173『岡山(美作・備前・備中)の今昔』19世紀の岡山人(鞍懸吉寅)
鞍懸吉寅(くらかけよしとら、俗名は寅次郎、1834~1871)は、赤穂(あこう)の下級藩士の家に生まれた。長じては、儒学者の塩谷宕陰(しおのやとういん)や水戸藩の会沢正志斉らに学んだ。浪人するが、「富籤論」(とみくじろん)をあらわした。24歳の若さにして、足軽の身分から勘定奉行に抜擢され、藩政改革に携わったものの、保守派に活動を阻止され、追放の憂き目を見る。師匠の塩谷の推挙で津山藩領にて私塾を開き、人材育成に務めていた
ふとしたことから、旧縁のある津山へ来て、津山藩士の河井達左衛門を頼る。塾で、講義をするなどした。これを機縁に津山藩に出仕する道が開ける。7人扶持という。儒者として用いられることになった。就任直後の1864年(元治元年)夏には、津山藩領である小豆島(しょうどしま)である事件があった。島には、イギリス軍艦が碇泊していた。これに商品を運ぶため小舟が近づくのを浜から島民が見物していた。この中の一人を、水兵が銃殺した。その水兵は、すぐさま船中へ逃げ込んだ。イギリス軍艦は、早々に去った。
藩からその処理を命じられた鞍懸は、現地に赴き、この事件を詳細に調べた上で不当であるとし、幕府に訴え出た。しかし、幕府にイギリスを訴えようとする気はない。それでも、鞍掛は諦めなかった。働きかけを続け、1865年1月10日(元治元年12月13日)付けのイギリス公使の「賠償金をだすことは当然の義務と考えている」との書簡を引き出した。これに基づき、1867年に入ってようやくイギリスに賠償金の洋銀200枚を支払わせた。
その後は、江戸屋敷に左遷されていたのが、呼び戻されたものの、藩政の要路からは外されていた。かれの「勤王」の立場が、「佐幕」(さばく)の念の強い藩の空気にそぐわなかったと見える。その後、しだいに実力を発揮するに至り、国事周旋掛となる。時の藩主は、9代松平慶倫(まつだいらよしとも、1827~1871)であり、蛤御門の変後、慶倫が幕府に提出した上言書には、鞍懸に攘夷の思想が反映されていた。その幕府からの長州追討の命に対しては、「征長延引に今一層尽力せられたい」という意見書をしたため、藩主に願い出ている。
明治維新後の1869年には、一転して、小参事を経て権(ごんの)大参事に任命された。この時の事例は、知事が直接に渡した。その後、民部省をもつとめる身の上となる。津山城下においては、1871年9月19日(明治4年8月5日)、津山県庁から士族および卒に対し、今後の処遇に関する通告があった。
「海内一般郡県の制度になったので、県内の士族は追って文武の常識を解いて家禄を収め、「同一人民之族類」に帰するようになるから、その旨を心得て方向を定めるようにせよ。もっとも家禄を収めたうえは相応の米券を遣わし、生活の道がたつようにする。」(『布告控』:津山市史編纂委員会「津山市史」第五巻近世Ⅲ幕末維新、1974での現代語訳から引用)
1871年9月26日(明治4年8月12日)の夜、津山の椿高下の河瀬重男(友人)宅を出たところを短銃で狙撃され、翌日息を引き取った。犯人は逃げおおせたが、当時の城下士族のすさんだ空気がこの暗殺を呼び寄せたものと推察される。頭脳鋭敏な鞍懸としては、そんなこともあろうかと思っていたのかも知れぬが、かれを取り立ててくれた津山藩最後の藩主・慶倫の恩顧に報いようとする気もあって、わざわざ津山を訪れていたのかもしれない。
(続く)
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