さらに、この事件には、村人が二人をなんとか助けようと、隣村の宝満寺住職に命乞いを藩にしてもらうよう掛け合ったのだが、その住職は寺が同藩とかねてよりよしみを通じていたのが判明した。果たして、村人たちが刑場に駆けつけてみると、時はすでに遅しで、彼ら二人は絶命していたという、なんという悲しい話であろうか。あわせるに、かかる新四郎と利兵衛の「我が身を捨て仲間を助ける」の勇気こそは、その温かな人間性とともに偉大だと言えよう。
(続く)
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118『自然と人間の歴史・日本篇』承久の変(1221)
そして迎えた1192年(建久3年)、源頼朝は、武家勢力にとって最大の対抗勢力である後白河法皇(ごしらかわほうおう)も世を去っていた朝廷から征夷大将軍をの称号を受け、東国の鎌倉で幕府をひらいた。1199年(正治元年)に頼朝が没すると、幕府内部の有力御家人の間の権力闘争が激しくなる。暗闘を仕掛ける主役は、北条氏であった。まずはその年のうちに、美作の守護でもある梶原景時の失脚と滅亡が起こる。1203年(建仁2年)には比企能員(ひきよしかず)の乱で比企氏が滅ぼされる。私の今住んでいるところを領していた豪族である。1204年(元久元年)には、大胆にも二代将軍の源頼家(みなもとよりいえ)の暗殺を演出してのけた。
翌1205年(元久2年)になると、武蔵の国の畠山重忠(はたけやましげただ)を神奈川に呼び出しての、だまし討ちを果たす。この時の重忠は、まだ死地を脱して本拠地(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に引き返して応戦することもできたのだが、逃げずに二俣川の闘いで死んでゆく。それは、関東武士の剛胆さと潔さの典型といえよう。同年、北条時政による将軍廃立の陰謀が画されるが、未遂に終わる。彼の娘は頼朝の妻でもあった北条政子にほかならない。1213年(建暦3年)には和田義盛の挙兵と敗死が起こる。そして1219年(健保7年)、3代将軍源実朝(みなもとさねとも)が北条義時の策謀によって暗殺されるという、めまぐるしさであった。鎌倉幕府の将軍たる者がこうして北条氏によって殺害されて後は、北条氏が将軍を補佐する執権職として鎌倉幕府を実質支配していく。
北条氏が牛耳るようになった鎌倉幕府は、全国に守護(しゅご)、地頭(じとう)を配置しての武士による政治を行っていく。ここに地頭職とは、一体何者なのか。幕府の下部組織であって、年貢、公事(くじ)、夫役(ふやく)を主に荘園などの農民から取り立てたり、人夫を調達するなどの仕事を万端整えるまでに成長していた。1221年(承久3年)には承久の変が起こる。この変の発端から、武士側の結束による終結までを時系列で追うと、概ねの流れはこうである。
1221年(承久3年)旧暦5月14日、後鳥羽上皇は、鳥羽城南寺の「流鏑馬揃え」を口実に北面、西面の武士、近国の武士、大番役ら在京の武士1700余騎を集める。5月15日には京方の藤原秀康が率いる800余騎が京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)を討つという事件が起こる。同日、後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに北条義時追討の院宣を発すに至る。その後鳥羽上皇の宣旨(書き下し文)とは、つぎのようであった。
「右弁官下す、五畿内諸国(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、太宰府)
まさに早く陸奥守平義時朝臣(あそん)の身を追討し、院庁に参り裁断を蒙らしむべき、諸国荘園守護人地頭等の事。
右、内大臣宣す。勅を奉るに、近曾(さいつころ)関東の成敗と称し、天下の政務を乱し、わずかに将軍の名を帯すと雖も、なお以て幼稚の齢にあり、然る間彼(か)の義時朝臣、偏に言詞を教命に仮り、恣(ほしいまま)に裁断を都雛(都鄙?)(とひ))に致し、剰(あまつさ)え己(おの)が威を耀(かがや)かし皇憲を忘るるが如し。これを政道に論ずるに謀反と謂うべし。早く五畿七道(ごきしちどう)諸国に下知(げじ)し、彼(か)の朝臣を追討せしめ、兼てまた諸国荘園守護人地頭等、言上を経べきの旨あらば、各院庁に参り、宜しく上奏を経べし。状に随いて聴断せん。そもそも国宰ならびに領家等、事を○○(ふつ)に寄せ、更に濫行を致すなかれ。○(こと)これ厳密にして違越せざれてえれば、諸国承知し、宣に依りてこれを行え。
承久三年五月十五日
大史三善朝臣、大弁藤原朝臣」
同5月19日、鎌倉に変事の一報がもたらされたが、武士達は動揺を隠せない。三浦義村をはじめとする有力御家人が鎌倉幕府に忠誠を誓う。古参の大江広元が直ちに軍を京都に向け派遣すべきだと発言する。これらに意を強くした北条政子は、馳せ参じた御家人たちに向かって頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう訴え、動揺は鎮まる。その政子の演説は、『吾妻鏡』よれば、こうある。
原文:「二品、招家人等於簾下、以秋田城介景盛、示含曰、皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍、征罰朝敵、草創關東以降、云官位、云俸禄其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志、淺乎。而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康胤義等、可全三代將軍遺跡。但欲參院中者、只今可申切。者群參之士、悉應命、且溺涙、申返報不委、只輕命思酬恩。」
書き下し文:「(にほん・従二位の北条政子)、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛(安達景盛)を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。
報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえれば、群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。」
こうして征討軍を朝廷に差し向けることが決せられ、旧暦5月22日には、鎌倉の軍勢が東海道、東山道、北陸道の三方向に分かれて京に向かう。後に幕府軍は「19万騎」となったとも言われる。同6月10日になると、比叡山延暦寺は後鳥羽上皇の援軍依頼を拒否するに至る。頬って置いても味方の兵が蝟集するだろうとたかをくくっていたらしい後鳥羽上皇の思惑は外れた格好になる。同6月13日、京方と幕府軍が宇治川で衝突する。翌日、幕府軍は渡河に成功し宇治、勢多の敵陣を突破し、京方は潰走する。同6月15日、幕府軍15万余騎が京都に入って、院側の寺社、京方の公家、武士の屋敷に火を放つ。後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を取り消し幕府に従う意向を表明せざるをえなかった。その報せが鎌倉に下ると、幕府は、京都に六波羅探題を設置し朝廷に対する統制を強化する決定を行う。
そして迎えた同7月13日、幕府は、承久の乱首謀者である後鳥羽法皇を隠岐国へ配流する。同7月21日には、順徳上皇が佐渡国へ配流される。同10月10日になると、討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んでか土佐の国に配流されていき、この承久の変は幕府側の勝利でけりがつく。一方、御家人のうちで朝廷方にくみした武士たち、五島基希代清、大内惟信らは死罪となる。
この変が当時の権力関係に与えた影響は、実に大きかったといわねばなるまい。それまでの鎌倉幕府による支配が及んでいたのは、おもに「東国」に限られ、京都から西側の諸国には事実上及んでいなかった。それが、西国を中心に朝廷側が有していた土地などが幕府に取り上げられ、御家人たちに論功報奨であたえられたりした。かくて、鎌倉幕府の意向は、当時の日本全体に行き渡ることになっていく。その意味では、この変は、それから約600年間続く武士の統治を告げる一大事であったのだ。
(続く)
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109『岡山の今昔』水島工業地帯(造成)
水島にある工場群は、この瀬戸内海に張り出したところにある。岡山県の工業製品出荷額のおよそ半分を占める、といわれる。工業地帯へは、山陽本線の倉敷から水島臨海鉄道に乗って、球場前、西富井(にしとみい)、福井(ふくい)、浦田(うらた)、弥生(やよい)栄(さかえ)、常磐(ときわ)、水島(みずしま)、そして最終の三菱自工前(みつびしじこうまえ)へと進んでいく。また、瀬戸大橋線は、岡山を出て大元(おおもと)、備前市(びぜんし)、妹尾(せのお)と来る。それからは、備中箕島(びっちゅうみのしま)、早島(はやしま)、久々原(くぐはら)と来る。
その次は進路を南にとって、茶屋町(ちゃやまち)、植松(うえまつ)で東の方からの線と合流、その後は木見(きみ)、上の町(かみのちょう)、児島(こじま)と行き、そこからは瀬戸大橋(いわゆる児島・坂出ルート)を渡っていくことになっている。
ところで、水島を全国有数の工業地帯にするには、さまざまな準備活動が必要であり、それらはやがて集中的な取組となっていく。これらのおよそを時系列で追うと、こうなっている。
1946年10月、農林省が福田地区の干拓に着工する。計画では、1959年(昭和36年)までに297ヘクタールを予定。
1949年10月、当時の倉敷市が水島を囲む福田町、連島町など8か町村の合併計画を発表する。
1950年12月、農林省が連島の干拓に着工する。計画によると、1959年まで440ヘクタールを予定。
1951年8月、岡山県が、水島地区の港湾管理者となる。
1952年4月、倉敷市が水島鉄道を買収する。
1953年、倉敷市が、水島を囲む福田、連島の両町と合併する。
1955年11月、岡山県が日本興油を誘致することが決まる。
1958年2月、岡山県が三菱石油を誘致することが決まる。
1959年3月、中部電力水島火力発電所を誘致することが決まる。
1959年4月、児島C地区の造成が着工となる。1939年までに204ヘクタールを予定。
1959年9月、岡山県が日本鉱業を誘致することが決まる。
1960年6月、国が、水島港を重要港湾・石油港湾に指定する。同月、国が、水島地区を重要工鉱業地帯整備地域に指定する。
1961年4月、玉島臨港鉄道に着工する。
1961年6月、岡山県が川崎製鉄を誘致することが決まる。
1962年6月、水島港が開港となる。
1963年9月、倉敷市の公害対策協議会が発足する。
1964年1月、国が、県南地区を新産業都市に指定する。
1965年8月、厚生省が、公害環境汚染調査を開始する。
1965年11月、倉敷市が、防災会議を結成する。
1966年12月、倉敷、児島、玉島の3市が合併協定に調印する。
1967年1月、玉島E地区の造成に着工する。予定は、1974年までに86ヘクタール。
1967年2月、新生の倉敷市が発足する。
1967年3月、煤煙規制法の地域指定を受ける。
1967年12月、佐野安船渠(さのやすせんきょ)を水島C地区へ誘致することで調印する。
ここに予め説明しておくべきは、工業用地を示すAからFまでの記号の意味なのであって、まずAとAダッシュは、高梁川の東側にて水島港の西に広がる地域をいう。また、B、Bダッシュ及びBツーダッシュ地区は、港の東側の地域をいう。ついでのCとCダッシュというのは、B地区の南東に隣接する地区をいう。さらに、D、Dダッシュ及びDツーダッシュは、A地区の西側の地区をいう。
それらと向かい合わせ、高梁川西側の旧玉島沖にはEEダッシュびEツーダッシュ地区が続く。さらに、FとFダッシュが連なり、その西にG地区も予定された。なお、以上の地域の位置関係が一目でわかる図もある(例えば、平方与平「水島臨海工業地帯」岡山文庫27、日本文教出版、1969)。
1969年1月、川崎製鉄の水島製鉄所が、2号高炉に火入れを行う。
1969年6月、児島塩生C地区の旭化成工業水島アクリルリル工場が工場完工となる。
同月、玉島乙島地先E地区の中国電力玉島火力発電所の起工式が行われる。同月、児島塩生C地区の日本ゼオン水島工場の試運転が始まる。
1969年7月、第二次の水島地区大気汚染防止対策協議会が発足となる。
これらに関連して、岡山県が水島臨海工業地帯に企業を誘致し、工業立県化を推進したのには、この間知事をつとめた三木行治(みきゆきはる)の積極姿勢があったことは、特記されてよい。三木は、1903年(明治36年)に岡山市畑鮎に生まれた。法学士と医学博士の経歴の上、官僚にもなって最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。
1951年(昭和26年)に48歳で岡山県知事に初当選する。革新系ということになっていた。それから、連続当選4期で、1964年に急逝するまで三木は知事であり続けた。彼が推進した時代の工業化には後々の課題を残したものも多かったものの、彼の非凡なところは、いわゆるブルトーザー的な開発志向ではなくて、多方面に活動の領域を設けていたところにあった。
写真で三木の顔を見ると、ごつい感じなのだが、そればかりではない。豪放なところと繊細さをあわせ滲ませる。古代で言うと、英雄の相といったところか。つまり、なんだか人なつっこい風貌なのである。その柔らかな表情さながらに、「岡山県福祉計画」を樹立することで、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。
かの孔子に「剛毅木訥仁に近し」という、戦後先駆けの政治家だといえる。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。東洋のノーベル賞といわれるマグサイ賞を受賞したことでも知られる、日本レベルで見ても類の少ない、爽やかな政治家であったのではないか。
ところで、かの孔子の言に、次のようにあるのをご存じであろうか。すなわち、「子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し」(『論語』巻二第四里仁篇12)。
(続く)
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121の2『岡山の今昔』製塩業
さて、明治時代には、「十州塩田」(じゅっしゅうえんでん)ということで、全国ベースでの塩の主要産地としていた。その構成は、瀬戸内沿岸の播磨(はりま)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、安芸(あき)、周防(すおう)、長門(ながと)、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、伊予(いよ)の10ヵ国にあった塩田の総称だ。
その中での主要な塩田としては、播磨赤穂(はりまあこう)、備前野崎浜(びぜんのざきはま)、備後松永(びんごまつなが)・富浜(とみはま)、安芸竹原(あきたけはら)、周防三田尻(すおうみたじり)・平生(ひらお)、阿波撫養(あわむや)、讃岐坂出(さぬきさかいで)、伊予多喜浜(いよたきはま)などであった。
これらのうち東児島に横たわる備前東野崎浜(現在の倉敷市児島)の塩田は、山田塩田と胸上塩田の両方を合わせてのことであり、前者は1841年(天保12年)の創業にて73町9反の広さ、後者は1863年(文久3年)の創設にて19町8反の広さであったという。そして、この塩田を作った人物こそ、あの「瀬戸内の塩田王」の異名をもつ野崎武左衛門なのである。
岡山には、そのほかにも近世からのまとまった塩田があり、それらの中でも勇崎塩田(現在の倉敷市玉島勇崎)、錦海塩田(現在の瀬戸内市)が有名だ。そこでまず勇崎塩田だが、開発の最初は、1646年(正保3年)と聞く。そこでの最盛期は1671年(寛文11年)のあたりにて、全村の約9割までが塩田で占められていたらしい。それからは、自然災害もあったりで、約70軒あった釜屋敷も減っていきつつも、息長らえてきた。(中略)
ところが、1941年(昭和16年)頃から始まった枝条架(しじょうか)の採用、さらに1954年(昭和29年)頃からの流下式塩田への改造により、当初からの入浜式塩田は姿を消していく。これらの説明としては、例えば、こうある。
「枝条架というのは竹の小枝の束を数段重ねた上から、ポンプで掲示げた海水を散布し、小枝を伝わって落ちる間に水分を蒸発させて、塩分を濃縮する方法でした。流下式というのは、塩田に傾斜をつけて海粘土で塗り固め、炭がらを敷き海水を流して、水の蒸発をうながす方式で、枝条架と併用されました。」(森脇正之「玉島風土記」岡山文庫、日本文教出版、1988)
しかし、やがて工場で塩を直接製造するやり方が採用される。これによると、海水中の塩の分子は、「塩素イオン」と「ナトリウムイオン」との結びつきでできている。一方、塩素イオンはマイナス、ナトリウムイオンはプラスの性質があるので、海水に電気を流すと、ナトリウムイオンはマイナス極へ、塩素イオンはプラス極へ移動する。この性質を利用し、「イオン交換膜」でもって製塩を行うのが「イオン交換膜製塩法」だ。
もう少し具体的にいうと、まずは容器の中に海水を入れ、プラスイオンしか通さない膜とマイナスイオンしか通さない膜を交互に置く。 ここに電気を流すと、塩素イオンとナトリウムイオンは、それぞれが逆の方向に移動し、膜に阻まれ止められるという。すると、膜と膜との間に濃い塩水ができる層と、薄い塩水の層とに分かれるので、濃い塩水の方を取り出し、従来の平釜より効率のよい真空蒸発釜で煮詰めて作られるのが、食塩なのだという。
かくて、1950年代の終わりに差し掛かる頃には、旧来の製塩法と、これを行ってきた産地はほぼ姿を消して、近世の途中以来ほぼ300年続いてきた塩田は終止符を打たれる。
(続く)
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