◻️1の2の1『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期、15万年前~1万年前)

2020-01-13 21:49:41 | Weblog

1の2の1『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期、15万年前~1万年前)

 地球上の氷河時代(氷河期)は、氷期(極に氷が存在することで、こう呼ばれる)と間氷期とに分かれる。両者は、近くでは10万年単位で入れ替わってきている。現在から数えて一番近い氷期(最終間氷期)は、「エーム間氷期」と呼ばれる。13万年前頃~11万5000千年前頃のことであった。

 北グリーンランドでの土壌調査によると、最終間氷期が始まったばかりの12万6000年前頃が最も温暖で、気温が現在よりも平均で約8℃±4℃高かったことが分かっている。

 そして、今から約7万年前の地球上は、最後の氷期(最終氷期=ヴュルム氷期)を迎える。その後、少し寒さが緩む時期があったものの、今から 約2万3000 年前には、日本列島でも年平均気温が今より約7度(摂氏)低くなったというのが、大方の見方のようだ。

 そのため、植生に大いなる変化が見られる。特に、関東から西に広く見られる照葉樹林は、本州南岸のごく狭い地域と沖縄に分布を狭めていく。 

 その後の今から2万1000年前の「ウルム期」においては、地球の北半球は、現代から最も近い氷期(一番最近のものなので、「最終氷期」と呼ぶ)のピーク(最盛期)にあった。
 この時期には、数十万立方キロメートルとも推測される大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なった。海水を構成していた水分が蒸発して降雪し陸上の氷となったためだと推測される。地球上の海水量が減少した結果、海面変化が著しいところでは約120メートルも低下したところもあり(例えば、霞ヶ浦)、その影響で海岸線は現在よりも相当分沖合に移動していた。
 この海水準がもっとも低下した時代、アジアとアラスカの間にはベーリング陸橋が形成された。南半球の東南アジアにおいては、現在の浅い海が低い陸地になっていた。そして日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっていた。また、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となっていたことがわかっている。
 それからであるが、この最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から、今から1万2800年頃から1万1500年前頃にかけて、北半球の高緯度地方のイングランドなどを中心に寒冷化の揺り戻しが起こった。これを「ヤンガードリアス期」と呼ぶ。その影響は、軽微ながら日本列島にも及んだと考えられている。

 それでは、このような時の流れの中での日本列島、その中の瀬戸内海は、どのようであったのだろうか。例えば、瀬戸内海に南に鋭く出っ張っている鷲羽山、その登山道に設けられている案内板の一つ「瀬戸内海のおいたち」には、「瀬戸内海は、一つの大きな地溝帯で、全体が大きなブロックに分かれています。そして、ブロック別にうきあがったり沈んだりしてその凹凸に海が入りこみ、いわゆる多島海になったり、ぜんぜん島のない灘になったりしています」と記してある。
 これに関連しては、より広く地質や水流の状況を勘案しての、さらに詳しい説明がなされている。推測するに、当時は、氷河期(現在に一番近いというという意味で「最終氷河期」という)の末期にあたり,世界規模の寒冷化の影響で海水面が低くなり、瀬戸内一帯はかなりの広さが陸化していたのではないたろうか、そのところどころは広大な草原であって象などがその上を歩いていたのではないか、と考えられている。

 そこで、これらのおおよそが真実であったなら、当時は対岸の四国まで海を隔てて指呼の距離というどころか、浅瀬を歩いてわたれるほどであったのかもしれない。
 今の倉敷あたりは、つまるところ起伏と変化に富んだ、海岸沿いの陸地であった。この時代は、沼あり、川あり、小高い台地ありで、海生や陸生の生き物が住み着いていた。それだからして、古代の類人猿やホモ・サピエンスは、そうした台地や洞窟に住居を構え、あるいは自然の要害などに住み着いたりして、主にそれらを狩って食料としていたことが考えられるのである。
 それと前後しての日本列島の気候だが、現在では、世界の気候が一様ではなく、地域によって異なると考えられており、報道には、例えばこういう。

 「将来の気候変動を予測するため、過去の気候変動を手本にしようとする研究分野がある。その名は古気候学。湖底の泥や樹木の年輪、極地の氷などから採取した物質を分析すると、我々が知る現代の地球とは違う姿が見えてくる。
 海洋研究開発機構と立命館大学は3月、約1万2000年前の最後の氷河期の終わり頃に、欧州が温暖化してアジアが寒冷化したことを突き止めたと発表した。」(2017年4月23日付け日本経済新聞電子版)

  そして迎えた、今から約1万年前からは、この列島の気候は、温暖化に向かう。縄文時代になると、再び地球温暖化が進み出していく。少なくとも、今から6000年前位からは、温暖化による海水面の上昇がみられるようになっていく。日本列島周辺では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)と呼び慣わしている、その最盛期には,日本列島の津々浦々、海外線の至るところで、現在の平野部の奥深くまで海水が入り込んだ。

 現在の瀬戸内海周辺も、その例外ではなかった。倉敷市の市域の北半を中心とする付近には、瀬戸内海とつながる細長い内海が東西に広がっており、その南の先の海の中に「児島」という島が浮かんでいた。当時の瀬戸内海は豊かな海で阿つたことだろう。内海にして魚貝類の繁殖する海域であり、かつ温かかったことから、人々が住みやすい環境であったであろうことは想像に難くない。これらの相乗効果で、瀬戸内海の沿岸は西日本有数の縄文貝塚遺跡の密集地となっていたのではないかと推測される。 

(続く)

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◻️125の5『岡山の今昔』岡山市(戦後の商店街)

2020-01-13 10:08:50 | Weblog
125の5『岡山の今昔』岡山市(戦後の商店街)

 戦後直ぐの駅前地区には、旅館や食堂が数多く立地していたが、「商店街」と呼べるほどの小売店の集積はなかったという。
そこへ、ヤミ市の開設により、商業地区としての新たな第一歩を踏み出す。
 奉還町においても、岡山駅に近いことなどから、ヤミ市が開かれ、徐々に商店街が立ち直っていく。
 一方、表町においても、1945年(昭和20年)10月10日、天満屋が営業を再開し、息を吐く。その3日後には「岡山市中央商店街復興委員会」が結成される。街を挙げての活気づけが続く。
 そうして復興が軌道に乗ると、各商店街は、施設の更新に乗り出す。アーケードの整備も始まる。おりしも、高度成長の波に乗り、1949年(昭和24年)12月になると、天満屋バスステーションが完成する。これで買い物客が右往左往することもなくなる。表町地区は、ぐんと便利に、岡山の商業の中心地に返り咲く。
 引き続いての1957年(昭和32年)3月の上之町を最後に、表八ヵ町全体のアーケードが完成し、この辺りにはなおさら近代店舗ができていく。同じ年、県庁が下伊福から現在地に移転し、「下之町周辺の中心性はますます高まる」のであった。
 ところが、1970年代にいたると、岡山市の市街の外縁部に発展の動きが出てくる。その前の新幹線の開通により、駅周辺はますますの活気を呈していく。
 そして、狭苦しくなりととあった中心から、広い地域に大店舗が並んでいく時代、モータリゼーションがこの動きを導く。(中略)

 21世紀になると、この辺りの商店街の命運をかけての取り組みが見られる。その中から、幾つか紹介しよう。
 「岡山市北区の表町商店街。江戸時代から商業・文化の中心地として栄えてきたこの場所に、人々の交流拠点となる店舗が次々とオープンしている。市の文化芸術施設の新設計画も進んでおり、さらなる活性化へ商店主らの期待も高まっている。
 岡山市北区表町1~3丁目にかけて続く表町商店街は、紙屋町、下之町、栄町、千日前など八つの商店街からなる。7月末、紙屋町商店街に西洋風のレトロな雰囲気の多目的イベントホールがオープンした。
 「Cultural Maison KOTYAE」(カルチュラルメゾン コチャエ)。高級衣料品店を改装したホールは、音楽や婚活イベント会場として貸し出され、普段はカフェやバーとして営業する。」(2017年9月12日付け朝日新聞)



(続く)

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