□21の2『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(経済、新見荘)

2018-10-09 23:49:44 | Weblog

21の2『岡山(美作・備前・備中)の今昔』鎌倉時代の三国(経済、新見荘)

 また、その頃から、備中国・新見には、平安時代末期より戦国時代にいたるまで長い命脈を保った荘園があった。その荘園は、「新見荘」(にいみのしょう)と呼ばれた。場所としては、備中国哲多(てった)郡、現在の岡山県新見市北西部と、阿哲郡神郷町(しんごうまち)の北東部一帯を占めていた。そもそもは、平安時代の末頃、おそらくは12世紀末葉、大中臣孝正(大中臣氏)の開発した耕作地だと伝わる。その孝正は、これを壬生官務家(みのぶかんむけ)の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻は、さらに建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする京都の最勝光院(さいしょうこういん)に寄進した。後ろ盾になってもらった訳だ。この寄進は、上級の権門の保護を得るため当時広く行われていた措置であり、新見荘は最勝光院を本家(本所)、小槻氏を領家(領主)とする荘園となった。
 それからも土地をめぐる権利の移動があって、鎌倉時代末の1325年(正中2年)から1330年(元徳2年)頃にかけては、本家と領家のいずれも、後醍醐天皇により京都にある東寺の寺領になる。本家が移ったのは、その頃ほとんど皇室の御願寺(ごがんじ)としての体をなさなくなった最勝光院を東寺に割り当てた。これにより、当

荘は東寺を本所とすることとなった。その後さらに「下地中分」が行われ、それからの新見荘は、西方を領主方、東方を地頭方に下地中分される。
 ところが、やがて地頭の新見氏、領家の小槻氏は東寺から疑われるようになる。事実上罷免された格好になりかねないので、両者とも東寺との対立関係が生まれる。その結果、小槻氏は東寺から年貢の一部を報酬として受け取るのと引き換えに領家の職分を放棄するに至る。一方、新見氏は室町幕府の下で地頭の地位を保ちつつも、実質支配の職分は東寺から閉ざされ、現地に新たに代官が派遣されてくる。

 そして迎えた1461年(寛正2年)、代官安富氏の圧政に耐えかねた農民たちが、一揆をおこす。かれらは、安富氏を追い出すのに成功する。これに驚いた東寺側は、直接的支配・経営に乗り出し、その翌年、新代官に僧の祐清が派遣されてくる。しかし、この代官も圧政を行う過程で、荘園の中でこれに反発した者に殺されてしまう。その分、東寺による農民たちへの圧政は何某か緩んだのではないか。

 その際のエピソードとしては、祐清に仕え、身の回りの世話をしていた女性たまかきがいた。その彼女による、東寺あての、主人の遺品を送り届けてほしいとの手紙が「たまかき書状」として現代に伝わる。

 その後の経過については、誠に有為転変というべきか。1467年(応仁元年)からの応仁の乱により西国は混乱に見舞われる、その過程で、新見荘の農民たちは東寺に拠って、新見氏などの武士の傘下に入るのを拒んだ。しかし、やがて新見氏などの武士の力がこの地に浸透してくるのを止めることはできなくなった。

さらにその後の戦国時代に入ると、新見氏は三村氏に攻められて弱体化し、その三村氏も西から手を伸ばしてきた毛利氏によって敗れ去っていく。そんなこんなで迎えた1574年(天正2年)、すでに名ばかりとなっていた東寺の支配権は戦国大名に奪われて最終的に失われ、荘園としての新見荘は消失するに至る。

 

(続く)

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□21の1『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(経済、大炊寮領)

2018-10-09 23:48:20 | Weblog

21の1『岡山(美作・備前・備中)の今昔』鎌倉時代の三国(経済、大炊寮領)

   それは、1292年(正応5年)の出来事であった。美作の久世保(現在の久米郡)で鎌倉幕府の御家人に任じられていた久世氏は、「大炊寮領」(おおいりょうりょう)という名の荘園の所職の一つである「下司(げし)、公文職(くもんしき)」職を得ていた。ところが、その地の荘園領主とおぼしき雑掌覚証がその職を取り上げようとした。そのことが争論に上った。

   これに対する裁定であるところの「御教書」(みきょうじょ)が出される3日前には、幕府による、次の『御教書』が発布されていた。
 「西国御家人は、右大将家の御時より、守護人等、交名を注し、大番以下課役を勤むると雖も、関東御下文を給ひ、所職を領掌る輩、いくばくならず。重代の所帯たるによって、便宜に従ひ、或いは本所領家の下文を給ひ、或いは神社惣官の充文を以て、相伝せしむるか。本所進止の職たりと雖も、殊に罪科無く、者(てえれ)ば、改易さるるべからずの条、天福・寛元に定め置かるるところ也。然れば所職を安堵し、本所年貢以下の課役、関東御家人役を勤仕すべくの由、相触るべくの状、仰せによって執達件の如し。
正応五年八月七日
陸奥守(宣時)御判、相模守(貞時)御判、越後守(兼時)殿、丹波守(盛房)殿」(貞永式目追加六三三)」(『御教書』)
 この親文書を拠り所にして出された本件争論に対する「御教書」には、京都にいる大炊領の荘園主の主張を退け、久世氏に元のように所職を安堵している。関東御家人としての職務についても、引き続いて勤めるような命令がなされる。この採決によると、久世氏が就いていたのは、荘園領主が任免権を持つ荘官の地位に過ぎなく、その職は鎌倉幕府から与えられたものではない。

   ここで考えるに、久世保(久世町)では幕府任命の地頭による領主制がまだ芽生えていなかった。その点で、同じ美作の梶並荘でのような、新しい地頭(これを「新補地頭」という)が補任されることを含め、従来の荘園領主による土地支配にとって代わろうとしたものではなかった。御家人の立場から見ると、この力関係の下であればこそ、頼るべきは鎌倉幕府であったし、訴えを受けた幕府は彼を擁護するに至る。

(続く)

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