◻️1の1の2『岡山の今昔』津山海など

2020-01-20 20:38:05 | Weblog

1の1の2『岡山の今昔』津山海など

 「津山海」というのをご存知だろうか。関東においては、近年、「秩父海」などへの少年少女の興味が湧いているという。さらに近いところでは、2020年1月、国際地質科学連合が、約77万4千万年前~約12万9千年前の地層を、「チバタリアン(千葉時代)」と呼ぶことに決める。これらを眺めていると、ほぼ同じ時期での、この辺りの地形や海との関係にも思いが向かう。
 とっかかりとして、そもそも、「中国地方」を含む「西南日本」というのは、地質年代でいう白亜紀(今から約1億4500万年前~6600万年前)以降に起こった、「時計回りに~50度の回転運動」を経験する。いうなれば、「日本海拡大とそれに伴う日本列島の南下」を説明する際には、必ず語られる地質現象に他ならない。
 それからの中国地方については、例えば、こう概観される。

 「中国地方では、古第三期の長期間にわたり、陸上で侵食を受け、ゆるい起伏をもつ地形が形成された。新第三期中新世に入り、17~15Maに大規模な海進が起こり、中国地方一帯が海底に沈んだ。津山市付近は、海進以前から淡水域が広がっており、大きな湖のようになっていたとされ、北から海水が流れ込み、後に全域が海底に沈んだようである。(Taguchi,2002)
 この海進によって、中国地方一帯では、さらに平坦化が進んだと推測でき、海底には中新統備北層群が堆積した。津山市付近は、淡水域であったことから、備北層群堆積以前に、すでに周囲より高さの低い地形が形成されていたと考えられる。」(村中沙江、於保幸正「津山市南方に分布する侵食小起伏面」インターネット配信より引用)

(中略)

 ちなみに、津山市二宮の吉井川の川底でヒゲクジラの化石が、また同市の田邑(たのむら)でパレオパラドキシア(カバのような動物)の化石が、それぞれ発見される。さらに、同市の東部の勝北(しょうぼく)や、その東隣の勝田郡奈義町辺りでは、様々な貝の化石を見ることができ、特に、奈義ピカリアミュージアムに行けば、それらの古代に生きた貝の化石発掘現場の再現や、それぞれの標本が一堂に会し陳列されおり、古代の海を追体験できるのかもしれない。
 想像力をたくましくするならば、その頃の津山海やそのまわりの陸地においては、温暖にして湿潤な気候を好んで哺乳類や他の生物たちが住み、海岸にはマングローブなどが生えていた、そのことだけを見るならば、さながら、「地上の楽園」を形成していたのではなかろうか。


(続く)

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○41の2『自然と人間の歴史・日本篇』漢委奴国王印(57)など

2020-01-20 18:52:12 | Weblog

41の2『自然と人間の歴史・日本篇』漢委奴国王印(57)など

 范曄(はんよう、398~445) は、中国、南朝時代の宋の学者。今日にいう歴史学ばかりでなく、文学など広範囲に精通していたらしい。
その彼が著した『後漢書』は、本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の計百二十巻から成るという。これに含まれる東夷伝の項目中に、夫餘・挹婁・高句麗・東沃沮・濊・三韓と並んで、倭伝がある。
 その内容だが、全体として律儀なる体裁ではないか。まず倭の所在地や、後漢(現代中国では「東漢(ドンハン)」と呼ばれる、25~220)との関係についての説明、次いで倭の国情や風習、後漢への訪朝の記録。さらに、邪馬台国と女王卑弥呼について触れた後、江南の海上に点在するという島々の話が続くというのだが。
 それから、かの国からの、二度に渡る訪朝の記録が載る。それには、こうある。 「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」

 その書き下し文は、次の通り。

 「建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極めて南界なり、光武賜うに印綬を以てす。」

 もう一つ、引用しよう。
 「安帝永初元年、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見」

 こちらの書き下し文は、次の通り。

 「安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。」

 さて、前者での、倭国が後漢へ訪朝したという記録は、建武中元2年(西暦57年)に倭奴国が世祖光武帝を朝賀して金印を下賜されたというのを、確認できよう。その史実としての信憑性は高いと考えられている。

 残念ながら、その後の倭ないし日本側の記録に、これに対応する史実は現代に至るまで見当たらない。ついては、かかる中国側の記録は、いうなれば、倭人の国が初めて歴史上に現れた事例だといえよう。

  ところが、である。時は1784年(天明4年)、博多湾にある志賀島の叶崎で、灌漑用水路の清掃中に、溝の中に、なんとも不思議な印鑑のようなものを発見する。

 これを掘りだしたのは、秀治と喜平の二人の農民だと聞く。両人とも、志賀島の農地を耕す農民にして、この印が発見された田んぼの小作を行う小作人であるとのこと。田んぼの柔らかい土の中に発見された時のそれは、磨かずとも金色に光っていたのか、少なくとも金と見まがう程の輝きと重みがあったのかどうか。なんでも、その回りは三つの縦長の小石で囲ってあり、更にその上に大きな石を置いて、蓋をした形になっていたと伝わる。

 そこで、二人は、これは貴重なものではないだろうかと思い、また、損得に惑わされないだけの誠実な心の持ち主であったのだろう、持ち帰って地主の甚兵衛に、「これは何か、どうしたらよいか」を相談する。すると、ちょうど彼の兄が米屋で働いていて「米屋の旦那は学があるから何か分かるかも」とそこにこの印を持ち込んだらしい。その米屋の主人が、亀井南冥と親交があったため亀井が鑑定することとなる。

 その彼が見れば、現代の測定により印高0.887センチメートル、四辺の平均2.347.センチメートル、重さは108.729グラムと、小さくにして重い。蛇を象った摘みのある、正しく金印である。その摘(つ)まみには、蛇の鱗(うろこ)までが描いてあるから、驚きだ。
 さて、この印には、陰刻で「漢委奴国王」と記されてあるではないか。謹厳実直な学者肌の亀井は、その著作「金印弁」の中で、「或は問て曰、右の金印全体は鋳物とは見えされと、綬を通す穴を得と見れは、決定鋳物なりいふかし、答て曰、某も初て見しとき、甚不審に存したるか、細工に巧者なるものに問しに黄金のみは不思議の宝にて、鋳物を彫刻すること自由なり」と鑑定している。

 なお、この印は現在、新潟県十日町市博物館にて所蔵、純度は97%(ほぼ23金に相当というから、大方、古代としては最高級のものと推定される。

 それから、後漢時代に王侯が用いた一寸四方のものであることも、彼の脳裏をよぎったのだろうか。それからは、印文の読み方について議論が闘わされる。「漢のイト(伊都)国王」と読むのが主流を占めるものの、1892年(明治22年)には、三宅米吉が「漢のワ(倭)のナコク(奴国)王」と読み、今日ではこの読み方が定説化し、国宝指定もその文脈でなされている。
 また、世にも珍しい蛇鈕(じゃちゅう、へびつまみ)の由来については、1957年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、「王之印」蛇鈕金印が発見され、これを理由に「前例がない」、「意味不明」としていた
偽物説が覆る。

 ともあれ、その鑑定で古代超一級の史料であることがわかったことにされている、この印が日本列島に持ち帰られてよりはや1700年余り。一切合切なんとも数奇な、かつ興味をそそられる話に違いない。

 それからもう一つ、以上の話に先行する発表の中から、一つ紹介しよう。それというのも、1954年(昭和29年)には、中国からのものであるとおぼしき刀子(小刀、ナイフの類い)が発見される。見ると、長さ26センチメートルの青銅で作られている。採掘地域は山形県飽海(あくみ)遊佐町(ゆさまち)の三崎山遺跡であり、発掘で土砂の掘り返しを行っている時であるという。

 しかして、今日まで、その由来や評価が定まっている訳ではないものの、国立文化財研究所でこの刀を組成を分析してもらったところ、中国の商(しょう)の時代の都から出土した青銅器と比較し、材質が同一であると発表する。これをもって、「中国からもたらされたのではないか」(近藤二郎「中国の天文学の日本への影響と日本の暦」、「天文ガイド」2013年5月号に所収)という話にも発展する。

 これだと、「中国の商(殷(いん))時代は、日本の縄文時代にあたっており、弥生時代よりも前に中国との交流があった可能性があります」という。とはいえ、「その確実性やどのような経路で日本列島に伝わったものなのかを明確にする資料ではありません」(同)との評価がなされているところだ。

 

(続く)

 

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♦️94の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの対パルティア戦争

2020-01-20 10:28:36 | Weblog
94の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの対パルティア戦争

 パルティア王国は、紀元前247年頃、カスピ海南東部、イラン高原東北部に興る。遊牧国家である。その初代王アルサケス1世(Arsaces)は、セレウコス朝をシリアへと領土を広げる。
 5代目のミトラダテス1世(紀元前171~同138)の時代、パルティアは、東方ではバクトリアを平定してインドをうかがう。また、西方ではセレウコス朝・ペルシアの中心であるバビロニアにまで領土を拡大する。首都はバグダッド南東のクテシフォン。
 セレウコス朝ペルシアが滅亡してからは、パルティアとローマとは国境を接する。紀元前最後の世紀には、パルティアは、イランとメソポタミアを跨がる領域を支配する。それからは、ローマは、パルティアと8次にわたる激しい戦いを繰り広げる、これらを「パルティア戦争」と呼ぶ。

 まず、紀元前53年の第1次パルティア戦争では、クラッスス率いるローマ軍をカルラエの戦い(現在のトルコのハラン)で破る。パルティアの騎兵が、ローマの歩兵の圧力を上回った。この戦争でクラッスス親子は戦死する。
 その後も、小規模な戦いが続く。初代皇帝アウグストゥスや、ネロの時代には、休戦協定が結ばれる。113年より、シリアやアルメニアを巡って、ローマのトラヤヌス帝はパルティアを攻め、その翌年には首都クテシフォンを落とす、これが「第5次パルティア戦争」と呼ばれる。それからは、パルティア勢力の盛り返しがあり、しばらくの間、この地にとどまり、撤退する。
 しかし、次のハドリアヌス帝は、莫大な予算がかかるアルメニアやメソポタミアを放棄し、パルティアとの和睦を進める。 
 さらに、マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスによる共同統治の時代には、ローマ軍は、再びクテシフォンを攻略する。
 その後のセプティミウス・セウェルス(在位193~211)の治世には、ローマ軍は、バルティア王国の派閥争いに乗じてメソポタミアを攻める。要衝のニシビスを陥落させ、ローマの属州オスロエネを創設する。
 その2年後、セウェルスは東方に戻り、クテシフォンを略奪する。217年には、カラカラ帝が侵攻してきたバルティア軍を撃退し、多額の賠償金を支払わせる。これが最後の第8次パルティア戦争である。ローマとの戦いで疲弊したパルティアでは、国内に反乱が多発する。そしての224年には、バルティアはササン朝ペルシアの侵攻により、ついに滅亡する。

(続く)

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♦️90『自然と人間の歴史・世界篇』奴隷反乱の頻発(スパルタクスの反乱など)

2020-01-20 09:11:12 | Weblog

90『自然と人間の歴史・世界篇』奴隷反乱の頻発(スパルタクスの反乱など)

 宿敵カルタゴを3度の戦役で下してからの古代ローマの外国制覇の夢には、果てしというものがなかった。破竹の勢いで侵略を行い、勝利すれば、多くの奴隷を得ることができた。

 参考までに、第一次ポエニ戦争(紀元前264~同241)でのローマは、地中海西部の雄カルタゴと初めての武力衝突でシチリアを獲得する。ここで「ポエニ」とは、ローマからみたフェニキア人の呼び名から名付けられた。第二次ポエニ戦争(紀元前218~同201)でも、ローマはチュニジアのザマの戦いで勝利する。そして迎えた第三次ポエニ戦争(紀元前149~同146)において、ローマはカルタゴを滅ぼす。

 その戦争奴隷達を取り込んで、ローマは古代奴隷制の最盛期を迎えていた。そんな中で、ローマの体制を揺るがす奴隷の反乱が起こってくる。
 シチリア地方での奴隷反乱は、紀元前135~同132年に1回目のものが勃発する。その時、7万人もの奴隷たちが、いわば「奴隷王国」をつくろうとした。一時は、ミントゥルナエ・シヌエッサなどイタリア諸都市にも迫る勢いだった。第二次の反乱は、紀元前135~同132年であったが、その少し前の紀元前104年にも、ヌケリアとカプアでも大規模な奴隷反乱が起きたが、いずれも鎮圧される。
 そして迎えた紀元前73年の春、歴史に一際名高い奴隷反乱が起こる。その主役は、なんと剣闘士奴隷であった。これのリーダー格を任じたのが、トラキア、すなわち、バルカン半島の南東部、現在のブルガリア、そこでは小王たちが乱立している、ギリシャ・ローマの都市の世界とは異質な、部族社会であった、そこの出身のスパルタクスであって、自由の身になろうと、200人くらいの仲間と一緒に脱走を試みる。
 記録によると、そのうち74人が脱出に成功し、足を伸ばしてヴェスヴィオス山に立てこもる。そこをめがけて、イタリア半島の各地から自由を求める奴隷が集まってくる。
 ローマは、これを潰そうと軍団を派遣するものの、撃退される。当時のローマ軍団の主力は、征服戦争なりで他国や国境に出掛けていて、手薄であったため、その虚をつかれた格好であった。

 そもそも、「当面の時代については、序章でも述べたように、スペインの奥地といい、小アジアの奥地といい、バルカン半島北部といい、都市化の進んでいない多様な世界でローマ権力に対する反抗がもりあがったのが、ローマの直面した危機の一つの特徴だった。」(吉村忠典「古代ローマ帝国ーその支配の実像」岩波新書、1997)

 それからの奴隷反戦軍は、一説には7000人ともいわれるまでに力を増しながら、ノラ、ヌケリア、トゥリイ、メタボンドを占領した。6月のこのあたりは収穫の時期であって、多くの奴隷が収穫物を持って駆けつけた。兵力は2万人にも増える。それでも、彼らは自力で必需品の多くを、周囲の村落から略奪しなければならなかった。
 その最盛期には、6万人もの兵力に達したという。ルカリアを中心に勢力を維持しつつ、キリキアの海賊と連絡をとったりしていたが、やがてイタリア半島を南下していく。
 そこへようやく態勢を整えたクラッスス(貴族)率いるローマ正規軍が迫ってくる。それからの間を「めくるめくストーリイ展開」というのは、あながち間違ってはいまい。両軍は、ついに相まえ、決戦の時を迎えるのであった。
 だがしかし、奴隷軍は何故かゲリラ線に徹することをしなかった。正面から立ち会っては、奴隷軍にもはや勝ち目はなかった。奴隷軍は総崩れとなり、乱戦の中スパルタクスは戦死を遂げる。捕虜となった6000人余は、後にアッピア街道沿いにはり付けられて息絶えたという、かくも凄絶(せいぜつ)な結末であった。

(続く)

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