348の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦後に向けた反省(国民の立場から)
先の大戦とは、つまるところ何であったのだろうか!まずは、幾つかの国民の声を紹介しておこう。作家の宮本百合子は、戦後直ぐに、こんな文章を書いて、日本人のこれまでの「長い者には巻かれろ」式のあり方に対して、警鐘を鳴らしている。
「私たちは、今度の戦争において、わずか十六七歳の若者が、どんなにして死んでいったかを知っている。どれだけの父親、兄、夫が死んだかそれを知っている。さらに膨大な人々の数が、それらの人々がいかにして死に、自分たちは、どうその間を生きてきたかという事実を知っている。生きてもどったそれらの人々と、その人々を迎えている今日の民衆のこころのうちに、いおうとすりたった一つの感想もないと、誰が信じよう。
多くの作家が、これまでの歴史性による社会感覚の欠如から、今日における自分の発展と創造力更新のモメントを逃しているように、日本の人民は、智恵と判断を否定し、声をおさえる政策のために、明日死ぬかもしれないその夜の家信でさえ、無事奉公しています、とより書かされなかった。自分の感情を、自分のものとして肯定する能力さえ奪われてきた。」(宮本百合子「歌声よ、おこれ」)
これにあるように、戦争というのは、どういう名目であれ、互いの国民なりが憎しみを高め、あるいは深めるものでありながら、日本国民総体としては、そのことにいち早く気がつき、かかる戦争を回避するすべをほとんど行使できなかった。この戦争は敗戦で終結されたものの、私たちは今こそ自らの足で立ち、話し、行動しなければならないという訳だ。
次の話は、かなり多くの日本人がご覧になったのであろうか、例えば、2016年8月10日付け日本経済新聞にて、こう紹介される。
「秋田県出身の小説家、石川達三(1905~85年)が戦時中、雑誌「中央公論」の編集者に宛てた未公開の書簡17通が10日までに見つかった。秋田県立大の高橋秀晴教授(59)=日本近現代文学=が発表した。
日中戦争時の日本兵による略奪や女性殺害などを描いた小説「生きている兵隊」が発売禁止となった際には「(出版社の)受付の子供に顔を見られるのも辛い気持」と強いショックを受けた心境が明かされている。
石川は、従軍記者として中国戦線に派遣された体験を基に、中央公論の38年3月号に「生きている兵隊」を発表。反軍的な内容として即日、発禁処分となり、自身も有罪判決を受けた。」
これに注釈されているように、当時の中央公論社特派員として中国華南の戦場に赴いた石川が、日本軍の南京城攻略(1937.12.25)直後の現地に取材し、翌年三月号の「中央公論」誌上に発表されたものの、これが発行される直前に発売禁止処分となる上、著者石川他二名が「安寧秩序ヲ紊乱スル」(公判判決)行為として禁鋼四か月(執行猶予三年)などの刑事処分を受ける。
思うに、この書簡が戦後にでてきたことにより、先の大戦中での言論統制が、記者の見聞きしたものを発表した後、どのような精神的苦痛を受けるのか、その事例を提供した社会的意義は、大きい。かかる社会的制裁を受けての石川の態度にはこれまでわからぬ次第もあったようなのだが、これでかなり「晴れていた」ように感じられる。そう、荒れ狂う暴力に直面しての個人は、大抵弱い。少なくとも、石川は、自分はなんとか自分の良心に恥じるような戦争協力者にはならなかった、当時としてはそれで精一杯だったのではないか、愛すべき一市民にして、その役割を果たし、偉大でもあった。
(続く)
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