白色矮星(はくしょくわいせい)と呼ばれるものです。白色矮星では新しく核融合反応は起こらないため、基本的にはそのまま少しずつ冷えていき、最終的にはまったく光らない星となると考えられています。
 太陽の8倍を超える重い星の中心部はさらに縮まっていき、星全体はさらに大きく膨らみます。そして、最終的には星の中心核が融けて圧力を失い、星全体が中心に向かって崩れ落ちる重力崩壊と呼ばれる現象を起こします。これが重力崩壊型の超新星爆発です。星をつくっていたガスの多くは宇宙空間に吹き飛ばされ、超新星残骸となります。一方、星の中心部には中性子星あるいはブラックホールが形成されます。中性子星も白色矮星と同じく、時間の経過とともにエネルギーを失っていき、最終的には光を放たない天体になると考えられています。ブラックホールも、特に外部からの刺激がない限りは、そのまま大きな変化は起きません。」(高梨直紘「これだけ!宇宙論」、秀和システム、2015)
 なぜそこにブラックホールがあるのかという問いかけに、クラウス教授は次のように言われる。
 「とても忍耐強い天文学者がこの星々のちょうど真ん中あたりをみつけ続け、星々の軌道を観測した。すると、星がある暗い物体のまわりを回っていることがわかったんだ。この物体の質量をきめるのには、きみたちもこれから直ぐ好きになるニュートンの万有引力の法則を用いた。こうしてその物体がまわりに星を引き寄せていて、太陽の百万倍の質量があることがわかったんだ。とても小さく、光を放つこともなく、太陽の百万倍の質量を持つという事実から、われわれはブラックホールだと考えている。・・・・・もちろん、それが見えないことは残念なことだ。もっとさまざまな観測を重ねて、それが本当にブラックホールかだといえるのかを見極めたいと思っている。ブラックホールは密度が高すぎて、光さえ逃れることができない。脱出するには光より早い速度が必要なんだ。」(クラウス教授のアリゾナ大学での、社会人らを相手にした講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送)
 そのブラックホールのあるところでは、「中心部を取り囲むように、「事象の地平線」と呼ばれる半径がある。事象の地平線の内側では、ブラックホールから脱出するために必要な速度が光の速度よりも大きくなるため、古典物理学によれば、なにものもそこから逃げ出すことはできない。したがって、事象の地平線よりも内側で放出されれば、光でさえも、ブラックホールの外に出てくることはない」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか」文藝春秋刊)と考えられている。
 それから、天の川となってみえるのは、銀河系の薄い円盤を横方向から眺めている。それとは逆に、星がまばらなところは、それらの星が密集している銀河の円盤からはずれたところ、つまり円盤の上と下にある星をみているからにほかならない。肉眼で見えないものも含め、この広い銀河に宿る、およそ1000億の星々の中で、地球を含め幾つの星やその惑星に命が宿っているのだろうか。今でも、田舎に夏帰った時の晴れた夜は、雄大な宇宙にしばし浸れる。残念ながら、昔日のあのダイヤモンドをちりばめたような明るさをもつ宇宙パノラマではない。そうなったのは、周りがすっかり明るくなったためなのか、それとも空気がよどんで向こうが見透せなくなってきたからなのか、その辺りのことはまるで知らない。ただ、朝方、夜明け前には地平線の上方を人口衛星がゆるゆると西方に移動していく姿が見えていることもある。
 七夕の締めは、「七夕送り」をしなければならない。飾りつけを川に流せばよいようなものだが、あいにく家の裏手筋を加茂川まで持って行くのは厄介だ。そこで我が家の近くにあるのは狐尾池であった。それなので、竹から飾りつけを外して、竹は家において処分することとし、飾りのみまとめて持って池に流しにいったのではなかったのか。短冊は燃やすのではなく、流れに任すのが筋というものであると考えていた。それに、この池に沈めても人を害したり環境を汚染することはないからと、近所のおじさんやおばさんから苦情は聞いたことはなかった。何事も楽しむまでは勢いがあってよいのだが、その後の片付けにはいろいろと面倒な事がある。残った竹は、鉈(なた)で細かく切って、風呂炊の材料し、火の中にくべていたのではないか。

(続く)
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新29の2『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空(星の物語)

2018-10-04 18:58:34 | Weblog

新29の2『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空(星の物語)


 人々が七夕を飾る頃は、まだ梅雨も残っていて、曇り空の時が多い。残念ながら、あの美しい天の川銀河は見ることができない。8月上旬になって夜空が晴れて、天体観測に適した季節となる。中国から伝わったものに、日本古来の「けがれ」を祓う信仰と結び付いて、日本独特の体裁になったものらしい。この物語の舞台となっているのは、夏の夜空の光の光芒である。周りは暗闇に包まれる。そんな夜空からの光は、太古の人々の頭上にも燦々と降り注いでいたことだろう。それに身体を丸ごと打たれるようにして、しばし自らの心の底に潜んでいる神秘の扉を開きつつ、何らかの安らぎを得ていたのだろうか、それともこの美しく瞬く星々に誘われ、自分の存在の小ささ、そのはかなさに怯えていたのかもしれない。そうする間にも、地平線からカシオペア座に、さらに北斗七星へと線を延ばしていくと、やがて現在の北極星とされる小熊座の一等星に行き着く。
 ことのほか美しい場所は、「夏の大三角」の辺りだ。この形を構成しているのは、南側から眺めてはくちょう座のデネブを北の頂点とし、右回りの東の空にベガ(織姫星)があって、その西南の方角にアルタイル(牽牛星)が見える。私たちは、七色の光を見ることができて、「スペクトル」と呼んでいる。アイザック・ニュートンが発見した。その色は、波長の長い方から、俗に赤、橙、黄色、緑、青、藍色、青紫の順序ともされている。とはいえ、地球上のどこにいるかで、人々の目に幾つの色に見えるかは定まっていない。私たちの目に映る彦星の方は、白っぽくて、わし座に含まれる、1等星という。こと座のベガは大層明るいゼロ等星で、青白い光を放っている。実際には、ギリシア神話に出てくるベガ(織姫星)と、わし座のアルタイル(牽牛星)とは14.8光年も離れている。ここに1光年とは、1キロメートルが10の5乗センチメートルであるのに対し、1光年は10の18乗センチメートルである。真空中を光が1年間に進む距離とされ、約9兆4605億キロメートルに相当する。それなので、七夕の夜だからといって、この二つの星が私たちの眼に仲良さそうに、ほのぼのと並んで見えることは望めない。
 古代中国の物語の彦星と織姫はごく普通の夫婦であり、地上で仲むつまじく暮らしていた。ところが、そんなある日、織姫はどのような理由によるものかわからないが、天帝によって天に上げられてしまう。彼女を追って、2人の子供とともに天に上げてもらった夫は、天の川に阻まれ、妻のいるところに行き着くことができない。ただ年に一度だけ、鷺(さぎ)に頼んで橋をかけてもらい、織姫との再会を果たすことができる。何とも哀れさの漂う、古代中国の物語のあらましである。短冊には、もともと裁縫がうまくなりますようにと、女の子が願って短冊に記していた。それがこの国に伝わり、だんだんと男の子もあれこれの願い事を記す行事に変っていったことになっている。
 地域によっては、この行事に用いられる竹は色々、本数も二本ではなく、一本だけのもあるらしい。こちらの独立行政法人国立女性会館の1階の広いロビーには、5、6メートルはありそうな立派な竹が設けてある。どっしりした感じでしなだれかけてあるのは、天の川をイメージしているのだと一目でわかる。何とも大胆だ。しかも、短冊に混じって、くす玉、輪つなぎ、何やら提灯(ちょうちん)らしきもの、四角つなぎ、紙すだれといった振り付けもされていて、全体的に豪華な七夕飾りとなっていた。惜しむらくは、玄関を入った先のホールに立てられているので、風の気配が感じられない。もしこれが窓際に置かれてあれば、窓を開けると一陣の風が舞い込んでくる。すると、笹竹の先々にまたの短冊たちがその風になびいて、ゆらゆら揺れる姿が見られるのにと、贅沢な空想にとりつかれるのだった。
 その頃、我が家の庭から見上げた時の、夜空に広がる星の世界の美しさは、今でも忘れていない。夏の夜空はことのほか美しく、そして神秘的であった。その頃は、夜になると、家路を急ぐ雀やトンビ、それにカラスなどの群れがいなくなったころ、森の木々が仄かな風にそよぎ始める。それとともに、周囲の森のざわめきが増してくるような感じられた。それは、昼の間はいっさい聞こえなかった、生きとし生ける者たちの時々刻々の息使いであったのかもしれない。空の色合いも、だんだんに漆黒になっていき、ついに闇夜が空全体を覆うのだ。気づくと、天空に無数の星が瞬いている。その世界を、いつの間にか、周りの闇が幻想的に囲んでいる。
 はじめ北に向かって立ち、首をしだいに後ろに縮めるようにして天頂の方へと見ていく。
すると、漆黒の森が被さった北東の方から、とかげ座、はくちょう座とある。はくちょう座には、デネブという明るい星が瞬く。天空高いところまで行くと、無数の星を二つに分けている光の帯のようなものが見える。その姿は、ぼんやりしているようでもあり、白いミルクを垂らしたようでもある。西洋ではこれを「ミルキーウエイ」と呼んでいる。かの『ギリシャ神話』の、赤ん坊のヘラクレスが母親であるヘラの乳房を思い切り吸ったとき、勢い余った乳がほとばしって天まで届いた名残だとされる。
 天の川に連なる星たちは、ここから二手に分かれて、こぎつね座、や座、わし座、たて座、いて座と続く。その二股の帯がひときわ明るく輝いている周りが、わし座からたて座、そしていて座にかけてのところであり、その中の「南斗六星」は、いて座の頭から胸にかけての、真南の明るい天の川の中でに見ることができる。その形が赤ちゃんにミルクを飲ませるためのスプーンに似ているところから、「ミルキー・ディッパー」(乳の匙)と呼ばれる。北西の空へ大きく傾いている北斗七星に比べややこぶりながら、星の並びはよく似ている。古代中国の寓話によると、こちらにいる仙人が生きることを司っている。そして人が生まれると、死を司る北の仙人と相談して寿命を決めるのだという。そのさそり座からいて座にかけての付近、つまり地球から見たその方向に、私たちの銀河系の中心があるのだと言われる。ここには、私たちの銀河系の物質が高密度で集まっている。そこに暗い隙間のようなものが見えるのは、実際には、そこに光を出さない暗黒の質量としてのダークマター(暗黒物質)があるからだ。いて座を過ぎてからは、夏によく見えるさそり座などを経て、この満天にかかる光の架け橋は向こうの南の地平線へと吸い込まれていく。

(続く)
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□5『岡山の今昔』弥生時代の吉備(北部)

2018-10-04 18:34:49 | Weblog

5『岡山(美作・備前・備中)の今昔』弥生時代の吉備(北部)

 美作での弥生期の遺跡としては、沼の住居跡が有名である。大陸から九州北部に米づくりが伝わってきたのは、今から2500年ほど前だといわれており、以後稲作は、短い間に列島各地に広がっていった。当時のそこらにおいては、布の中央に穴をあけ、その穴に頭を通すタイプの衣服を着た人々が連れだって住居を構え、この辺りを開拓して水田をつくったりして、歩き回っていたのだろうか。谷口澄夫氏は、この史跡の発掘の成果をこう語っておられる。
 「この沼の遺跡には十数個の竪穴が群集しており、これが一つの集落をなしていたと考えられるが、その中央にあってひときわ大きな竪穴が一つある。約一メートルの深さに掘った竪穴のなかほどに、二本の主柱が東西に並んでたてられ、それに棟木(むなぎ)をわたし、さらに二本の主柱のまわりに10本の支柱がならべられて、棟木から地面にいたる桁(けた)のささえとされ、その上をカヤで葺(ふ)いたものと考えられる。

入母屋(いりもや)づくりの屋根をそのまま地面に伏せたかたちであるが、その木組みはなかなか手のこんだものであった。この家屋はこの集落の族長の住居であったらしく、鉄製の「やりがんな」やガラスの小玉もこの竪穴から発見されている。」(谷口澄夫「岡山県の歴史」山川出版社、1970)
 これに同じ市内の鮒込(ふなごめ)遺跡も加え、1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
 「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」
 これらから推し量って、この辺りでもある種の族長制が始まっていたものと考えられている。ここには、大きな住居の中には「まがたま」と呼ばれる湾曲した玉をひもに通して、それを首から下げたりして着飾った人々もいたのだろうか。大珠(たいしゅ)の方は、「まがたま」に先行するもので、出土状況から縄文中期から後期の前半(およそ前5500~前4000)その大きさは2センチセンチから10センチメートルとやや大振りな長円形をしていて、神聖な呪具(のろいぐ)や装身具として、当時の集落の長や祭司を司る者が身につけていたと推測されている。

いずれにしても、その頃にはもう階級分化が始まっていたのかも知れない。また、この辺りは「沼」といわれてきたのであるから、自然に恵まれ、その「沼」のそこかしこに、こんこんと湧き出る中国山系の伏流水が得られたはずだ。そのことで、水田の運営が可能となったと考えられる。
 1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
 「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」

(続く)

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□4『岡山の今昔』弥生時代の吉備(南部)

2018-10-04 18:33:02 | Weblog

4『岡山(美作・備前・備中)の今昔』弥生時代の吉備(南部)

 判別が難しいのは、この岡山・貝殻山遺跡の貝塚周辺には弥生時代と見られる遺跡も点在していることだ。具体的な遺物・遺構としては、少なくとも6棟の竪穴式住居や貝塚、分銅形土製品などが発見されていて、弥生時代中期からの後期にかけてあったものだと言われる。そこで、これらを総称して貝殻山遺跡とよぶ場合もあるようだが、これまでの発掘調査では、縄文文化と弥生文化との間に連続は認められないようだ。この弥生時代に入ってからの遺跡の特徴として、「方形周溝墓」を伴っていることや、高地性集落の存在が挙げられることがある。ここに高地性集落とは、弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設のことだ。これは、かなりの人々がこのあたりに定住し、それなりの縄張りというか、他からの勢力に対し対抗できることを目して使節を構えて住んでいたことを覗わせるのである。
 さて、この弥生時代を特徴づけるのは、狩猟・採集が主体というよりも、農耕の本格的な開始であったろう。1970年代になって、この地域における農耕の発達を示す典型的な遺跡が見つかった。その場所は、備前岡山(現在の岡山市中区)の百間川(ひゃっけんがわ)緑地公園のあたりにある。今では、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居として、整然とした形で復元されている。

このような住居をつくるには、まずは敷地を確保し、数十センチメートル位の穴を掘って、そこを土間とする。その上には、茅などを敷いたのであろうか。それから敷地から放射状の屋根となるように柱を立ち上げていき、それらの隙間を茅などで塞ぐ。見つかっている遺跡の復元した姿を想像すると、大まかに住居と水田の跡に分かたれ、考古学上の大発見と目されているのが、水田の発達がここから読み取れることである。この百間川に沿っては、原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基遺跡、今谷遺跡、米田遺跡などが点在している。
 弥生時代の水田跡は、岡山市北区の津島〈つしま〉遺跡でも見つかっている。こちらは、弥生時代前期の水田だと見立てられている。水田が営まれるためには地面が平坦でなければならないが、津島では地面にわずかな傾斜があるのを踏まえ、水を効率良く張るために水田を畦〈あぜ〉で細かく区切った跡が残っている。

それに引換え、百間川原尾島〈ひゃっけんがわはらおじま〉遺跡においては、均一な正方形に近い区画となっていた。標高のやや高い場所(微高地〈びこうち〉)を削って水田を拡張した跡も見られる。後者は、弥生時代も後期になってからの遺跡であると考えられている。この違いの背景には、大規模な土地造成を可能とする各種鉄器の普及があったと考えられている。
 笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずに高梁川、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は散在していて、いずれも小規模なものであったのかもしれない。
(続く)

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