41の2『自然と人間の歴史・日本篇』漢委奴国王印(57)など
范曄(はんよう、398~445) は、中国、南朝時代の宋の学者。今日にいう歴史学ばかりでなく、文学など広範囲に精通していたらしい。
その彼が著した『後漢書』は、本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の計百二十巻から成るという。これに含まれる東夷伝の項目中に、夫餘・挹婁・高句麗・東沃沮・濊・三韓と並んで、倭伝がある。
その内容だが、全体として律儀なる体裁ではないか。まず倭の所在地や、後漢(現代中国では「東漢(ドンハン)」と呼ばれる、25~220)との関係についての説明、次いで倭の国情や風習、後漢への訪朝の記録。さらに、邪馬台国と女王卑弥呼について触れた後、江南の海上に点在するという島々の話が続くというのだが。
それから、かの国からの、二度に渡る訪朝の記録が載る。それには、こうある。 「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」
その書き下し文は、次の通り。
「建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極めて南界なり、光武賜うに印綬を以てす。」
もう一つ、引用しよう。
「安帝永初元年、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見」
こちらの書き下し文は、次の通り。
「安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。」
さて、前者での、倭国が後漢へ訪朝したという記録は、建武中元2年(西暦57年)に倭奴国が世祖光武帝を朝賀して金印を下賜されたというのを、確認できよう。その史実としての信憑性は高いと考えられている。
残念ながら、その後の倭ないし日本側の記録に、これに対応する史実は現代に至るまで見当たらない。ついては、かかる中国側の記録は、いうなれば、倭人の国が初めて歴史上に現れた事例だといえよう。
ところが、である。時は1784年(天明4年)、博多湾にある志賀島の叶崎で、灌漑用水路の清掃中に、溝の中に、なんとも不思議な印鑑のようなものを発見する。
これを掘りだしたのは、秀治と喜平の二人の農民だと聞く。両人とも、志賀島の農地を耕す農民にして、この印が発見された田んぼの小作を行う小作人であるとのこと。田んぼの柔らかい土の中に発見された時のそれは、磨かずとも金色に光っていたのか、少なくとも金と見まがう程の輝きと重みがあったのかどうか。なんでも、その回りは三つの縦長の小石で囲ってあり、更にその上に大きな石を置いて、蓋をした形になっていたと伝わる。
そこで、二人は、これは貴重なものではないだろうかと思い、また、損得に惑わされないだけの誠実な心の持ち主であったのだろう、持ち帰って地主の甚兵衛に、「これは何か、どうしたらよいか」を相談する。すると、ちょうど彼の兄が米屋で働いていて「米屋の旦那は学があるから何か分かるかも」とそこにこの印を持ち込んだらしい。その米屋の主人が、亀井南冥と親交があったため亀井が鑑定することとなる。
その彼が見れば、現代の測定により印高0.887センチメートル、四辺の平均2.347.センチメートル、重さは108.729グラムと、小さくにして重い。蛇を象った摘みのある、正しく金印である。その摘(つ)まみには、蛇の鱗(うろこ)までが描いてあるから、驚きだ。
さて、この印には、陰刻で「漢委奴国王」と記されてあるではないか。謹厳実直な学者肌の亀井は、その著作「金印弁」の中で、「或は問て曰、右の金印全体は鋳物とは見えされと、綬を通す穴を得と見れは、決定鋳物なりいふかし、答て曰、某も初て見しとき、甚不審に存したるか、細工に巧者なるものに問しに黄金のみは不思議の宝にて、鋳物を彫刻すること自由なり」と鑑定している。
なお、この印は現在、新潟県十日町市博物館にて所蔵、純度は97%(ほぼ23金に相当というから、大方、古代としては最高級のものと推定される。
それから、後漢時代に王侯が用いた一寸四方のものであることも、彼の脳裏をよぎったのだろうか。それからは、印文の読み方について議論が闘わされる。「漢のイト(伊都)国王」と読むのが主流を占めるものの、1892年(明治22年)には、三宅米吉が「漢のワ(倭)のナコク(奴国)王」と読み、今日ではこの読み方が定説化し、国宝指定もその文脈でなされている。
また、世にも珍しい蛇鈕(じゃちゅう、へびつまみ)の由来については、1957年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、「王之印」蛇鈕金印が発見され、これを理由に「前例がない」、「意味不明」としていた偽物説が覆る。
ともあれ、その鑑定で古代超一級の史料であることがわかったことにされている、この印が日本列島に持ち帰られてよりはや1700年余り。一切合切なんとも数奇な、かつ興味をそそられる話に違いない。
それからもう一つ、以上の話に先行する発表の中から、一つ紹介しよう。それというのも、1954年(昭和29年)には、中国からのものであるとおぼしき刀子(小刀、ナイフの類い)が発見される。見ると、長さ26センチメートルの青銅で作られている。採掘地域は山形県飽海(あくみ)遊佐町(ゆさまち)の三崎山遺跡であり、発掘で土砂の掘り返しを行っている時であるという。
しかして、今日まで、その由来や評価が定まっている訳ではないものの、国立文化財研究所でこの刀を組成を分析してもらったところ、中国の商(しょう)の時代の都から出土した青銅器と比較し、材質が同一であると発表する。これをもって、「中国からもたらされたのではないか」(近藤二郎「中国の天文学の日本への影響と日本の暦」、「天文ガイド」2013年5月号に所収)という話にも発展する。
これだと、「中国の商(殷(いん))時代は、日本の縄文時代にあたっており、弥生時代よりも前に中国との交流があった可能性があります」という。とはいえ、「その確実性やどのような経路で日本列島に伝わったものなのかを明確にする資料ではありません」(同)との評価がなされているところだ。
(続く)
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