◻️69『岡山の今昔』1990年代の岡山県

2020-01-06 20:58:55 | Weblog

69『岡山の今昔』1990年代の岡山県

 顧みれば、1990年代の日本の経済は、伸びきっての後、その後半の途中からは、2019年の今日まで続く停滞に向かうのであった。そこで、1992年の岡山県から始めよう。

 製造品出荷額等の総額(従業員4人以上の事業所)をみると、6兆8672億円。この内、重化学工業の占める割合が70%であった。内訳としては、化学工業が14.9%、輸送用機械器具が14.0%、鉄鋼業が12.7%。電気機械器具が11.1%、石油石炭製品製造業が8.9%、一般機械が5.3%、その他が3.6%ということで、水島臨海工業地帯での産出がかなりのウエイトを占めているのが窺える。一方、軽工業をみると、こちらは全体の29.4%を占める。これには、以前からの衣服その他の繊維製品が5.1%でトップ。食料品製造業の4.9%、飲料・飼料・たばこ製造業の4.0%がこれに続く。その後には、耐火煉瓦(れんが)窯業・土石製品製造業が3.7%、プラスチックが2.9%、繊維工業が2.4%、その他が6.4%という具合だ。前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。

 次に、人口構成については、15歳以下の「年少人口」が33.8%、ついで生産年齢人口が59.6%、そして65歳以上の高齢者人口が6.6%をそれぞれ占めて、俯瞰してみれば「ピラミッド型」をしている。それから、人口動態になると、やや厳しさご出てきたようだ。それというのも、同都市圏の出生数(5年間)は、1990~1995年の57千人が1995~2000年には58千人とほぼ横ばいにて、改善が見られない(「国政調査」)。

 では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1990年には全体が559.3千人のうち、第一次産業が8.9%の49.5万人、第二次産業が32.7%の182.6千人であるのに対し、第三次産業は58.5%、327.1千人とされる。これが1995年には、就業総数が585.2千人のうち、第一次産業が7.7%の45.0万人、第二次産業が31.3%の183.4千人であるのに対し、第三次産業は61.0%、356.8千人とあり、製造業は健闘するも、農業など第一次産業は、引き続いてウエイト及び就業者数の減少が止まらない。
 これらの取り合わせ状況を15年スパンで俯瞰的に見ると、第一次産業は、1980年に12.9%、69.2千人だったのが、1995年には7.7%、45.0千人と、かなりの減少を来している。一方、第二次産業は、1980年に32.8%、175.2千人だったのが、1995年には31.3%、183.44千人と、そのウエイトは第三次産業の伸びに比べ、こちらは僅かながらていかに甘んじている。

🔺🔺🔺

 この間の産業関連の出来事としては、何があるのだろうか、ざっと拾うと、まずは忘れてならないのものに、笠岡市沖に広大な干拓地ができたことがあろう。1993年3月には、国営笠岡湾干拓地で完工式が行われた。農林水産省が1966年から建設を進めていたもので、23年4か月もの歳月をかけたことになる。わが国ではじめて農業・工業用地造成の両方を目的とした「多目的国営干拓地」という計画にて、笠岡湾を東西2本の堤防で締め切って排水したことにより、1190ヘクタールの新しい大地が生まれたとしている。 これに、西側に隣接する工業用地の460ヘクタールと港湾水域の160ヘクタールとを合わせた登記上の総面積は1810ヘクタールとあって、なんと笠岡市域の14.6%にも及ぶ、戦後わが国の干拓事業では、秋田県・八郎潟に次ぐ規模だというから、驚きだ。これを記念して、21世紀の農林漁業の明日を探る「おかやま食と緑の博覧会」が干拓地内で開催され、4月からは、畑作・畜産の大規模経営が本格的にスタートした。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆