134『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館など)
この美観地区の一角、倉敷川(人造の川)の奥まったところに大原美術館がある。この美術館は、1930年に開館した。世界恐慌(昭和恐慌)の只中でのことであった。世間の大方は、これからどうして暮らしていったらよいだろうかなど、不安な毎日を送っていた。そんな厳しい時期に、地方都市にこんな西洋風の大きな美術館ができたことに、地元の人々を含めさぞかし驚いたことだろう。
この美術館建設事業を進めたのは大原孫三郎で、代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られ始めていた。その彼は、1880年(明治13年)岡山県倉敷村の大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島虎次郎(1881~1929)に託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。
大原がこれらの美術品を展示するために建築したのが、ギリシャ様式の建物である。今の倉敷駅から南方面へ暫く歩き、美観地区として町並み保存がなされているところに、重々しく建っている。西洋文明の曙を連想させるかのような柱が観る者の目にユニークに写ることだろう。日本最初の西洋美術館となる。開館が成った後も、現代西洋絵画、近代日本洋画をはじめ絵画を集め続けるかたわら。陶芸館、版画館、染色館などを開館していく。
主要展示品として絵画としては、エルグレコの「受胎告知」(じゅたいこくち)、ルノワールの「泉による女」、モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、セガンティーニの「アルプスの真昼」、ルオーの「道化師ー横顔」、ターナーによるさんざめく中の海波の絵、ロダンの「説教する聖ヨハネ」や「カレーの市民」などが広く知られる。
これらのうち「受胎告知」については、高さが109.1センチメートル、幅が80.2センチメートルということで、2016年10月、やや暗さを感じさせる色調をバックに対象が描かれている。全体に空間に仄かな光が射し込んでいて、観る者を誘う。対角線上に聖母と大天子を配している。ガブリエルの出現に驚いたマリアが身をよじって振り返る、その刹那を描いた。いかにもギリシャのクレタ島で生まれイタリアで学んだ放浪の画家(本名は、ドメニコス・テオトコプーロス)ならではの不思議な構図だとか。大天子のガブリエルが、精霊によりマリアへ受胎を告げている。
むろん、実際にはあり得ないことなのだが、そのことがかえって神秘さを際立たせるのではないか。画面にあしらわれている白百合は純潔、鳩は精霊の象徴を意味するという。随分と意匠を凝らした構図だといえるだろう。批評家により、「この作品で描かれている図像が何を示すのか、その全ては明らかでないが」(案内人の柳沢秀行氏の弁、雑誌「ノジュール」第13号の特集「今月の名作」より引用)と断り書きとなっているのも、何とはなしに受け入れた。
倉敷民芸館は、この地に1948年(昭和23年)に開館した。建物は、古民家を利用している。旧庄屋の植田家の米倉であったのを大原総一郎が寄贈した。これを、(財)岡山県民芸協会が母体となり民芸館として再建したものだ。
なお、ここで「民芸」というのは、大正時代の末期に文化人の柳宗悦(やなぎそうえつ)らが生み出した造語「民衆的工藝」の略称にほかならにない。「用の美」を追及するこの民藝運動には、陶芸家の濱田庄司(はまだしょうじ)や河井寛次郎(かわいかんじろう)なども参加していく。その本拠地として1936年(昭和11年)に開設されたのが、東京・駒場の日本文芸館である。
さて、話を戻しての倉敷民芸館だが、三棟の蔵が古典的でありながら、モダンな構成をなす。初代理事長には、大原総一郎が就任した。初代館長を務めた外村吉之介(とのむらきちのすけ)らの尽力により、現在に受け継がれる。館内には約600点の民芸品、生活品が展示されており、所蔵品で数えると約1万点もあるとのことである。年齢、性別を超えた、往年の暮らしを垣間見たいとするファンによって、今日も支えられている。
この民芸館がまだ日の浅かった1950年2月25日、イギリスの桂冠詩人エドマンド・ブランデンが、文化使節として、ここを訪れ、次の即興詩「グリンプス(A GLINMPS)」(眺め)を詠んだ。これを2階の窓口に飾ってある。マルクス経済学者の大内兵衛による訳『日本遍路』において、こう訳されている。
「黒い輪郭の白い壁/中庭の見通し/清潔な門/そこからのぞく赤い頬の童児/話し合っている黒っぽい着物の二人の友/その向こうには落ちついて光る屋根の列/飾り房のやうな枝ぶりの松/そのひろやかな静けさ」
(続く)
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