59の1『岡山の今昔』金融の発展(明治時代)
1872年(明治5年)には、国立銀行条令が公布される。これにより、一般への預金と貸付から、為替、割引などの一般事務にとどまることなく、国立銀行券としての紙幣が発行できるようになる。
そして、これを受けての国立銀行が全国的に設立されていく中、岡山においても設立の機運が高まっていく。
1877年(明治10年)には、岡山市に第22国立銀行が、高梁に第86国立銀行が開設となる。この年には、国立銀行条令の改正によって、金の準備なしで資本金の8割までの銀行券の発行ができるようになった。そのことで、設立が容易になったことがあろう。
とはいえ、1879年(明治12年)の京都第53国立銀行の設立をもって、国立銀行の総資本金額、銀行紙幣発行額にほぼ達する。それを受け、全国的に国立銀行の設立が以後禁止されたことから、岡山でのかかる国立銀行の立ち上げは、全国的には「後発組」ということであろうか。
もう一つの特徴としては、第22国立銀行の資本金は5万円にして1000株構成、7人の発起人のうち5人が元士族の上層部分であった。しかも、旧藩主池田家の面々が62%という独占状況での発足であった。
一方、津山においては、国立銀行の設立を志すも、準備が整わずに失敗してしまう。仕方なく、これに代わるべき民間銀行の設立へ動く。そしての1879年(明治12年)には、銀行設立に向けての株式募集を行う。元は国立銀行に向けて動いていたことから、順調に資金が集まり、1880年(明治13年)には、岡山県ではじめての民間銀行設立、営業を開始する。追っての1888年(明治21年)の株式の分布は、50%以上が19人の株主により所有されていた。その中の8人が商人、11人が元士族という構成であって、さらに大株主ということでは、旧津山藩主の松平康民と資産家の森本藤吉の二人が名前を連ねていた。
さらに、倉敷においては、それがなかなか進まなかった。そのため、1888年(明治21年)に設立の倉敷紡績などは、大阪などの遠隔地との取引においては、岡山に出たりして行うしかない。そしての1891年(明治24年)には、倉敷銀行が設立にこぎつける。頭取に大原孝四郎がなり、幹部の多くは倉敷紡績サイドが占めた。1906年(明治39年)には、孝四郎に代わり孫三郎が頭取に就任する。
1890年(明治23年)になると、銀行条令が出される。こちらは、民間銀行の設立、運営に行政からの監督を働かせようとするものであった。
(続く)
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11の1『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(ヤマト説、北九州説、吉備説など)
この話に取り掛かる時には、なんとなくを含め、邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったのかを決めてかからねばならないと感じる。ところが、最近のテレビ番組などでは、明らかに、邪馬台国が大和、つまり現在の大阪や奈良辺りにあったとの前提で話がすすめられていく。登場する専門家も、これを唱える中から意図的に選んでいるのはよいとしても、そのほとんどを断定口調でいう。当然の次第なのかもしれないが、自分に都合の良くない点は、語らない。これなどは、少し強引ではなかろうか。
まずは、まだ考古学でいうところ確証が得られるにはいたっていない。2009年5月には、国立歴史民俗博物館による放射性炭素年代測定法で、箸墓(はしはか)古墳の築造が240~260年位と報告されたという。
参考までに、238年(239年とも)、時の魏の皇帝・曹叡は卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の号を与えたとされる「三国志」東夷伝倭人条の「魏志倭人伝」)。
そのことで、奈良、纒向(まきむく)遺跡の中での箸墓古墳は「卑弥呼の墓」ではないか、とする説が有力視されている訳なのだが、現在までの同古墳からの出土においては、そう断定するに足らないのではないか。
次に、この時期既に畿内に邪馬台国の本拠があったというのなら、それにいたる先行する年代からの経緯をどう説明するのだろうか、まだ憶測の度合いが高いのではないか。
さらに、文献からながめても、「日本書紀」も「古事記」にも、「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼や壱与(台与)の、もしくはそのことを連想させるような、伝承なりは全く出てこない。
それでも、「日本書紀」は「神功皇后紀39年条」に魏志倭人伝を引用して倭の女王と書いている。しかし、彼女は女王ではなく、「日本書紀」の編纂者は、無理に卑弥呼と神功皇后を比定せざるを得なかったのかもしれない。そもそも、彼女の実在性そのものが疑わしい。
これは、邪馬台国が畿内にあったとすれば当然「古事記」や「日本書紀」(両方をひっくるめ「訓紀」とも言いならわす)に卑弥女王伝承が残っているはずだが、それがないのだ。
あるいは、その後定型化されていく中での前方後円墳成立を取り上げ、倭独自の墳墓を強調することでの大和説を採用する向きもあるようだが、それによると、4世紀前半の「伝、崇神(すじん)天皇陵」とされている行燈山古墳の時期とするのが、最も合理的だということになろうか。
ちなみに、これらの場合においては、訓紀にいう初代の大王(仮に「神武」としておこう) と、崇神大王(すじんだいおう、十代、ある有力な推定では364年の即位、訓紀での年代は328年)とを同一人物だとする説が有力視されているようだ。これだと、訓紀でいう、途中の八代の大王は架空の大王に過ぎないことになろう。
それらばかりか、邪馬台国が畿内にあったとあらかじめ決めてかかることの不自然さは、これまでの発掘では、3世紀までの遺跡からの鉄器の出土例において、近畿に比べると圧倒的に北九州の方が多い。県別に見た鉄器の出土数では、3世紀中葉までは福岡県・熊本県・佐賀県が圧倒的に多いという。これについての大和説は、話そのものをそらしてしまうか、当時の社会で鉄製用具を持つことの多い、少ないが、どのようにして、人びととその社会が行う「物質的生産」と結びついていたのかを合理的に述べていないのだ。一言でいうと、鉄を持つことの文明との結びつきの意義が、これまでまっとうな形では述べられていない。
それならば、邪馬台国は北九州にあったという説は、どうなのであろうか。この説によると、北部九州一帯にほぼ限っての地域連合というのが邪馬台国の中身ということになりかねない。ついては、日本列島の統一(東北や北海道は除いて)はさらに時代が下ることになるのはよいとしても、いつ、どのようにして、それが畿内に本拠を移動しての統治支配の拡大になっていったのかが、知りたい。
その上今日では、さらに異説があるようで、「出雲」や「吉備」をして邪馬台国の支配地域であったのではないかというらしいのだか、特に後者は、纒向(まきむく)遺跡の発掘が進むにつれて、吉備が、畿内におけるヤマト王権の成立にあたって重要な位置を占めていたことが明らかになってきたという。なお、この文脈での吉備の範囲とは、備前、備中、美作に備後(現在の広島県東部の一地域)であったとしておこう。
いうなれば、畿内の前方後円墳のルーツが、吉備の楯築遺跡だということになると、その時期が卑弥呼の時代に重なるとなれば、「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国が吉備にあったと推測できることにもなると。なお、その中でには、吉備に邪馬台国があり東遷したとする「吉備邪馬台国東遷説」が有力視されるものの、これまでの発掘調査の結果や文献を駆使し、大方の考古学者の納得を得るような内容にはなっていないのではないか。もしくは、吉備が邪馬台国に向かっていく時の投馬国(とうまこく)ではないかとする説も根強い。
それからもう一つ、そもそも邪馬台国と、その後に表舞台に出てくる「ヤマト政権」との関係を疑問視する、すなわち、両者は直接に繋がらないとみる少数説があり、例えば、こういわれる。
「ヤマト王権の誕生は四世紀前半と想定されるので、三世紀半ばの邪馬台国とヤマト王権との直接的関係はないことになる。(中略)
このように、『書記』編者は『魏志倭人伝』を通じて卑弥呼の知識をもっていた。しかし、『書記』の古い時期の天皇は男性であり、女性はいない。そのため、卑弥呼を神功(じんぐう)皇后に比定せざるをえなかった。このように無理に比定したので、卑弥呼の境遇とは大きく乖離してしまった。その理由としては、ヤマト王権にまつわる伝承に卑弥呼が含まれていなかったから、と考えることが妥当であろう。」(吉村武彦「ヤマト政権」岩波新書、2010)
思うに、邪馬台国の在処の推定が、このような乱立状況から抜け出せていないのには、歴史学という学問の進展を阻み続けている要素をも指摘しない訳にはゆくまい。それは、かねてから識者により繰り返し指摘されてきている国の側の文化政策であって、歴代政権は口をつぐんでいる上、宮内庁は、いまだに確定しない古墳の発掘、再調査なりを拒み続けている。まるで、なにかが見つかったら説明に困ると言わんばかりに、その態度は頑なに映る。
それらの巨大墳墓は、当時の人民に割り当てられ建設されたであろうことは、疑いなかろう。そうであるならば、時とところが変わっての、天皇家の財産なのではあるまい。また、明治政府の時代に名付けられたという各々の「天皇墓」の名目上の在処とも相まって、これを考古学的に調べることは「披葬者の尊厳」を傷付けるというのも、同様の理由により該当しないと考えられる。
(続く)
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