□134『岡山の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館など)

2018-10-14 22:08:17 | Weblog

134『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館など)

 この美観地区の一角、倉敷川(人造の川)の奥まったところに大原美術館がある。この美術館は、1930年に開館した。世界恐慌(昭和恐慌)の只中でのことであった。世間の大方は、これからどうして暮らしていったらよいだろうかなど、不安な毎日を送っていた。そんな厳しい時期に、地方都市にこんな西洋風の大きな美術館ができたことに、地元の人々を含めさぞかし驚いたことだろう。

 この美術館建設事業を進めたのは大原孫三郎で、代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られ始めていた。その彼は、1880年(明治13年)岡山県倉敷村の大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島虎次郎(1881~1929)に託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。

 大原がこれらの美術品を展示するために建築したのが、ギリシャ様式の建物である。今の倉敷駅から南方面へ暫く歩き、美観地区として町並み保存がなされているところに、重々しく建っている。西洋文明の曙を連想させるかのような柱が観る者の目にユニークに写ることだろう。日本最初の西洋美術館となる。開館が成った後も、現代西洋絵画、近代日本洋画をはじめ絵画を集め続けるかたわら。陶芸館、版画館、染色館などを開館していく。

 主要展示品として絵画としては、エルグレコの「受胎告知」(じゅたいこくち)、ルノワールの「泉による女」、モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、セガンティーニの「アルプスの真昼」、ルオーの「道化師ー横顔」、ターナーによるさんざめく中の海波の絵、ロダンの「説教する聖ヨハネ」や「カレーの市民」などが広く知られる。

   これらのうち「受胎告知」については、高さが109.1センチメートル、幅が80.2センチメートルということで、2016年10月、やや暗さを感じさせる色調をバックに対象が描かれている。全体に空間に仄かな光が射し込んでいて、観る者を誘う。対角線上に聖母と大天子を配している。ガブリエルの出現に驚いたマリアが身をよじって振り返る、その刹那を描いた。いかにもギリシャのクレタ島で生まれイタリアで学んだ放浪の画家(本名は、ドメニコス・テオトコプーロス)ならではの不思議な構図だとか。大天子のガブリエルが、精霊によりマリアへ受胎を告げている。
 むろん、実際にはあり得ないことなのだが、そのことがかえって神秘さを際立たせるのではないか。画面にあしらわれている白百合は純潔、鳩は精霊の象徴を意味するという。随分と意匠を凝らした構図だといえるだろう。批評家により、「この作品で描かれている図像が何を示すのか、その全ては明らかでないが」(案内人の柳沢秀行氏の弁、雑誌「ノジュール」第13号の特集「今月の名作」より引用)と断り書きとなっているのも、何とはなしに受け入れた。
 倉敷民芸館は、この地に1948年(昭和23年)に開館した。建物は、古民家を利用している。旧庄屋の植田家の米倉であったのを大原総一郎が寄贈した。これを、(財)岡山県民芸協会が母体となり民芸館として再建したものだ。

なお、ここで「民芸」というのは、大正時代の末期に文化人の柳宗悦(やなぎそうえつ)らが生み出した造語「民衆的工藝」の略称にほかならにない。「用の美」を追及するこの民藝運動には、陶芸家の濱田庄司(はまだしょうじ)や河井寛次郎(かわいかんじろう)なども参加していく。その本拠地として1936年(昭和11年)に開設されたのが、東京・駒場の日本文芸館である。

 さて、話を戻しての倉敷民芸館だが、三棟の蔵が古典的でありながら、モダンな構成をなす。初代理事長には、大原総一郎が就任した。初代館長を務めた外村吉之介(とのむらきちのすけ)らの尽力により、現在に受け継がれる。館内には約600点の民芸品、生活品が展示されており、所蔵品で数えると約1万点もあるとのことである。年齢、性別を超えた、往年の暮らしを垣間見たいとするファンによって、今日も支えられている。
 この民芸館がまだ日の浅かった1950年2月25日、イギリスの桂冠詩人エドマンド・ブランデンが、文化使節として、ここを訪れ、次の即興詩「グリンプス(A GLINMPS)」(眺め)を詠んだ。これを2階の窓口に飾ってある。マルクス経済学者の大内兵衛による訳『日本遍路』において、こう訳されている。
「黒い輪郭の白い壁/中庭の見通し/清潔な門/そこからのぞく赤い頬の童児/話し合っている黒っぽい着物の二人の友/その向こうには落ちついて光る屋根の列/飾り房のやうな枝ぶりの松/そのひろやかな静けさ」

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○24『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活

2018-10-14 21:20:18 | Weblog

24『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活

 この南北に細長い列島には他にも多種な縄文土器が伝わっており、これら縄文式土器の写真をじっと眺めていると、縄文時代とは、私たちが普通に考えているような貧しく、厳しい日常かぎりばかりであったのではなく、人々が感覚で感じる時間は比較的緩やかに流れていたことが覗える。生物学者の福岡伸一氏は、縄文時代の人々は、案外、ロマンに綾取られた豊かな精神世界に生きていたのではないかと推測しておられる。
 「しかし、時間がとうとうと流れていた縄文期にはー縄文時代は1万数千年も続いたー今を生き、それが過去の人々と連続し、未来の人々ともつながりゆく、という実感さえあれば生は充実していたのです。完成や成果ではなく、プロセス自体に意味があったのです。
 狩りと採集によって生活の糧を得ていた当時の人々は、現在の我々ほど長時間、労働に身を捧げていたわけでもありません。縄文の民の実労働時間を正確に知ることはできませんが、現在における狩猟採集民の文化人類学的調査によれば、一日に2~3時間ほどの労働によって、集団は社会生活を営んでいるそうです。あとの時間、彼ら彼女らは何をして過ごしていたのでしょうか。鼻を愛でたり、星を眺めたり、歌ったり、風に吹かれたり、あるいは子どもと遊んだりして楽しく暮らしていたのではないでしょうか。」(福岡伸一「生命の逆襲」河出書房新社、2013より)
 とはいえ、当時の人々の全体的な暮らし向きは、現代とは様変わりの、より厳しい原始的生活に近いものだったのではないか。縄文人の寿命も、大方の推測によると、精々30台くらいものでしかなかったのではないかと考えられている。2018年10月に秩父に所在の埼玉県立自然博物館にて、県出土の縄文人の頭蓋骨などの骨格が展示されているのを観察してみたが、現代人に比べかなり小さなものではないか、との印象を受けた。

概して、この時期の日本列島人なるものは、本格的な農耕は行わないものの、単なる採取や狩猟の経済に留まらず、某かの食料栽培や家畜の飼育を行いつつ、それらにまつわり縄文式土器を多用するという、世界にほとんど類例のない「縄文文化」を築いていったのだと考えている。このように考えると、縄文式土器のユニークさを前向きに評価しつつも、大局的に見た縄文人の生活の自由さとは、あくまでこの時代の限られた時空の中での一コマとして考えられるべきだと思う。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○23『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器

2018-10-14 21:19:32 | Weblog

23『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器

 縄文期の東日本の遺跡の多くでは、複雑な紋様の入った、独特の風貌の縄文式土器が沢山見つかっている。その草創期から前期までは、「微隆起線文土器」や「片口深鉢形土器」といって、土器の表面を模様がぐるりと囲んでいた。中期になると、派手な装飾、奇抜な盛り上がりなどを施した「火焔型土器」に趣向を凝らした。さらに後期から晩期にかけては、それまでの立体的な装飾をやめての「壺形土器」が主流となった。

 それらの中には、新潟県篠山遺跡(十日町)出土の深鉢形土器や国分寺出土の俵形甕(かめ)、それに亀ヶ岡式土器に代表されるような、より集まって芸術的作品に近いものもある。それらは写実的な造形というよりも、情念の赴くままに隆起をつくったり(隆起紋)、穴やくぼみをこしらえたりで、まさに空想の所産と見え、どちらかといえば「爬虫類の脳」より前頭葉のなせる技であるとでもいっておきたい。
 とりわけ新潟の信濃川中流域(新潟県十日町市、津南町や長岡市などの信濃川沿い)出土のものは、なかなかに独特である。この遺跡からは、これを含む928点が出土しているそうで、中には煮炊きに使った材料の「おこげ」が付着しているものもあるとのこと。人々は火を使っていた。かれらは、土器に食材を水とともに放り込んで煮炊きすることにより、アクやエグさや苦み、さらには毒抜きをして食べることをしていたのであろうか。
 そんな縄文式土器の中での代表格が、十日町市篠山遺跡から出土したという深鉢型土器にして火焔型土器(国宝にして「縄文雪炎」の愛称で知られる、十日町市博物館所蔵)であって、約5000年前の縄文時代中期(紀元前3500~紀元前2500)の作陶と推定される。この縄文雪炎だが、高さは46.5センチ、最大径は43.8センチとなっていて、縄文人たちが日常生活に食事用として用いていたと理解してよろしいのだろうか。

その写真を観ると、「縄文」の命名であるのに、「縄の目の跡はあまり強く残っていない。縄を押しつけてできた文様ですら、一部消した様子さえうかがえる」(雑誌『ノジュール』2017年9月号、JTBパブリッシング)とのこと。
 全体の造形としては、筒状の下の部分は平凡に感じられる。その上に、あれやこれやの、一種名状しがたい形をした上部が載っているのが、特徴的だ。まずは、突起が宙を目指すかのようにそそり立つ。四方にせり出した鶏頭冠(けいとうかん)状把起や、複雑に波打った縁に鋸状の突起がせり出している。それらの突起は規則正しい並び方はしてなく、得体の知れない何やらがうねりながら、それぞれが自己主張しているかの様だ。

2番目の特徴は、縁取りがあることだ。それは、飾りたてられており、この縁に口をつけて中のものを飲み干すのには、苦労が伴うことだろう。この土器などは、さながら「俺はここにいるよ」と何かを訴えているのであろうか。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️12『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(月の出現とその後)

2018-10-14 10:05:13 | Weblog

12『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(月の出現とその後)

 月は、いつ頃誕生し、そして地球に寄り添うようになったのだろうか。その月は、現在、地球の周りを楕円軌道を描いて回っている。自転の速さは変わらないものの、公転の方は、地球と月との距離が時々刻々変化していることから、早くなったり、遅くなったりしている。この現象は「秤動」と呼ばれる。
 この月の誕生を巡っては、1975年にウィリアム・ハートマンとドナルド・デービスが新説を唱えた。これは、「ジャイアント・インパクト説(巨大衝突説)」と呼ばれる。この説によると、約45億5000万年前、太陽系の中には多くの原始惑星(現在は地球など7つ)が回っていた。

 その中に「テイア」(仮の名)と呼ばれる、今の加勢くらいの大きさの惑星があった。テイアは、原始地球の半分ほどの大きさで、その軌道は地球の軌道と交わっていた。地球とテイアは時速何千キロものスピードで斜めに衝突した。テイアは完全に崩壊し、地球も一部を失った。原始の地球にとっては、全面衝突でなかったことが幸いした。
 テイアとの衝突によって地球から表面の一部が剥がれたのだが、その時宇宙に飛び散った岩石は、互いの引力で引き合う。やがて出来た「月の種」を中心に一つに集まっていき、地球を回る衛星となった。月は地球の岩石の残骸からつくられたとするこの説は、発表された当初は「そんな馬鹿な」といって人々は信じなかった。
 ところが、1969年(昭和44年)、アポロ11号宇宙船が持ち帰った月の岩石に高温に熱せられた痕跡が認められると、その説に鞍替えする学者が増え、今ではこれが月誕生の通説(有力)となっている。とはいえ、1972年に月に着陸したアポロ17号が、その着陸点「タウルス・リットロウ」(Taurus-Littrow) 渓谷で月の土壌を採取し、地球に持ち帰っていた。その試料の解析が進み、「粒が急激に冷やされると、ガラスとなります。そのようにしてできた火山ガラスの中に水が含まれている」」(○(なみ)木則行氏の「スーパームーン、月の不思議」NHK教育テレビ、2016年11月11日放映の「視点・論点」より)ということになった。

こうして月の中に微量の水が含まれていることが判明すると、今度は、このジャイアント・インパクト説(巨大衝突説)に「重大な」疑問を抱く向きも出て来ているとされる。これによると、月の誕生はまたもや謎の中に包まれようとしているのかもしれない。
 ところで現在、月は地球の周りを公転しているが、その距離は時々刻々変化している。原始の月は、地球の今よりずっと近くにあったとされる。ならば、その頃の地球から空を見上げたとしたら、空の大半を占める巨大な月が見えたことだろう。また、月の引力は地球の潮の干満をもたらし、地球の生命の源となる豊富な海を創り出した。ジャイアント・インパクト直後の地球の自転周期は5~6時間程度であったと考えられている。

それからというものは、月が地球にもたらす潮汐力によって、地球の海水と海底との間に摩擦が生じる。このブレーキ作用の影響で自転周期は今日までだんだんと長くなって来ており、今でも「数千~数万年で一秒」程のわずかながら一回転の長さは増しつつある。その月は、地球の大きさの約4分の1、約80分の1の重さ(地球の重力を反映した力)である。

このため、地球の自転速度は徐々に遅くなり、その周期は今の24時間になった。そこで「もし地球と月を合体させると仮定すると、地球の一日は4.1時間で回転することになります」(○(なみ)木則行氏の「スーパームーン、月の不思議」NHK教育テレビ、2016年11月11日放映の「視点・論点」より)とも言われる。
 それから、月の表面のクレーターができたのは、約44億年前のジャイアント・インパクトによる月形成直後ばかりではなかった。約40億~38億年前にも激しい衝突のあったことが、最近の研究で分かって来ている。これらのことと地球との関係如何について、清川昌一氏は、こう述べておられる。
 「木星や土星も太陽系の進化にともなってその公転軌道が少しずつ変化している。土星の公転軌道は外側に、木星の公転軌道は内側に変わっていく。40億~38億年前、木星の公転周期と土星の公転周期が1:2の共鳴関係になったとき、小惑星帯にある小惑星の軌道が不安定になり、大量の小惑星が月に衝突するようになった。
 地球表面は活発なプレート運動のために、38億年よりも前の地層はほとんど残っていない。しかし地球も後期重爆撃から逃れることはできなかったはずである。(中略)
 地球は、40数億年前には海洋があったことが推定されているが、大衝突が起これば衝突による熱で地球の全海水は蒸発して、水蒸気の濃い大気をもつようになる。数百年後には水蒸気が冷えて、再び海洋が出現するということが繰り返された。

また、できたばかりの地殻も繰り返し破壊・溶融していただろう。このように過酷すぎる環境であったために、生命の誕生は後期重爆撃の終わる38億年前まで待たなければならなかった。」(白尾元理・写真、清川昌一・解説「地球全史ー写真が語る46億年の奇跡」岩波初書店、2012)
 あれやこれやで、地球上に生命が誕生したのは、月という衛星が生まれたおかげなのだという説も、多くの専門家から指摘されているところだ。ここでも、私たちが当たり前のように過ごしている時間と空間の枠組みは、はじめからその状態になっていたわけではないことがわかってきている。その後、月と地球の距離が現在のものになったとはいえ、潮の満ち引き(潮汐)は、もちろん月の引力によって海面が引っ張られてのことであるし、私たちこの地球上で生きる者の生活のありようは、月の存在と深い関わりを持っている。ひとたびできてからの月は、地球の子供というより、兄弟というにふさわしい処もあるのだ。
 月は、その重心地球側(地球から見て表側)に偏っているために、地球からは同じ面しか見ることは出来ない、という神秘的なところも残しているのであるが、私たちの地球がこの先も存続していくためには、なくてはならない存在だとされている(以上は、「地球ドラマチック、月と衛星の神秘」2014年9月14日、NHKのEテレで放映、左巻健男編著「面白くて眠れなくなる地学」PHP研究所などからまとめさせていただいた)。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


♦️11『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(衝突以前)

2018-10-14 10:01:59 | Weblog

11『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(衝突以前)

 私たちの地球は、一日に1回自転しながら、この太陽の周りを平均の秒速約30キロメートルで公転している。それは、円軌道ではなく楕円軌道に乗っかっている。17世紀のヨハネス・ケプラーにより発見された。なおここに「平均で」というのは、地球と太陽の間の距離が一番近づくのを近日点といい、ほぼ1億4700万キロメートル、そこでの公転速度は秒速約30.3キロメートルであるのに対し、反対側の一番遠くなるところを遠日点といい、そこでの公転の速さは毎秒29.3キロメートルとやや遅くなっている。
 地球と太陽の距離は、およそ1億5千万キロメートルある。太陽からの光は、およそ500秒をかけて地球にやってくる。光は一秒の間に真空中を約30万キロメートルだけ進む。つまり、私たちが見ている太陽は、その都度が500秒の前の姿なのである。
 そもそも、原始の星間物質の中には、水や炭酸ガスなどの揮発性成分が含まれていて、それが幾つも現れ、互いにぶつかり合いながら、だんだんと規模が大きくなっていった、その一つが地球なのだと。

その過程で、微惑星や隕石が原始の地球にぶつかると、地球の脱ガス大気による温室効果で射出率が低くなっていることから、地球表面は光熱でどろどろのマグマが全球を覆っていたのではないか。なお、射出率(しょしゅつりつ)というのは、二酸化炭素などによる温室効果の大きさを表す指標であって、温室効果が大きいほど射出率が小さくなる。
 地球の誕生から暫くたってからの、地球を取り巻く大気の状態はどうであったのだろうか。それについて、いろいろ諸説はあろうが、京極一樹さんは、地球誕生から約1億年の地球大気の状況について、こう述べておられる。
 「窒素と二酸化炭素ばかりでのない、地表気圧が60気圧の厚い「原始大気」ができ、その雲は雨を降らせ、やがてシアン化水素(HCN、青酸ガス)の溶けた海ができました。」(京極一樹著・加藤恒彦監修「こんなにわかってきた宇宙の姿」技術評論社、2009)
 やがて、約40億年前の地球になる。その頃、太陽系内からの微惑星や隕石の衝突は下火になっていく。そのエネルギーで全球灼熱になっていたのが、地球表面で溶けていたマグマが固まり始める。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


♦️10の2『世界と人間の歴史・世界篇』地球類似の惑星は実在するか

2018-10-14 10:01:09 | Weblog

10の2『世界と人間の歴史・世界篇』地球類似の惑星は実在するか


 
 人類のような生き物は、地球以外にどのような環境で生きていられるのだろうか。ざっと考えただけでも、適度な温度、適度な水分、適切な組成の空気などが必要だ。某かの食べ物もなければならぬ。それらから類推すると、私たちのいる太陽系内には私たちが安全に住むための自然環境はまだ見つかっていない。それでは、他にどんなところがあるのだろうか。
 想像力をたくましくして空を眺めてみよう。すると、天気のよい夜なら、自然豊かな場所に行くと満天の星が見える。数多(あまた)の星々があるうち、私たちの近くにあるのは、どんな星なのだろうか。それに、輝く星には、そのまわりに輝かない星が隠れている筈だという。その輝いていない方の星を探す。そんな中で、生物環境に適した星を探してみる。
 人類の近代に入ってからは、その大いなる仕事に望遠鏡が使用される。偶然の巡り合わせに期待して多方面にそれを向けた。または、ある推定、しかも理屈に合った方向にそれを向けてみる。その数をこなしていくうちに、某かの発見に行き当たることがあるからだ。
 現在までに、太陽系に近いところの星の中から、有望とみられるものが現れてきている。ただし、有望といっても、実にかすかな可能性でしかないし、確かめるすべもない位だ。もう一つのアプローチは、もっと遠くにある星の中から、地球と似たような環境にある星を探し出すことだ。
 前者の試みでは、南半球でよりよく見える、南十字のそばに薄く輝く(-0.0等星)ケンタウルス座α(アルファ)星が見つかっている。この星だが、地球から4.3光年の距離にあるという。冬の夜空に青白くかがやく「おおいぬ座」のシリウスは 地球から8.7光年にあるというから、それの半分くらいか。
 ちなみに、地球と太陽の距離は、1億4960万キロメートルと見積もられている。かたや、光の速さは毎秒29万9792.458キロメートルにして、その光が1年かかっていた進む距離を1光年という。つまり、1光年とは9兆4600億キロメートルということになる。そこで、地球と太陽の距離を1光年の距離で割ってみると、0.00001581光年、これを分(ふん)に直せばおよそ8分19秒となるではないか。
 つまり、太陽から出た光は約8分後に地球に届くであろう。つまり、私たちの眼に見えている太陽は、約8分前の姿を写したものなのだ。ただし、肉眼(裸眼)で見ると失明するのでそのままで見てはならない。したがって、ケンタウルス座α星までの4.3光年という距離は、地球から太陽までの距離と比べ天文学的に大きな距離であると言わねばならない。
 また後者では、地球から39光年離れた恒星の周りに、地球に類似した7つの惑星が回っているのを見つけたという。そして、これらにつき水が液体の状態で存在しているのではないかと想像している。また、それらのうち3つの惑星には海や大気圏がある可能性があるとまで語られる。もしそうであるなら、それらの星に何らかの生命体が存在する可能性が出てくる。ただし、この推論においては、今のところ、それらの可能性がどのくらい高いかは触れられていないようである。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


♦️9『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(火星)

2018-10-14 09:55:42 | Weblog

9『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(火星)

 

 2018年の火星の見え方は、これまでと違った。これも、「生々流転」の一駒というべきか。その明るさは、マイナス2等星を超え、ずいぶんと明るかった。こうなると、肉眼ではっきりと見つけることができる。恒星のようには瞬かず、赤く煌々と輝いていた。

 晴れの一日が終わりにさしかかり、やがて太陽が西に沈んだ頃に東の空に現れ、21時(午後9時)くらいに南東の空に見ることができた。時には、月とかなり近くに見えた。

 それもその筈で、夏には地球からかなり近い位置にやってきた火星は、太陽の周りを687日かけて回る。その軌道は楕円状であって、最も接近した7月31日には、地球との距離が5759マンキロメートルになり、ここまで近づくのは15年ぶりとのこと。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★