54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)
ほぼ同時期の岡山、とりわけ美作ではどうであったのか。こちらの農民を主体とする一揆の主な原因は、徴兵や土地の地券作成から学校や公共施設の建設など、農民を中心に度重なるさまざまな負担(税や賦役など)が課せられたことにある。
因みに、ここに「血税」というのは、兵役の義務との関わりでそう呼ばれるに至る。1872年(明治5年)、太政官告諭の「西人之を称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり」によるという。
この血税一揆は、1873年(明治6年)5月25日、西西条郡貞永村(にしにしじょうぐんてえじむら、現在の苫田郡鏡野町)から起った。
この一揆は、農民たちの明治政府への日頃の不満に火がついた格好で、2、3日のうちに美作全域に広がっていった。津山市街地においては、禄を失った旧津山藩士104人も、かれらの要求を携えて一揆に参加した。この「美作血税一揆」の参加者の数は、全体で2万人を超えていた。
その地理的な拡がりを物語るのものに、1975年(昭和50年)に郷土の史家(井汲清と安藤靖雄)によって「明治6年北条県血税一揆略図」がある。これによると、まさしく燎原の火の如く広がった一揆だったことが読み取れる。
この一揆の目標は、北条県当局に突き出された形であったが、その多くは県庁の権限では及ばないものが多かった。主な要求項目としては、10項目があった。
「一、五ヶ年間、年貢米を免除すること。
一、断髪令を廃止して従前通りとすること。
一、屠牛を止めさすこと。
一、田畑へ桑、草木の植付を止めさすこと。
一、地券作成の費用は政府でもつこと。
一、耕地絵図面の費用も右に同じ。
一、徴兵制度を廃止すること。
一、「」は従前通りとすること。
一、課税金も従前通りにもどすこと。」
とりわけ西部の一揆勢は、5月27日には津山市の西寺町の愛染寺に到達したし、東部の一揆勢は30日、川辺から兼田橋(旧)を渡った。そこから出雲街道沿いを、津山城下の西の玄関口として城西(じょうさい)地区のうねうね、かくかくした狭い通りを見据えつつ、津山市街に入ろうとしていた。明治政府の方からは、大阪鎮台から政府軍が出兵して、大砲や鉄砲で一揆を鎮圧しようとした。双方の武力の差は歴然としており、明けて6月2日には、さしもの激しい一揆も武力で鎮圧された。
この事件で処罰された者の数は、美作ではそれまでにない大規模なものだった。死刑に書せられた者15人、牢につながれた者28人、むちたたきにされた者553人、罰金刑になった者は2万6千余人に及ぶ。なお、士族の参加者については、記録にありながら、その責任は問われなかった。
これらのうち罰金については、つぎのように説明されている。
「罰金は参加者全員に、一人あたり2円25銭でした。この金額は米一石のねだんです。当時の百姓の日当(賃金)が米一升の時代でしたから、百日分の日当は農民にとってそれはそれは大変な大金でした。 金策に困りはて、田畑を抵当に入れて高利貸から借金する者など、貧しい農民のくらしをさらに苦しめました。集めた罰金は6万5千円、いまのお金にすれば十数億円という莫大なものでした。」(美作の歴史を知る会編「おかいこさまと自由民権」みまさかの歴史絵物語(9)、1993年3月刊)
この北條県一帯の一揆には、勝北郡(しょうぼくぐん)からもかなりの人数が参加していた。而(しか)して、彼らは、新野東、新野西、山形、広戸からの一揆勢の大方は妙原(みょうばら)・津川原(つがわはら)方面へと進出した。一方、勝北郡への一揆勢の進出としては、梶並川周辺(勝田郡勝田町、勝田郡勝央町及び英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡間町)からのものと、吉野川周辺(英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡作東町及び英田郡大原町(現在は美作市))からのものと、大まかに二つの流れがあった。
ここで梶並川とは、吉井川水系に属する吉野川の支流である。その源流は、鳥取県境の勝田郡勝田町右手峠(標高633メートル)辺りで、そこから南に30.8キロメートルを下って、英田郡美作町林野付近で吉野川に合流している。それでも、年を重ねるうち、新野西下の世帯数と村人は増加した。
「東作誌」によると、江戸末期には「村高のうち新田191石余、毛付高444石(1石は0.18キロリットル)余、家数47・人数199、山林27か所で2町の運上金1匁(もんめ、現在1匁は3.75グラム)余、井堰は広戸川筋3、田柄川筋7、溜池3」であった。それが、1889年(明治24年)になると、「戸数63、人口は男168・女148」になった(角川書店『全国地名辞典』)。
かかる「血税一揆(騒動)」に関して、当時の記録「美作騒擾記」の記述には、こうある。
「群衆は、これ(捕らえた民)を加茂川の辺なる火葬場の傍なる一陣の内に押し入れ、最初に半之丞(被害者の名前)を引き出し、これを水溜の中に突き落とし、悲鳴を挙ぐるを用捨なく、槍にて芋刺しに串貫ぬき、かつ石を投げつけてこれを殺したり。
それにより順次に同一方法を用いて5人を殺し、最後の6人目なる松田治三郎に至るや、隙を見て逃亡せんとし、今一歩にて加茂川に飛びいらんとするところを、後より石を擶(う)ち、これを惨殺せり。
猛り切ったる群衆は、猶これにあきたらず、同民の家に火を放ち、半之丞の居宅ならびに土蔵三棟、納屋一棟を焼き払いたるを手初めに、火はしだいに次から次へ焼き移り、遂に全部落百余戸を灰燼に帰せしめ、また悲鳴を挙げて逃げ迷う老少婦女を捕へて、背に藁束(わらたば)を縛し、これに火を放ちて焼死せしむるなど、すこぶる残惨を極めたり。」(「美作騒擾記)
また、より身近に身をおいて、かかる騒動を垣間見ていた片山潜は、現在の久米郡久米南町にも一揆勢が及んでいたことを、次のように紹介している。
「この暴動について記憶に残っていることを書いてみよう。家の真向かいにある高札場に農民の一群が現れたのは朝まだはやくであった。手に斧か鍬、竹槍をもち、ひじょうに不穏なようすであった。「ほかのものはどこだ?」と彼らはさけんだ。「みなもう弓削(ゆげ)に行った。」と曾祖父が大声でこたえた。農民たちはまたたくまに高札場を打ちこわし、武器をふり回し、どなりながら、私の家のそばを走っていった。明け方、すべての健康な男は村から姿を消した。子供と老人だけがのこった。近くの家でも一揆のものたちの食糧をつくっていた。しばらくすると、南の山の上が赤くなった。巨大な焔(はのお)が空にたちのぼった。ときどき、群衆の叫びがきこえた。「金持の鏡の家を焼いているのだ。」と村ではいっていた。(中略)
一揆の要求は、新法令の撤廃、兵役義務の廃止、新暦の廃止、学校の閉鎖などであった。暴動に大きな役割を演じたのは、その年の凶作であった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
かくて、この一揆の参加者の総数は数万人と言われ、焼いた家は277戸、破壊した家は155戸、殺したのは20人という有り様であって、前代未聞の規模であった。
元々、この一揆の性格については、なかなかにして捉えることが難しい、と言われてきた。それというのも、当時の農民たちは様々な抑圧の中におかれていた。ところが、その農民一揆のそもそもの旗印である要求項目の中には、驚いたことに、様々な抑圧からの解放ばかりでなく、封建制の残滓への執着、わけても民への敵愾心(てきがいしん)が見え隠れしているではないか。
やがて一揆が広がるにつれて、明治政府による人民への差別と分断への反撃というよりは、被差別に対する集中攻撃など、立ち上がった民衆のエネルギーの一部が旧体制の温存志向となって噴出していったことにある。美作に生まれ、その生涯を解放に捧げた岡映(おかあきら)は、そんな一揆の傾向を次のようにまとめている。
「(前略)だから、この一揆が起きたときに、やはり「エタが来る、エタが押し寄せて来る。先手を打とう。」というようなことはあり得ただろう。最初の和田村の襲撃などはそこからきていて、あとはもう、彼等自身がとどめようがなくなったくらい暴れ回った、といってもさしつかえないんじゃないか、ということを思うのであります。
しかし、いずれにしても幕府のとった分断政策というものがこうして悲劇を残すに至ったということは、残念ながら、私ども美作の解放運動史、あるいは農民一揆史を考える場合、これを避けてとおるわけにはいかないんじゃないか、否、むしろそれにまともにぶつかるなかで、差別という思想がどこから出ているのかということを考えてみる必要がある。」(岡映「美作血税一揆から何を学ぶか」:美作問題研究会「美作血税一揆〈資料・研究〉上」1975より引用)
かくも激しい騒動であったのだが、近隣の地域もほぼ同じ問題を抱えていたのであろうか、有名なところでは、1873年6月19日から23日にかけて伯耆国(ほうきのくに)会見(あいみ)郡の一揆においては、終身刑1人を含む約1万2000人が処罰される。
また、同月27日から7月6日にかけて名東(みょうどう)県(讃岐国(さぬきのくに)、現在の香川県)、豊田(とよた)内の、三野(みの)、多度(たど)、那珂(なか)、阿野(あの)、鵜足(うたり)、香川7郡において農民による一揆が起き、死刑7人を含む約2万人が処罰されたと伝わる。
(続く)
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