141の7『岡山の今昔』人形峠
とにもかくにも、かかるトンネルを通ることで、かつてのウラン鉱石の採掘場に行けることになっているようだ。ちなみに、実際に訪れた人によると、山道を進むうちに視界が開け、駐車場が現れるとのことであり、そこには日本原子力研究開発機構人形峠環境技術センターがある。この施設は、今ではウラン鉱物の採掘をしておらず、坑道やかつて使用した機器なども管理しているという。
このように山間僻地にある峠なのだが、そもそもは、1950年代、日本でのウラン鉱の主要産地として、知られるようになった。人形石(Ningyoite)や燐灰ウラン石などからなるというのだが、今から約700万年前頃(後期中新世)に堆積した人形峠層の砂岩礫岩中にウラン鉱は形成されている。それを発見したのは、当時の通産省地質調査所のメンバーだという。
しかして、ある識者による解説には、こうある。
「津山から山陰の上井(あげい)へと、バスが開通したのは1955年(昭和30年)の8月だった。そのときの土木工事が、日本一の埋蔵量といわれるウラン鉱発見のきっかけとなった。といっても道路工夫がそれを見つけたというのではない。
そのころ、鳥取県倉吉の小鴨鉱山の廃坑からウラン鉱が発見されたため、通産省の地質調査所から調査団がやって来た。ひと月がかりの調査も終わった最終日のことだった。車が人形峠にさしかかると、突然ガイガー計数管が鳴りだした。2万カウント。道路工事のため、岩石を削ったさい、そこにウラン鉱が露出していたのだった。つまり、偶然が幸いした所産だった。
その峠は、それまで名前がついていなかった。バス停も「県境」とあった。ウラン鉱発見のニュースに押しかけた報道陣は困った。(中略)結局西の方にあった人形峠という標高1004メートルの山の名を借用した。」(宮崎修二朗「吉備路」岡山文庫、保育社、1972)
さて、この周辺には花崗岩が分布、風化し、水に溶出した微量なウラン(酸化環境)が、地下水に混じって砂岩礫岩層の隙間を流れた際(還元環境)鉱物として固定されたものであるという。
参考までに、ネットで拝見するウラン鉱石には、たとえば燐灰ウラン石 (Autunite)などが標本写真として登録されていて、これは代表的なウランの二次鉱物で、黄色い板状結晶が特徴にして、ウラン雲母とも呼ばれる。その重量に対し、約 40% のウランを含むとのことで、紫外光照射により、発光を示す。
筆者としては、筑波にある地質標本館に陳列されているウラン石標本を、度々眺めたことがある。その仕掛けとしては、スイッチを入れると、ガラス越しの奥に鎮座する鉱石のそこそこの部分が輝かしい黄緑色に変じる、それが面白いが、眺め続けないようにしてくれとの注意書きが施してあった。
1979年(昭和49年)9月には、人形峠ウラン濃縮プラントが運転を開始する。しかし、安全面などで、かなりの無理があったのではないだろうか。結局、コストもかさんでのウラン鉱採掘は中止ぜざるをえず、外国からの輸入にたよるうち、この峠の施設で濃縮処理などを手掛けたのであるが、この国策は惨めな失敗をしてしまう。自然をあちこち掘り返したりもしていることから、雨などで土砂が流出したら大変なことになるからだ、
(続く)
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