□173『岡山の今昔』19世紀の岡山人(鞍懸吉寅)

2018-10-03 22:15:00 | Weblog

173『岡山(美作・備前・備中)の今昔』19世紀の岡山人(鞍懸吉寅)

 鞍懸吉寅(くらかけよしとら、俗名は寅次郎、1834~1871)は、赤穂(あこう)の下級藩士の家に生まれた。長じては、儒学者の塩谷宕陰(しおのやとういん)や水戸藩の会沢正志斉らに学んだ。浪人するが、「富籤論」(とみくじろん)をあらわした。24歳の若さにして、足軽の身分から勘定奉行に抜擢され、藩政改革に携わったものの、保守派に活動を阻止され、追放の憂き目を見る。師匠の塩谷の推挙で津山藩領にて私塾を開き、人材育成に務めていた
 ふとしたことから、旧縁のある津山へ来て、津山藩士の河井達左衛門を頼る。塾で、講義をするなどした。これを機縁に津山藩に出仕する道が開ける。7人扶持という。儒者として用いられることになった。就任直後の1864年(元治元年)夏には、津山藩領である小豆島(しょうどしま)である事件があった。島には、イギリス軍艦が碇泊していた。これに商品を運ぶため小舟が近づくのを浜から島民が見物していた。この中の一人を、水兵が銃殺した。その水兵は、すぐさま船中へ逃げ込んだ。イギリス軍艦は、早々に去った。

藩からその処理を命じられた鞍懸は、現地に赴き、この事件を詳細に調べた上で不当であるとし、幕府に訴え出た。しかし、幕府にイギリスを訴えようとする気はない。それでも、鞍掛は諦めなかった。働きかけを続け、1865年1月10日(元治元年12月13日)付けのイギリス公使の「賠償金をだすことは当然の義務と考えている」との書簡を引き出した。これに基づき、1867年に入ってようやくイギリスに賠償金の洋銀200枚を支払わせた。
 その後は、江戸屋敷に左遷されていたのが、呼び戻されたものの、藩政の要路からは外されていた。かれの「勤王」の立場が、「佐幕」(さばく)の念の強い藩の空気にそぐわなかったと見える。その後、しだいに実力を発揮するに至り、国事周旋掛となる。時の藩主は、9代松平慶倫(まつだいらよしとも、1827~1871)であり、蛤御門の変後、慶倫が幕府に提出した上言書には、鞍懸に攘夷の思想が反映されていた。その幕府からの長州追討の命に対しては、「征長延引に今一層尽力せられたい」という意見書をしたため、藩主に願い出ている。
 明治維新後の1869年には、一転して、小参事を経て権(ごんの)大参事に任命された。この時の事例は、知事が直接に渡した。その後、民部省をもつとめる身の上となる。津山城下においては、1871年9月19日(明治4年8月5日)、津山県庁から士族および卒に対し、今後の処遇に関する通告があった。
 「海内一般郡県の制度になったので、県内の士族は追って文武の常識を解いて家禄を収め、「同一人民之族類」に帰するようになるから、その旨を心得て方向を定めるようにせよ。もっとも家禄を収めたうえは相応の米券を遣わし、生活の道がたつようにする。」(『布告控』:津山市史編纂委員会「津山市史」第五巻近世Ⅲ幕末維新、1974での現代語訳から引用) 
 1871年9月26日(明治4年8月12日)の夜、津山の椿高下の河瀬重男(友人)宅を出たところを短銃で狙撃され、翌日息を引き取った。犯人は逃げおおせたが、当時の城下士族のすさんだ空気がこの暗殺を呼び寄せたものと推察される。頭脳鋭敏な鞍懸としては、そんなこともあろうかと思っていたのかも知れぬが、かれを取り立ててくれた津山藩最後の藩主・慶倫の恩顧に報いようとする気もあって、わざわざ津山を訪れていたのかもしれない。

(続く)

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◻️14『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執)

2018-10-03 00:13:07 | Weblog

14『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執)

おそらくはこの列島にまだ「日本」などという統一国家はなく、もちろん天皇という称号もなかった時代のことだが、「日本書記」巻第十四の「大泊瀬幼武天皇、雄略天皇」には、こう述べてある。

雄略七年(463年か)「八月、官者吉備弓削部虛空、取急歸家。吉備下道臣前津屋或本云、國造吉備臣山留使虛空、經月不肯聽上京都。天皇、遣身毛君大夫召焉、虛空被召來言「前津屋、以小女爲天皇人・以大女爲己人、競令相鬪、見幼女勝、卽拔刀而殺。復、以小雄鶏呼爲天皇鶏、拔毛剪翼、以大雄鶏呼爲己鶏、著鈴・金距、競令鬪之、見禿鶏勝、亦拔刀而殺。」天皇聞是語、遣物部兵士卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」

 これによると、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が雄略大王を呪詛していたとのことで、官者(とねり)の吉備弓削部虛空(きびのゆげのべのおおぞら)がこれを目撃し、告発した。雄略は、兵を派遣し、吉備下道臣前津屋ら七十人を殺したというから、驚きだ。

 同じ年の続いては、こうある。

 「是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、拜田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」

 こちらは、吉備の実力者の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)が、畿内有力豪族の葛城氏(かつらぎし)と結んで、毛姫(けひめ)という妻を娶るということで、たいそう羽振りがよかったらしい。一説には、雄略はこれを嫌ってかかる婚姻を無効にするばかりか、田狭を殺したのだと伝わる。

 さらに、「日本書記」巻第十五の「白髪武廣國押稚日本根子天皇、淸寧天皇」には、こうある。

 「廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺詔、今將至矣。宜從遺詔、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。

 是時、吉備稚媛・磐城皇子異父兄々君・城丘前來目闕名、隨星川皇子而被燔殺焉。惟河內三野縣主小根、慓然振怖、避火逃出、抱草香部吉士漢彥脚、因使祈生於大伴室屋大連曰「奴縣主小根、事星川皇子者、信。而無有背於皇太子。乞、降洪恩、救賜他命。」漢彥、乃具爲啓於大伴大連、不入刑類。小根、仍使漢彥啓於大連曰「大伴大連、我君、降大慈愍、促短之命、既續延長、獲觀日色。」輙以難波來目邑大井戸・田十町送於大連、又以田地與于漢彥、以報其恩。

是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師卌艘、來浮於海。既而、聞被燔殺、自海而歸。天皇、卽遣使、嘖讓於上道臣等而奪其所領山部。冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子。」

 これにいうのは、雄略大王の死後のことで、彼と吉備稚媛(きぴのわかひめ)との間に産まれた星川王子(ほしかわのみこ)が、母とかたらって大王位をねらう。しかし、雄略の重臣たちに察知され、企ては失敗に終わり、母子は殺されたという。重臣たちは、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の責任を追及したことになっている。

 これらに共通する話の筋としては、大王側が何かにつけて吉備氏を警戒し、隙あらば痛めつけていた、吉備氏の方もあれこれ大王の勢力に逆らっていたということであろうか。

(続く)


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□12『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷の支配下へ)

2018-10-03 00:11:28 | Weblog

12『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷の支配下へ)

 では、吉備国の政治的な位置関係はどうなっていたのであろうか。そして、どのように変化していったのであろうか。かつて吉備の国の勢力が及んでいたのは、現在の岡山県全域と広島県東部(備後)を含んだ肥沃な地帯である。古代の吉備の国の繁栄ぶりを物語るものに、濠を持つ広大な前方後円墳が遺されていて、その威容は大和の古墳群と似通っている。他の天皇陵と比べても見劣りしないだけの規模があるのが少なくとも2つある。他の地域と変わったところでは、畿内の箸墓古墳との関係があったのか、ここからは「弥生時代後期に吉備地方で発生し、葬送儀礼に使われた特殊器台と特殊壺が出土した」(小川町「小川町の歴史・通史、上巻」)と言われる。
 その他にも、大規模な陵墓がかなり高梁川下流部などに集中している。今までの発掘で、これらの古墳の被葬者の大半は判明していないようである。これまでの発掘でどのくらいの事実がわかっているのかも判然としない。それとも、発掘の時点で既に宝物もろとも盗掘されていたのか、それともどこかへ多くのものが移動されたのだろうか。
 吉備の中山の西麓(現在の総社市)には吉備津神社が建っている。そこでは、吉備津彦命(きびつひこのみこと)などを祀る。この人物の名は、『日本書紀』の「崇神天皇」の事績の中に登場している。
 「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」(『日本書紀』中の「巻第五御間城入彥五十瓊殖天皇崇神天皇」)
 ここでいわれる崇神大王が実在の人物であったならば3世紀初め(210年頃か、とも言われる)とも目されるものの、当時の倭(わ、やまと)は『魏志倭人伝』による邪馬台国連合の時代であり、実在の可能性が薄いとみざるをえない。

 しかも、この地は米などの穀物のほか、たたら鉄や塩を作っていたことがわかっている。中でも鉄は、上代から美作や備中の山岳の麓・川沿い地帯を中心に手広くやられていたことが伝わる。『延喜式』の巻二十四、主計帳には、美作国の租庸調(そようちょう)のうち「調」の一つとして砂鉄が挙げられる。平安時代末期(1130年前後と推測される)に編纂された『今昔物語』にも「今昔、美作の国、○多軍鉄を採る山有り。阿倍の天皇の御世に、国の司○云う人、民十人を召して、彼の山に入れて鉄を令掘(ほらし)む」(巻十一~十四、本朝、仏法に付く)とある。
 実際には、川の流れを使って土砂の中から砂鉄を採取し、これを「たたら」と呼ばれる溶鉱炉に入れて精錬する。ここに砂鉄というのは、主に山砂鉄を用いることになっていた。それにはまず、砂鉄の含有量が多そうな場所を探す。山間には、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出している場所がある。もちろん、そこから手づかみで砂鉄を取り出すのではない。そこで、水洗いのための水利に恵まれた場所を選ぶ。そして鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設ける。

それから、できれば川の流れに沿って上流に貯水池を設け、その水が山際に沿って走る水路をつくる。山を労働者がツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って下り、下手の選鉱場へ運ばれるという案配だ。この水路を「走り」と言う。下手の選鉱場(洗い場)は3~4か所の洗い池に分かれていて、そこに溜まった鉄分を採取することになっていた。この一連の作業の流れを「鉄穴流し」と呼んでいた。
 後半の工程としての精錬だが、まずは粘土で固く築いた箱型炉(たたら炉)の中に、原料の砂鉄と補助剤の木炭を交互に入れる。それから、木炭に火を点け、たたらふいご(天秤ふいご)を使って火力を上げる。具体的には、戸板状の踏み板を片方に3人ずつ、両方に分かれ、まるでシーソーのように交互に踏み込むことで送風する仕組みだ。昔からの力仕事の一つとされ、勢い余って、空足(からあし)を踏むことを「たたらを踏む」との例えがある。
 時間が経つとともに、砂鉄が溶けて還元(木炭を燃やすことで砂鉄に含まれる酸素が飛ぶ、奪われること)されていく。この作業は、通常約60時間も続けることになっていた。それが済んだら、今度は炉を破砕し、炉の底にたまった灼熱と化した「けら」と呼ばれるものが出来上がっている、それを取り出す。これを「けら出し」と呼ぶ。ところが、こうした一連の作業によって砂鉄の採取の現場には大量の土砂があふれ、炭を作るための山林伐採で付近の山は禿げ山になってしまう。地盤も弱くなって、総じて環境に重大な影響を及ぼすのである。とはいえ、それだけの代償に鉄製の武器や、備中鍬などの農具を作ることができ、黍の勢力拡大に大いに役立ったことであろう。歌にも、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(『古今集』)などとある。
 今は松風そよぐ吉備の古代路は埋もれた形だが、古墳時代の吉備地方には、単一の権力基盤ではなかったのかもしれない。畿内大和の地にある、古墳時代前期と見られる前方後円墳と吉備地方にある古墳群との関わりは、何かあるのだろうか。およそ3世紀後半より4世紀初頭に造営されたと見られる纏向(まきむく)型の前方後円墳の分布ということでは、寺沢薫氏の『王権発生』(2000年刊行)に纏向(まきむく)古墳群のうち石塚、・ホケノ山、東田大塚、矢塚を平均した大きさを1とする対比が載っている。

そして吉備国には、この類型に属する四つの古墳があるという。西の方から数えると、まず楯○、これは纏向(まきむく)型の原型とされ、2世紀末の造営と見られる。宮山は三世紀中ごろで、規模は4分の1、庄内式に分類される。中山は1.2倍あり、矢藤治山は3分の1の規模となっている。

(続く)

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□6『岡山の今昔』倭の時代の吉備(古墳からの視点、その流れ)

2018-10-03 00:08:03 | Weblog

6『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倭の時代の吉備(古墳からの視点、その流れ)

 弥生時代の終了年代については、前方後円墳が日本列島の各地で築造されるようになってからと考えて差し支えないだろう。そしてこの列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。ただし、例えば畿内にある箸墓古墳など古墳時代初期の古墳については、3世紀中葉から後半等々に至るまで諸説紛々、説が割れている。被葬者が誰(卑弥呼か、その跡を継いだ台与(とよ)か、はたまた後続の男王)かが明らかでなく、そのゆえに築造年代が特定できない状態が続いている。
 このうち6世紀は、仏教伝来(528年とも552年とも)に始まる「飛鳥時代(あすかじだい)」の前期に区分けされ、奈良盆地の飛鳥を中心に「倭国」の都が建設され、整備されつつあった頃のことだ。ちなみに、特に645年(大化元年)の「大化の改新」から710年(和銅3年)の平城(奈良)京遷都までの飛鳥時代後期に華咲いたおおらかな文化のことを「白鳳文化(はくほうぶんか)」と呼ぶ。
 果たして、この時代における古墳の造営は、ここ「吉備国」(きびのくに)でも同様であったのだろうか。この地方国は、6世紀頃までかなりの勢威を誇ったと見える。大和政権との関係は、支配される地方政権として大和の統一政権に取り込まれるまでのある時期までは、もっと拮抗する間での政治的連合の相手方であったのだろうか。

 因みに、古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀早早も含む)である。
 さて、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は前方後円墳といい、これは中国にも朝鮮(現在の韓国)にも原型の類例がほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのであって、独自の背景を以ていたのは異なるのではないか。中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。

 それはともあれ、これまでの我が国での発掘なりでは、最初の時期の前方後円墳と見なされているのは、奈良のまきむく遺跡の中にある、箸墓古墳(はしはかこふん)などであるが、これには前史があると見られている。かかる原形は、吉備(現在の倉敷市)の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)にあるのではないか、というのだ。

 それというのも、まきむく型前方後円墳の特徴は、後円部に比べ前方部が短く、ほぼ2対1になっているとのこと。一方、楯築の場合は円丘部分の前後に突起がついていて、片方をはずすと、まきむく型と似通った形になろう。

 このような推測から、穿った考えによると、ヤマトの政権が樹立されるまでの「倭」という国は、吉備国をふくめての、いわば連合政権であったのではないかと。さらに空想を逞しくすると、北九州にあった勢力がヤマトへと勢力を伸ばしていくことや、かの連合政権としての邪馬台国がどこにあったか、という問いにも発展してくるあのではないか。

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。
 吉備地方の古墳についても、後期の造立に入ってきた。西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。
 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半、「楯築墳丘墓」の体裁なのはないかといわれるが、築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。

 特に備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
 それにしても、この弥生時代がどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となる。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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