◻️110『岡山の今昔』水島工業地帯(石油化学コンビナート、電力など)

2020-01-04 21:19:02 | Weblog

110『岡山の今昔』水島工業地帯(石油化学コンビナート、電力など)

 1974年(昭和49年)12月、三菱石油水島製油所で重油流出事故が起きた。それより10年余り前の1961年(昭和35年)5月、石油精製などの操業を開始した。そして迎えた1963年、大規模な干拓で増勢された土地に、まずは三菱グループの石油化学部門の三菱化成が化成水島を建設する。ほぼ時を同じくして、水島合成化学、関東電化工業、菱日水島などが形成される。また、旭化成グループからは、旭ダウ、旭チバの誘致などがあり、それらの関連会社も設置が進んでいく。これが、瀬戸内海屈指の石油化学コンビナートの誕生であった。

 顧みれば、このあたりの工場敷地は、昔は高梁川と旧東高梁川の河口沖であった。ところが、昔の連島の南方あたり、東の方角から福田新田、亀島新田、鶴新田として埋め立てられていた。そうであるものを、さらに戦後その先を埋め立て、水島工業地区として整備していく。

 一方、福田新田沖の埋立地には、東京製鉄、化成水島、中国電力、日本鉱業などの工場が南へ向かって延びた。また亀島新田と鶴新田の南部に造成された埋立地には、三菱自動車、日本ガス化学、川崎製鉄、そして三菱石油とある。地図を広げると、川崎製鉄の敷地は、瀬戸内海の南域深くまで進出している。

 さらに、これらの西の高梁川の向こう岸、昔の乙島(おとしま)そして玉島港の南方には、玉島に乙島(おとしま)地区が広がる。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。

 続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)や中国電力を中心に、ということになっていった。そんな中でも、玉島地区のランドマークこと、玉島発電所1~3号機の出力を合わせると合計120万キロワットにして、その3号炉の煙突の高さたるや230メートルもあり、2019年現在西日本で一だという。
 さらに、沖合水域が埋め立てされていった。また近年、玉島ハーバーアイランドは、玉島港の沖合に造られた、総面積約245ヘクタールを誇る人口島であって、ここには、水島国際コンテナターミナルが設けられている。巨大なガントリークーレンが二基と、最新の港湾機能、そして大型船が接岸できるとのことだ。特定重要港湾にも指定されており、日本における国際海上輸送網の拠点の一つと位置づけられている。
 こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。



(続く)

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◻️176の5『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、野崎武左衛門)

2020-01-04 10:32:46 | Weblog

176の5『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、野崎武左衛門)

 現在の倉敷市のJR児島駅の周辺は、江戸時代の頃は海に面していて、「野崎浜」と呼ばれていた。味野と赤崎という二つの地域に挟まれた地帯ということで、この名前がついたという。江戸時代も中ごろ以降になって、この地域において、当時「関西有数の塩田王」と称され、大々的に製塩業を行う資本家がでた。
 その野崎武左衛門(1789~1864)は、味野の生まれ。父が事業に失敗し、貧苦の中で育ったという。そのかれが1809年の21歳で一発奮起、家財を売り払い、それで得たカネで足袋製造販売を始める。売掛金回収に苦労したりで、叔父の中島富次郎の助言で、製塩に興味を抱く。

  そして迎えた1829年(文政12年)、彼は製塩業に打って出る。江戸時代の初めから小規模な製塩業がより集まって育っていたこの地に、大規模な塩田を開発する。前述の野崎浜を皮切りに、日比亀浜、東野崎浜(南浜、北浜、以上は現在の玉野市)、久々井浜(くぐいはま、現在の岡山市)などを開発していく。

 かくて、それらの塩田の総面積は、当初の「48町歩余」から「874町歩余」(ただし、水田、塩田などの合計)にもなっていた、食塩も「二万石からの造産」(進昌三、吉岡三平「岡山の干拓」岡山文庫、日本文教出版、1974)となったというから、驚きだ。

 野崎がこれらに設けた塩田は、入浜式のもので、まずは、波の静かな入り江を選び、堤防を築く。塩田は、溝によって短冊形に仕切られている。その塩田に、干満の差を利用して海水を引き入れる。柵の中には砂があるわけで、太陽熱で海水が温まり、熱くなり、ついには水分が蒸発すると、その水田の砂に塩分がつく。それをかき集めて海水をかけることで濃厚な塩水をつくる。それから、これを大きな釜で煮詰めると塩の結晶が析出するというもの。この製塩法は、近世初期に始まり、改良を重ねてきたものの、1950年代に流下式塩田にとって代わられる。

 

(続く)

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