○497『自然と人間の歴史・日本篇』阪神淡路大震災(1995)

2020-01-15 22:41:59 | Weblog

○497『自然と人間の歴史・日本篇』阪神淡路大震災(1995)

 かえすがえすも、復興への道のりは険しい。2020年1月、「【1・17の記憶】25年前、この街で誰が亡くなった? 名前の刻まれない慰霊碑―傷跡の見えない街」というタイトルのネット配信のニュースに見いったのは、何故なのだろうか。

 その1月15日配信の神戸新聞電子版には、こうある。
 「25年。それだけの歳月が流れれば、街はどれだけ変貌するだろう。1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災。傷痕が見えなくなった今、土地の記憶をたどる人たちがいる。神戸市東灘区本山中町4丁目。この街に昨年春、小さな慰霊碑が建てられた。
 「慰霊碑ができて、初めての1月17日を迎えます」
 大型の台風19号が過ぎ去った2019年10月13日。JR神戸線摂津本山駅の南、マンション集会室で開かれた「国道地蔵尊」奉賛会の総会で、会長の大町真由美さん(72)は話し始めた。
 戦前から国道2号の安全を見守ってきたお地蔵さん。その一角に19年4月21日、高さ50センチ余りの震災慰霊碑が建てられた。本山中町でも、「4丁目」だけの碑だ。
 東側の2丁目にある中野北公園には、震災翌年の1996年に碑ができた。だが、そこには1~3丁目で亡くなった75人の名前しか刻まれていない。
 4丁目には、自治会がないからだという人もいる。旧本山村の時代から違う地区だったからでは、と話す人もいる。確かな理由は分からない。」

 同じ紙面にて、特段、「東灘区は、神戸市内の区別で最多の1470人が亡くなった。だが、市には町・丁目ごとの犠牲者数の公式データがなく、名前も公表されていない」のところで、私の目は釘付けとなる。その理由につき、及ばずながらいうと、大震災の起こるかなり前に、私は神戸市東灘区の御影本町の、とある長屋の一室を借りて住んでいた。
 その前は、同区内にある神戸大学の学生寮にいたのだが、27歳にもなっていて、若い人達といるのが辛かったためもある。その頃、我が人生航路たるや、まるで定まらず、夜間部の学生そして非正規労働者として、このまま成すすべなく年をとっていくのではないかと、自分の将来を危ぶんでいた。


(続く)

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○367の2『自然と人間の歴史・日本篇』日韓基本条約(1965)

2020-01-15 21:33:14 | Weblog
367の2『自然と人間の歴史・日本篇』日韓基本条約(1965)

 顧みれば、日韓国交正常化へ向けた交渉は、朝鮮戦争中の1951年(昭和26年)から進められる。交渉の途中は、韓国による日本漁船の拿捕(だほ)事件が起こる。1953年(昭和28年)には、日本側から植民地支配の正当化とも受け取られる発言がある。
 1961年(昭和36年)には、クーデターによって軍人出身のパクチョンヒ(朴正熙)が大統領になる。すると、強力なリーダーシップを発揮し、交渉が活発化する。一方で「屈辱外交反対」などと掲げた労働者、学生らによる大規模な集会やデモが相次ぐ。当時は、冷戦のさなかで、アメリカは、資本主義陣営の日韓を結びつけようと、両方に圧力をかける。両国民が注視する中、都合7回の交渉を行う。
 そして迎えた1965年(昭和40年)6月22日、双方の間で日韓基本条約が調印される。この年の12月18日に批准書を交換する。これにより、この二つの国は国交を正常化する。
 これにつけても、基本条約の中では、すぐる日韓併合条約調印の1910年8月22日以前に結ばれた条約・協定については、こうある。

 「第二条「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」

 ちなみに、日本側のこの第2条への解釈は「もはや無効」とし、それまでの日本による朝鮮に対しての植民地支配を正当化したい。一方、韓国側のそれは、「すでに無効」として日本側とは食い違う。
 あわせて、「朝鮮において韓国が唯一の合法的な政府」と確認し合う。経済協力や漁業、在日韓国人の法的地位に関する協定も結ばれる。それらの中では、あわせて結んだ請求権・経済協力協定などで、日本は韓国に「3億ドルの無償供与」を約束したことになっている。

(続く)

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