◻️204の7『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、釈日研)

2020-01-31 22:38:36 | Weblog
204の7『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、釈日研)

 釈日研(しゃくにっけん、1858? ~1927)は、日蓮宗の僧侶だ。備前の妹尾町(現在の岡山市南区)の生まれ。当初には、野山の妙本寺の住職をしていた。しかし、日露戦争の後、身寄りのない貧困児童が多くなったのを見て、このままでは社会の不安は拭えないのを感じる。そこで、同寺を弟子に譲って、総社で院母の妙蓮尼(みょうれんに)と共に「釈尊修養院」という名前の孤児院を開院する。
 1915年(大正4年)頃までに、同院では百数十人の児童を育てており、1915年当時も数十人の児童が規則正しく暮らしていたというから、驚きだ。
 この施設の運営には、どう節約しても、それなりのカネがかかる。財源確保のため置き薬「備中売薬」を誕生させるなどして、なんとか事業を続けていたようだ。そして迎えた1936年(昭和11年)、施設からの出火で子どもの救出に向かうも、その当人である妙善尼(73)が亡くなり、この施設はやむなく閉鎖となる。
 現在は総社消防署から東へ歩いて2分ほどの田園の中に寄付者個人の名前が刻まれた石塔と石碑が残っている、という。珍しいところでは、岡山県賀陽町(吉備中央町)の妙仙寺の住職、藤井学舜は、修養院出身で釈日研の弟子になった人物だという。

(続く)

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♦️10の4『自然と人間の歴史・世界篇』太陽風と地球磁気圏、そしてオーロラ

2020-01-31 21:33:20 | Weblog
10の4『自然と人間の歴史・世界篇』太陽風と地球磁気圏、そしてオーロラ

 いつの頃からだろうか、太陽からは、光や熱だけでなく、太陽風も地球に降り注がれている。太陽風は、太陽の表面の爆発によって放出される、プラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている、いわば「流れ」だ。太陽風はプラズマといって、電子を手放した原子(プラスの電荷)と自由になった電子(マイナスの電荷)の集まりだ。
 この太陽風の源が、摂氏100万~1000万度もの高温のコロナ、それは太陽の外縁大気である。金環日食の時、直近の日本では、2015年年5月21日に起こったおりには、地球からゆらゆら揺れて見えるそのコロナから噴き出されている。この風だが、地球の辺りには、その間ほぼ遮られることなく到達するという。
 ところが、太陽風は、地球には直接ぶつからない。それというのも、この太陽風は、地球の磁場を横切ることができないという特性を持っている。だから、側面からは入ってこれない。一方、地球の北極や南極地方辺りには、光の粒となったプラズマが入っていくことができるという。
 あわせて、地球の磁場の影響を受けて、地球の裏側(夜側)に回り込む。すると、そこには、それまでに回りこんだプラズマがたまり続けている場所(プラズマだまり)があり、磁場が急激に変化する。そこのところについては、学者による論争があるようで、例えば、一般向けにこう説明されている。
 「筆者は、磁気圏はある量のエネルギーが貯えられると不安定になり、そのエネルギーを放出して安定になろうとすることがわかった。せれはゴムひもを引っ張るには限界があることに相当する(逆平行の磁場が消滅する必要はない)。磁場圏がそのエネルギーを放出することは、ゴムひもが元に跳ね返ることに相当する。」(赤祖父俊一「オーロラの新理論」、「天文ガイド」2013年8月号)
 
 
 この現象が起きると、爆発的にエネルギーを得たプラズマが地球に流れ込む。その場合、プラズマは磁場の方向(方位磁針が指し示す方向)にそって運動するので、地球の磁極(N極とS極)の周辺に流れ込む。このプラズマが地球の大気にぶつかると、大気中の窒素分子や酸素が刺激されて光を放つ、これがオーロラだ。
 なので、このプラズマを引き寄せる磁気の強い場所のうち、その時々の天候が安定しているカナダや北欧などでは、一年を通じてオーロラが観察できる場所が幾つかあるという。
 
 それというのも、「24時間オーロラが出続ける不思議な場所が世界で2所ある。北極のノルウェー領スバールパル諸島と南極点だ。この2カ所では、地磁気の軸と地球の自転軸とが微妙にずれていることでオーロラが見え続ける」(朝日新聞、2018年6月14日付け、BSプレミアム「コズミックフロント、NEXT」)との放映があったところだ。

 さて、太陽風に乗って地球にやってきた高エネルギーの電子が、この空気分子の電子と衝突し、空気分子の電子にエネルギーを与えることによって、空気分子に含まれる電子は、これまでの軌道より外側をまわるようになる、これを、「励起状態」という。とはいえ、この状態は空気分子にとって不安定なので、時間がたつと自然に元の軌道に戻る。このとき、2つの軌道のエネルギーの差の分だけ、光を放つ。
 では、オーロラはどうしていろいろな色で見えるのだろうか。もう一度いうと、電子の励起状態と戻った状態の2つの軌道のエネルギー差の分だけ、光が出る、このエネルギー差は出てくる光の強さではなく色に対応していて、エネルギー差が大きいと青色、中くらいだと緑色、エネルギー差が小さいと赤色に偏る。
 量子力学によると、電子がとることができる軌道のエネルギーは「飛び飛び」の値に決まっていて、どのエネルギーでもとりうる訳ではない。そういうことであるから、オーロラは、数多くの決まった色(輝線という)の組み合わせで光っている、それを観察者は眺めていることになる。 
 そんな私たちの好奇心を駆り立てるオーロラなのだが、人類を含めこの地球上の生命にとっては、それ以上の意味があるという。それをわかり易くいうには、例えば、地球の約半分の直径の火星の岩石は、地球のに比べて軽く、地場は元々弱かったことなどから、磁気圏が弱まっており、太陽風に晒され、大気を繋ぎ留めることができず、現在のような荒涼たる環境となってしまったとされる。


(続く)


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◻️211の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内田鶴雲と高木聖鶴)

2020-01-31 08:52:20 | Weblog

211の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内田鶴雲と高木聖鶴)

 内田鶴雲(うちだかくうん、1898~1978)は、勝田郡勝北町新野(現在の津山市新野山形)の生まれ。本名は、裕之という。いつの頃からだろうか、書道に傾倒したらしい。大原桂南、丹羽海鶴、伊原雲涯らに書道を学ぶ。

 1948年(昭和23年)には、日展に書が加わる。これにより、かなの書に大いなる変化が起こる。従来の巻子や帖を主体とする机上の芸術から、壁面にかけて多くの鑑賞者にいかに見せるかに作者の関心向かう。「見映え」のする形での作品が求められていく。
 かな作家たちは、それぞれ自慢の「大字かな」への模索していく。関西の書家がその先駆けをなす中で、内田鶴雲も、平安朝の古筆に学び、かなについてはたおやかで優美な線を追求していく。代表作としては、「水の変態」があるという。2008年度には、鶴雲生誕110年を記念し、遺墨53点と愛用の文具などが津山市に寄贈されたという。

 

 高木聖鶴(たかぎせいかく、1923~2017)は、岡山生まれ。本名郁太。1947年(昭和22年)には、内田鶴雲に学ぶ。中国や日本の古典を学び、元永本古今集の書風を身につけるが、、高度成長期になってからは、大字かな運動に参加する。
 中でも、大字にしての、かなと漢字の調和に努めるうち、みずからの書風を作っていく。
 日展参事、日本書芸院最高顧問、読売書法会最高顧問、朝陽書道会会長、聖雲書道会主宰などを務める。書家にして文化勲章受章者となり、この国にて一派をつくったことになろうか。


(続く)


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◻️211の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原躬弦)

2020-01-31 08:48:22 | Weblog

211の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原躬弦)

 久原躬弦(くはらみのる、1855~1919)は、化学の研究者にして、教育家だ。久原洪哉の長男として津山で生まれる。幼少から蘭学の手ほどきを受け、14歳で箕作麟祥の神戸洋学校に入学する。やがて、東京に出て、箕作秋坪の三叉学舎に入る。
 翌1880年(明治3年)年には、津山藩の貢進生として大学南校に入学する。その在学中に、大学南校は開成学校、東京大学と称されることにより、躬弦は東京大学化学科を第1期生として卒業する。
 それからは、学究生活に入り、1879年(明治12年)には、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学に留学する。帰国後は、東大教授、京都帝大教授、京都帝大総長を次々に歴任する。日本の理論有機化学の草分け的存在として、広く知られる。

(続く)

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◻️211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良と清田寂担) 

2020-01-31 08:45:52 | Weblog

211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)

 久原茂良(くはらもりょう、1858~1927)は、洪哉の二男として津山で生まれる。1884年(明治17年)、東京大学医学部を卒業する。順天堂病院等で臨床研究を行う。1886年(明治19年)に、津山に帰る。そして、帰郷 津山二階町(現在の津山市二階町)で医院を始める。

 やがて、苫田郡(とまたぐん)の医師会の初代会長に就任する。そればかりか、1919年(大正8年)には、津山町西寺町大円寺境内に、診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれる。なお、彼の他に、津山市内で開業していた宮尾守治と宮城守治郎も参加してのことである。

 これの由来だが、1918年(大正7年)、津山町の天台宗大圓寺住職の清田寂担(きよたじゃくたん)が、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施するも1918年(大正7年)、津山町大圓寺住職清田寂担、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施。その悲惨な状況に驚嘆した結果、彼らの病を救うべく、無料診察事業の創設を発願。1919年(大正8年)大圓寺元三大師堂に「津山施療院」を設立。、彼らの病を救うことの大切に気づき、診察事業の創設を発願する。1919年(大正8年)には、同寺の元三大師堂に「津山施療院」を設立する。当面の資金には、伝教大師最澄千百年の遠忌にあたり募金で集まった浄財の1割を充てることにしたという。
 1922年(大正11年)になると、新たに児童健康相談部及び助産部を設ける。1923年(大正12年)になると、さらに施薬救療部、児童健康相談部、産院部、窮民救済部を開設する。1925年(大正14年)からは、岡山県より補助金を受ける。その精神と事業の幾らかは、戦後に社会福祉法人広済会に引き継がれていると聞く。

 これにあるように、この施設では、人民に奉仕する医療を目的する。貧しい人からは治療費をもらわないなど、地域の医療の発展に貢献していくのであるから、久原医師らの現場関係者の苦労は並大抵ではなかったのであろう。

(続く)

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◻️211の13『岡山の今昔』岡山人(20世紀、久原濤子)

2020-01-31 08:41:35 | Weblog

211の13『岡山の今昔』岡山人(20世紀、久原濤子)

 久原濤子(くはらなみこ、1906~1994)は、医師、久原茂良の4女として津山の二階町に生まれる。久原家は、初代甫雲から九代宗甫まで代々蘭方外科医として津山藩に仕える。1924年(大正13年)、津山高等女学校を卒業する。1929年(昭和4年)、東京へ行き、彫刻家の北村西望に学ぶ。

 1931年(昭和6年)には、帝国美術院展覧会に出品した「男の首」が女性として初入選を果たす。現在、この彫刻(頭身部分のみでできている)は、津山市郷土博物館(旧津山市役所、津山市山下にある)の玄関前の露天に設置されていて、間近で拝見すると、なかなかに鋭い表情をしている。以後、あれやこれやの対象を眺めては、精力的に創作を行う。
 1955年(昭和30年)には、師匠の北村西望の「長崎平和祈念像」製作に助手として参加する。1970年代半ばには、津山に帰郷。二階町の自宅で創作活動を続ける。

 そんな彼女の代表作と目されるのは、何であろうか。例えば、渋みのある面持ちをさらけ出している「箕作阮甫先生」胸像であろうか、それとも「わんていか」像(1975、津山市の児童公園)や「星座」像(1983、同市中央公園)、羽ばたき(1976、平塚市立花水小学校)といった子供たちの連帯感の溢れる作品群、もしくは様々なポーズで落ち着いた感じのする裸婦像を挙げるべきなのだろうか。


(続く)

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◻️211の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大村清一)

2020-01-31 08:37:34 | Weblog

211の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大村清一)

 大村清一(おおむらせいいち、1892~1968)は、保守派の政治家だ。
それに、日本国憲法の公布文に名前が残る一人としても知られる。
 1917年(大正6年)には、京都帝国大学法科大学独法科を卒業する。内務省に入り、長野、神奈川県知事となる。長野県知事は、2度つとめる。地方、警保局長を経て、1939年(昭和14年)の阿部内閣の文部次官を務める。第19代東京市長の岸本綾夫の任期中(1942~1943にかけての一時期)には、その市長を支える助役にもなっていた。
 戦後は、1946年(昭和21年)の第1次吉田内閣にて、内務大臣を務める。内相となっては、新憲法下の参議院の構成、地方自治制度の創設などで連合軍司令部との交渉に当たる。
 憲法草案要綱には、「地方公共団体の長」につき、「当該地方公共団体の住民に於て直接之を選挙すべきこと」とあり、内務省は地方長官を県議会で選出する間接選挙の方法を採択する余地がないか総司令部と折衝を重ねるも、連合軍総司令部の受け入れるところとはならない。
 5月25日には、首長公選制を含む「府県制の一部を改正する法律案要綱」が閣議決定される。

 そして迎えた6月14日の地方長官会議の席上、内務大臣の大村は、「地方住民に直接参政の権利を与えて都長官、道長官、府県知事又は市町村長を直接選挙する」方針をいう。これを踏まえての府県制の一部を改正する法律案は、帝国憲法改正案と同じく第90回帝国議会において審議される。
 その議会においては、知事は公選とするがその身分は官吏(国家公務員)とするという原案に、憲法施行を機会に知事の身分を公吏(地方公務員)とする修正が行われる。かくて、府県制の一部を改正する法律は9月27日に公布される。

 この理由を、大村は、続く10月30日の地方長官会議において「地方行政改革が現行憲法(大日本帝国憲法)の下に於けるものであることと当時の社会情勢とに鑑み、公選知事の身分を官吏とすることを適当と考へたのでありますが、議会の審議中に、治安、食料等の情勢に緩和の徴が現われ、又一般の輿論が徹底せる地方分権を希望し」たためと説明し、理解を求めた模様だ。

 第1次吉田内閣の閣僚として、貴族院勅選議員に勅任されていた大村だが、1947年(昭和22年)の総選挙に、岡山から出馬して当選する。1954年(昭和29年)には、鳩山一郎らとともに民主党の結成に参加する。第1次鳩山内閣の防衛庁長官となり、初の「防衛力整備長期計画」を作成する。平和憲法の解釈では、憲法は自衛のための戦争を禁じていないとの答弁を繰り返す。他にも、日本林業協会長、相模女子大学長などもつとめる。

(続く)

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