♦️140の2『自然と人間の歴史・世界篇』中世における貨幣とその役割

2020-01-19 21:08:51 | Weblog

♦️140の2『自然と人間の歴史・世界篇』中世における貨幣とその役割

 ところが、それからの歩みも、決して平坦なものではなかったらしい。例えば、11世紀頃のヨーロッパで、貨幣の流通がうくいっていなかったことがある。
 「これまで述べてきたところから、私どもは前記封建社会の交通、交換がすこぶる不規則で間歇的(かんけつてき)だったこと、スペインのサラセン人からえた金貨が、ヨーロッパの地金とともに東方に流出して、ヨーロッパの慢性的な赤字経済の原因になっていたことを知った。
 このような事情からして当時のヨーロッパには、純然たる自然経済ではないにしても、慢性的な貨幣飢饉の状態があったといってよい。したがって当時の貨幣制度なるものもはなはだ貧弱で、サラセン人の地中海制覇以来は粗悪な銀貨しか通用しなくなっていた。
 通貨の種類としてはリーヴル(ソリズス、シリング)、スウ、ドニエ(ペニー、デナリウス)の三種が一般に用いられたが、実際に通用していたのは主にドニエ貨だけで、スウやリーヴルはドニエの倍数(10倍と100倍)として、価格算定の単位でしかない場合が多かった。
 貧弱な通貨制度をいっそう貧弱にしたのは正確な度量衡の制度も器具もなかったことで、幾百という鋳貨権所有者が重量、形状、、品位いずれも不統一な貨幣をつくりだし、その結果「悪貨が良貨を駆逐する」現象をたえずひき起こしたのであった。そのため貨幣の価値はさらに低下していった。」(堀米庸三「世界の歴史3・中世ヨーロッパ」中公文庫、1974)

(続く)

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♦️79の3『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の交易と輸送

2020-01-19 19:59:52 | Weblog

79の3『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の交易と輸送

 帝政に入ってからのローマの支配領域は、西ヨーロッパの南半分と、エジプトを含む地中海沿岸、ギリシャやマケドニア、ターダネルス海峡の東にも及んでいく。これに伴い、交易と輸送がますます広範囲に渡っていく。

 まずは陸路でいうと、最も重要な穀物は、シチリア、エジプト、サルディニア、アフリカ(現在のチュニジア)などから、船を使って運ばれる。

 二つ目のブドウ酒とオリーブ油については、イタリア半島内の他、ガリア(ガッリア)からも調達する。こちらの運び方としてはま最初に「アンフォラ」と呼ばれる大きな陶器の壺(つぼ)に入れる。その回りを麦わらで囲って荷物が動かないようにしてからローマの船に積み込む。

 それ以外にも、色んな生産物が流通していたのではないか。それらの中で、贅沢品については、こんな指摘がある。

 「帝国の住民の大部分は、いつの時代もそうであるように、地元の生産物に頼って生活していた。ただし富裕層は例外で、彼らは異国の贅沢品に金をかけていた。そのなかに中国の絹やアラビアの香料、東南アジアの香辛料などがあった。

 これらの交易品は、いわゆるシルク・ロードを通って中央アジアを横断して、あるいはインド洋を渡り、ローマにやってきた。ローマの商人は代わりに金やガラス製品などの工芸品を輸出し、こうした品物は遠くマレーシアやヴェトナムでも発見されている。」(クリス・スカー著、吉村忠典監訳、矢羽野薫訳「ローマ帝国ー地図で読む世界史」河出書房新社、1995)


(続く)


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♦️79の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマと属州シチリア

2020-01-19 09:26:00 | Weblog

79の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマと属州シチリア

 シチリアは、地中海のイタリア半島の南、地図の上では直ぐ近く位置している。この地で栽培されるものに、硬質小麦があり、これでつくる小麦粉は日本ではセモリナ粉と呼ばれているとのこと。粘土質の肥沃な大地、冬も土が凍てつかない温暖な気候のおかげで、今でも小麦の一大産地だという。そして、「それは2000年前も大して変わらない風景なのだ」と称される。

 そんな晴れがましい感じも伝わるシチリアだが、この地は、かつて古代ローマの最初の「属州」として、同時に「ローマ平民の乳母」として、ローマ市平民の生活を支えていたという。
 それというのも、かの護民官グラックス兄弟が活躍した時代、紀元前123年からのローマ市に住むローマ成年公民に対しては、一人一ヶ月当たり5モディイ(1モディイ=約8.8リットルにて、43.7リットル)の穀物が安価に配給される。その後、一時廃止されるも、紀元前73年には復活され、対象者も拡大される。

 ちなみに、吉村忠典によれば、「前70年頃のローマ公民の数は、同年にローマ市で行われた国勢調査によれば、成年男子(17歳)だけで91万、しかし、これに海外で従軍中のローマ兵(約7万)や登録もれなどを併せて、実際には115万人ぐらいと想定されており、女子供を含めたローマ公民の総数は、その三倍ほど、したがって350万人ほどと考えられる。」(吉村忠典「古代ローマ帝国ーその支配の実像」岩波新書、1997)

 さて。 そのシチリア全島がローマの支配下に入ってからは、農業生産者は生産高の十分の一を無償でローマに差し出さねばならない。その適用範囲だが、シチリア内の「自由免税国」においては、恩恵のあるのは当該の国民が自分の土地を経営している場合であって、その国の土地を外国人が経営している場合には、この外国人は納税を免れることはできない。

 とはいえ、これは、「友邦」にたいしての課税等の序幕に過ぎない。それというのは、紀元前73年の立法と元老院決議により、穀物の強制買い上げを行う。そればかりか、「総督用穀物」として、この地を治めるローマの総督が自身とその軍隊などを現地に養う給料の意味合いで、現地住民から強制的に買い付けを行う。こちらは、場合によっては物納ではなく貨幣で払わされることもある。

 およそこういう仕組みにて、シチリアは、他の属州とともに、ローマに体よく搾取なり、収奪されるという、政治経済的な従属的な立場に立たされていた。

(続く)

 

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◻️192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

2020-01-19 08:23:42 | Weblog
192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

 竹内文(たけうちあや、1868~1921)は、教育家だ。父は津山藩士で、柔術師範として禄を食(は)んでいた。1874年(明治7年)の時習(じしゅう)小学校卒業後は、津山変則中学校にいく。その頃既に、福沢諭吉の「男も人なり、女も人なり」の言葉に感銘を受け、女性の自立を模索していたのであろうか。
 それからは、大阪府立中学校に入学し6か月を過ごし、翌年郷里に六郡共立中学校ができたことから、津山に帰郷して、入学をはたす。
 1885年(明治18年)には、人生の転機が訪れる。神戸の神戸英和女学校に入学し、その翌年にはキリスト教の洗礼を受ける。この間に、英語を学ぶ。1889年(明治22年)にそこを卒業すると、札幌独立教会伝道師の馬場種太郎と北海道で所帯を持つ。
 ところが、1893年(明治26年)に夫が死に、子供二人と残されてしまう。それからは京都に行き、下宿屋をしたりで暮らしていたという。さらに、1894年(明治27年)には、津山に帰り、南新座の自宅で裁縫の塾を開く。
 その頃にはもう英語の塾をやりたい気持ちがあったようで、まずは1897年(明治30年)に、津山女学学芸会(津山女学校)を開校する。同年9月に文部省に設立認可を願い出たものの、うまくいかない。
 翌年には、同じ津山で裁縫が中心の淑徳館が認可を得る。竹内の女学校は、私塾として続けるしかなく、なかなかに経営が大変だったらしい。そんな中でも、授業前には皆で賛美歌を歌い、体操にはダンスを採り入れ、家事や育児に時間を設け、さらに英語は竹内自らが教えるなど、斬新な授業であったという。
 そしての1901年(明治34年)、津山を訪れた薄田泣菫は、かかる女学校校長の竹内を励まそうとしたらしい。後に設けられた詩碑「公孫樹下にたちて」(長法寺)には、その一部がこう記されている。
 「銀杏よ、汝常盤樹の神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。われら願はく狗児の乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の小さき名をば呼ばざらむ。絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。」
 その同じ1901年には、津山に県立の女学校の設立が許可されており、1903年(明治36年)に県立津山女学校として開校する。竹内は自らの学校を閉じ、単身で東京へ出る。津山の松平家の家庭教師を務める。その後の1921年(大正10年)に波乱の人生を閉じたのは、いかにも惜しい、せめて自ら育み、培ってきた大いなる夢を某かの手記にして後世に総覧してほしかった。


(続く)

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