○○348の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦後に向けた反省(国民の立場から)

2020-01-08 21:03:41 | Weblog

348の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦後に向けた反省(国民の立場から)

 先の大戦とは、つまるところ何であったのだろうか!まずは、幾つかの国民の声を紹介しておこう。作家の宮本百合子は、戦後直ぐに、こんな文章を書いて、日本人のこれまでの「長い者には巻かれろ」式のあり方に対して、警鐘を鳴らしている。

 「私たちは、今度の戦争において、わずか十六七歳の若者が、どんなにして死んでいったかを知っている。どれだけの父親、兄、夫が死んだかそれを知っている。さらに膨大な人々の数が、それらの人々がいかにして死に、自分たちは、どうその間を生きてきたかという事実を知っている。生きてもどったそれらの人々と、その人々を迎えている今日の民衆のこころのうちに、いおうとすりたった一つの感想もないと、誰が信じよう。

 多くの作家が、これまでの歴史性による社会感覚の欠如から、今日における自分の発展と創造力更新のモメントを逃しているように、日本の人民は、智恵と判断を否定し、声をおさえる政策のために、明日死ぬかもしれないその夜の家信でさえ、無事奉公しています、とより書かされなかった。自分の感情を、自分のものとして肯定する能力さえ奪われてきた。」(宮本百合子「歌声よ、おこれ」)

 これにあるように、戦争というのは、どういう名目であれ、互いの国民なりが憎しみを高め、あるいは深めるものでありながら、日本国民総体としては、そのことにいち早く気がつき、かかる戦争を回避するすべをほとんど行使できなかった。この戦争は敗戦で終結されたものの、私たちは今こそ自らの足で立ち、話し、行動しなければならないという訳だ。

 次の話は、かなり多くの日本人がご覧になったのであろうか、例えば、2016年8月10日付け日本経済新聞にて、こう紹介される。

 「秋田県出身の小説家、石川達三(1905~85年)が戦時中、雑誌「中央公論」の編集者に宛てた未公開の書簡17通が10日までに見つかった。秋田県立大の高橋秀晴教授(59)=日本近現代文学=が発表した。
日中戦争時の日本兵による略奪や女性殺害などを描いた小説「生きている兵隊」が発売禁止となった際には「(出版社の)受付の子供に顔を見られるのも辛い気持」と強いショックを受けた心境が明かされている。
石川は、従軍記者として中国戦線に派遣された体験を基に、中央公論の38年3月号に「生きている兵隊」を発表。反軍的な内容として即日、発禁処分となり、自身も有罪判決を受けた。」

 これに注釈されているように、当時の中央公論社特派員として中国華南の戦場に赴いた石川が、日本軍の南京城攻略(1937.12.25)直後の現地に取材し、翌年三月号の「中央公論」誌上に発表されたものの、これが発行される直前に発売禁止処分となる上、著者石川他二名が「安寧秩序ヲ紊乱スル」(公判判決)行為として禁鋼四か月(執行猶予三年)などの刑事処分を受ける。

 思うに、この書簡が戦後にでてきたことにより、先の大戦中での言論統制が、記者の見聞きしたものを発表した後、どのような精神的苦痛を受けるのか、その事例を提供した社会的意義は、大きい。かかる社会的制裁を受けての石川の態度にはこれまでわからぬ次第もあったようなのだが、これでかなり「晴れていた」ように感じられる。そう、荒れ狂う暴力に直面しての個人は、大抵弱い。少なくとも、石川は、自分はなんとか自分の良心に恥じるような戦争協力者にはならなかった、当時としてはそれで精一杯だったのではないか、愛すべき一市民にして、その役割を果たし、偉大でもあった。

 (続く)

 

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◻️232の1『岡山の今昔』岡山人(20世紀、藤原啓)

2020-01-08 18:53:27 | Weblog
232の1『岡山の今昔』岡山人(20世紀、藤原啓)

 藤原啓(ふじわらけい、1899~1983)は、備前焼の陶芸家にして、1970年(昭和45年)からは、「人間国宝」。本名は敬二。穂波の生まれ。
 中学に入った頃か、文学に傾倒した。博文館が当時出していた文学雑誌「文学世界」に投稿するなどしていたという。
     1919年(大正8)に、上京する。1921年には、早稲田(わせだ)大学英文科に入学したものの、翌年中退し文学で暮らしを立てようと、発奮する。
    以後約15年、詩や小説の執筆を続けたものの、はかばかしくなかったようだ。結局、1937年(昭和12年)に帰郷する。40歳になっていた。
 このままではいけない、と考えていたのだろう。本人は、「やることがないので、やきものでもやるか」となったのが、縁というべきか。 「そのうち何となく備前焼をやるようになって」という具合らしい。三村梅景(みむらばいけい)や、金重陶陽(かなしげとうよう)にも、指導を仰ぐ。そして、郷里に窯を築き、陶工としていきていく。
 作風としては、鎌倉そして桃山時代までの備前焼茶陶の再興に尽くした。作品は端正で、めりはりの効いた野趣に富むと評される。絵付けや染め付けといった優美なやきものへの誘惑もあったものの、あくまでも伝統の再生を本文と心得たようだ。
 因みに、文学者が転じての心境が、こううたっている。「一千年、長きにわたり、焼きつづく、備前の里は、陶(すえ)のふるさと、家ごとに、窯を築いて、陶を焼く、備前の里は、今も栄えて」とある。
 それ以外にも、作家の井伏鱒二が当地を訪ねたおりのやりとりが、こう記されている。
 「窯のなかを覗いてみると、頬が焦げるかと思われるほど空気に熱気を持っていた。猪口(ちょこ)、お預け徳利、水指、皿、鉢、壺などが並んでいた。くっつきを防ぐための稲藁(いねわら)は真白になっていた。その灰を私が指先でひねってみていると(藤原)啓さんが窯のなかを覗きながらいった。「あんたがた、備前焼の見物に来たんなら折角だから閑谷学校の屋根瓦をみたらどうですか。元禄ごろに焼いた備前焼の瓦です。あずき色の瓦です」あずき色の瓦なら青空によく調和するだろう。」(井伏鱒二(いぶせますじ)「備前町観光記」)

(続く)

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◻️114の3『岡山の歴史と岡山人』水島港

2020-01-08 10:31:55 | Weblog

114の3『岡山の歴史と岡山人』水島港

 現在の水島臨海工業地帯の玄関口には、出入りの船舶を水島港が待ち構えている。この辺りの地質のあり方は、砂や粘土混じりの砂での表層、次いでシルト又は粘土層があり、さらにその下には砂礫としての洪積層があるという。
 もう一つ、この辺りの潮流は、必ずしもなだらかでないようだ。詳しくは、別書(例えば、平方与平「水島臨海工業地帯」など)に譲るが、上げ潮流と下げ潮流とで潮の方角や勢いが時々刻々変化するという。
 しかして、このようなところに近代的な港を創設する話が持ち上がる。そのきっかけは、軍事絡みてあったようだ。時は、1941年(昭和16年)には、旧海軍省の委託工事としてが持ち上がる。岡山県がこれを担う。高梁川河口部左岸側に、旧三菱重工業(株)水島航空機製作所の工業用地等の公有水面埋立事業という名目で着手。
 これに合わせる形で、山陽本線倉敷駅からの専用鉄道の敷設が始まる。軍の命令なら、工事を請け負った民間業者は従うしかないのであろう。そして、1943年(昭和18年)には、完成、運転が開始される。埋め立ても進んで、1945年(昭和20年)の敗戦時までには、その一部約187ヘクタールが成る、並行して港内最奥部の港湾施設が建設されたという。

 大戦後の1951年(昭和26年)には、港湾法に基づき岡山県が港湾管理者となる。1953年(昭和28年)には、現地に県の水島開発事務所を設置される。岡山を瀬戸内随一の工業県にしたかったのだろう。
 同年、1万重量トン級外航船の接岸が可能な水深9.0メートル航路泊地の浚渫工事が始める。これで発生する土砂を用い、A地区の造成も進められる。
 その後改良工事を経て水深16メートル、幅員450メートルに整備されていく。B、C、D地区等の土地造成工事も並行して実施される。そうして、現在に見る水島地区の港の原形ができあがっていく。

 その間、1960年(昭和35年)には、旧玉島港を併合して港湾法に基づく「重要港湾」に指定される。EやF地区の造成も進み、沢山の企業が集まり、工業地帯の造成と工場群が建設されていく。1970年代にはいると、かなりが操業に入っていったらしい。1974年(昭和49年)には、港則法に基づく港域を拡張して「特定港」に指定される。

 

(続く)

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