◻️1の2の2『岡山の今昔』人類の到来と吉備

2020-01-14 23:10:00 | Weblog

1の2の2『岡山の今昔』人類の到来と吉備

 では、このあたりに類人猿や人類の足跡が、何らかの形で認められているのだろうか。その答えは、よくわかっていない。そのことを覗わせるものに、倉敷周辺の小高いところ、つまり海面下でなかったところに散らばる遺跡があるという。ちなみに、日本全体での類人猿、ホモ・サピエンスのあり方については、こうある。

 「ホモ・エレクトゥス類とネアンデルタール人は、ゴリラ並みの筋力を持ち、毛皮に覆われた直立二足歩行をする王獣の類人猿で、三キログラムのハンドアックスを軽々と扱うのだから、そのような王獣に出会う可能性のある地域は敬して通り過ぎるのが、華奢なホモ・サピエンスとしては安全であり、礼儀というものだったろう。」(島泰三「ヒト、異端のサルの1億年」中公新書、2016)
 それでは、私たちの直接の祖先、ホモ・サピエンスに限り、かれらが暮らした痕跡が明らかに認められるのかといえば、それは旧石器時代までさかのぼるのだという。

 参考までに、国立博物館人類史研究グループ(2016)の見解によると、こうなっているという。

 約20万年前にアフリカで誕生した現生人類、その一派が日本に渡ったのは、約3万8000年前とされている。同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長によると、彼らがこの列島にやってきたルートは三つが考えられるという。朝鮮半島から対馬を通り九州へ入る「対馬ルート」、台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」、ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」だという。(詳しくは、海部陽介「日本人はどこから来たのか?」文春文庫、2019など)

 あわせて、当時の海岸線が推定されているところでは、北海道はサハリン島を介して、ユーラシア大陸側のロシアのアムール川河口域と陸続きになっていたという(例えば、新村芳人「縄文人はどこから来た?」、「現代化学」2019年10月号に、想像図が掲載されている)


 話を戻して、この辺りでは、児島の鷲羽山遺跡などの遺跡が、それであるという。この辺りには、当時の人々が使っていた石器が数多くみつかっている。同じく、鷲羽山への登山道にしられてある案内石版には、「鷲羽山には、数万年の昔から人類が住みついていました。彼等は香川の五色台付近に産出するサヌカイトをいう岩石を加工してつくった石器をつかい、魚や野獣を捕らえて生活していました」とある。 
 とはいえ、現代の考古学からは、こうも言われる。

 「日本列島最初のホモ・サピエンスは、古い石刃技術や台形石器文化のCグループ(3万年以前~2万5000年前)と茂呂系・杉久保系文化(3万~1万5000年前)だったが、彼らの生活は現代人が考えるようなものとはまったく異なっていたようで、その石器文化に発展はなく、その移動も列島を縦断するほどだったようである。」(同)

(続く)

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◻️19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

2020-01-14 21:26:51 | Weblog

19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

 ここに「万葉集」というのは、日本で最初の歌集であり、4500首余りを収録している。原文は、ほぼ漢文で書かれている。もう少しいうと、音を漢字で表した万葉仮名(まんようがな)、漢字の音・訓読み、それに仏教からくる悉曇(しったん)文字までいりまじっている。それだから、当時から読み通すのが難しく、平安時代の初めにはほとんど読む人がいなくなっていたという。

 そこで、村上天皇が当時の歌人5人に読み解きを命じ、それからの識者の努力で、だんだんに多くが読み残され、次代へ引き継がれていく。
 それらの歌の中には、王候貴族や有名歌人ばかりでなく、「名もなき人」の作をも含む。それらのうち吉備にまつわる歌も幾つかあるので、少し紹介しよう。
 その一として、「大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば筑紫の児島 思ほえむかも」(巻6-967、大伴旅人(おおとものたびと))。
 これの現代語訳の例としては、「都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんのことを思い出してたまらない気持になるだろう」
 果たして当時の吉備の児島は、現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島の姿としてあったのではなくて、「吉備の穴海」の中に浮かぶ独立した大きな島であった。このあたりでの海流は、かなり早く、潮待ちの港として栄えたところだ。
 それから、ここでの作者の旅人なのだが、大伴氏は名門貴族の家柄であっても、橘氏と藤原氏の抗争に巻き込まれていたという。どちらかというと、策謀家の鎌足以来、今も伸長著しい藤原氏に、覚えが芳しくなかったのではないだろうか。息子の家持(やかもち)の代になると、一族の命運をどう保つべきかの岐路に立たされた、と伝わる。そこで、朝廷の命令を受けての、「万葉集」の編集に加わることで、危難から距離を保とうとするのであったらしい。

 その二として、笠金村(かさのかなむら)の歌には、「波の上ゆ 見ゆる児島の 雲隠(きもがく)り あないきづかし 相別れなば」(巻8・1454)
 これの現代語訳例は、「波の上のところに、浮かんで見えているところの児島が雲に隠れている。それとは異なることながら、ああとため息が出てくることだ。私たち二人は、はなればなれになってしまったのだなあ。」
 唐に赴く使者に、はなむけとして贈った長歌の反歌して、春にうたわれたことから、「春の相聞歌(そうもんか)」に分類分けされている。作者は京都にいながらにして、一旦海に出たら、船の進行につれて、たちまちに雲があわられ、児島を隠してしまう、そんな情景を思い描いてのことなのだろうか、その後に本文が登場してくるみたいだ。
   
(続く)

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