192の13『岡山の今昔』岡山人(19世紀、仁木永祐)
仁木永祐(にきえいすけ、1830~1902)は、医者にして、政治家。東北条郡下津川村(現在の津山市加茂町下津川村)の生まれ。その豊田家は、父の隆助の代で、医者にして蘭学にも通じる、この辺りでは、裕福で知られる。やがて、東南条郡籾山村(もみやまむら、現在の津山市籾保)の医師、仁木隆助の養子となる。
1848年(嘉永元年)には、江戸に出る。そして、同じ美作出身の箕作阮甫(みつくりげんぽ)や宇田川興斎(うだがわこうさい)に入門し、約4年の間医学を学ぶ。また、1853年(嘉永6年)から約2年間は、大坂の後藤松陰漢学を学んだりで、なにかと忙しくしていたようだ。
その後、郷里に帰り、医業を行う。1860年(万延元年)には、津山藩に医学研究場所の設立を要請していたのが認められ、籾山村に「籾山こう」の設立に漕ぎ着ける。1869年(明治2年)には、彼が会頭となる。
1848年(嘉永元年)には、江戸に出る。そして、同じ美作出身の箕作阮甫(みつくりげんぽ)や宇田川興斎(うだがわこうさい)に入門し、約4年の間医学を学ぶ。また、1853年(嘉永6年)から約2年間は、大坂の後藤松陰漢学を学んだりで、なにかと忙しくしていたようだ。
その後、郷里に帰り、医業を行う。1860年(万延元年)には、津山藩に医学研究場所の設立を要請していたのが認められ、籾山村に「籾山こう」の設立に漕ぎ着ける。1869年(明治2年)には、彼が会頭となる。
また、その傍ら塾を開き近在の子弟の教育にあたる。学制の発布のあった翌年の1873年(明治6年)には、その籾山こうを閉じ、公立学校で教鞭をとる。そればかりか、1876年(明治9年)には区会議員、1880年(明治13年)には、県会議員に選出される。
1876年(明治9年)には、北条県が岡山県に吸収合併される。その結果、旧北条県では民有扱いであった溜池が2502カ所も官有とされ、その利用には納税が必要とされる。いわゆる「地租改正」の影響だが、水利に乏しい美作地域の農民たちには死活問題だった。
仁木ら地域の有力者は、元に戻すよう問題を訴えたが、鬼県令と呼ばれた高崎五六率いる岡山県に相手にさ れない。ならば内務省に訴えようと1881年(明治14年)に、彼を含む4人で東京へ出向く。
それからも問答が続いた後の1894年(明治27年)9月には、千坂知事(1886年7月県令が知事に変わる)の名前にて、「その郡内用溜池の儀は、これまで調査の次第もこれ有り候処(そうろうところ)、すべて北条県査定の地種に据え置き候条、この旨溜池所在村長へ相達すべし。但し、従前の達指令等にして、本訓令に抵触するものはすべて取り消す」との訓令が、美作の各郡役所に向けて出される。
ほかにも、吉井川改修工事や、津山中学校設立に当たっての経費問題で県と地元側の間に立って調整したり、頼まれたら断れない性格であったらしい。
仁木はまた、政治家としても発展していく。明治になっては、仲間と語らってか、美作親睦会、そして自由党美作部に加わる。自由民権運動に参加する。1889(明治22年)、国会開設の直前に上京する。政党間の調整に尽力する。頭脳明晰にして理論肌でもあり、全国に交友も多い。政党間の調整にも当たる、そのことで「西の板垣退助」とも評される
(続く)
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