◻️192の14『岡山の歴史と岡山人』岡山人(19~20世紀、立石岐)

2020-01-03 23:09:10 | Weblog
192の14『岡山の歴史と岡山人』岡山人(19~20世紀、立石岐)

 立石岐(たていしちまた、1847~1929)は、備中船穂の小野家の生まれ。19歳で立石家の養子となる。まもなく明治維新を迎え、殖産興業の必要を感じ、二宮に1917年(大正6年)に製糸工場をつくる。
 1878年(明治11年)には、21名にて共之社をつくる。そのために、言論による住民運動を進めようと。それを使って、「産業を起こせ、民権を高めよ」、すなわち、ある種の「産業結社」ということであったろう。ちなみに、その産業とは、養蚕製糸業を考えていた。
 続いての1879年(明治12年)には、岡山県内の同志とともに両備作三国親睦会を結成する。あまねく人々に国会開設運動をすすめる。1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭が出されると全国で政党結成が相次ぐ。
 その翌年には、美作自由党が発足する。その性格としては、大地主、新興ブルジョアを中心とした勢力の力を強め、封建的な政治経済体制を破ろうというもの。
 そして迎えた1890年(明治23年)、我が国初の衆議院議員選挙が実施される。岡山6区(美作西部)からは彼が選出される。その翌年の第二回帝国議会で政府が提出した「鉄道公債法案」について、こう質問する。
 「この第一条の末項について質問いたしたい。末項に鉄道に要する軍用停車場というものが設計になっておりますが、この説明を見ますと、その工事の費用というものは40万5千円を要すとあります。このことは私どもがちょうど考えてみまするはなはだ不必要なものでーー不必要ではありませぬ、不経済のもので、また国家に不親切なる設計ではないかと考えます。
    軍事上にはこういう停車場も必要であろうと思いますけれども、およそ戦争は幾年を期してあることか分からぬことである。しかるにこれにこれだけの金をかけて、東京なり名古屋なり大阪なりその他兵営のある場所というところは、いずれも都会の地にして、この土地はずいぶん貴重な土地である。有要な土地であるから、金を費やしておかねばならぬということであるが、私どもの考えにおいては、もしも一朝事ある時は、かようなものは即ち工兵をして直ちに造ることができるから、平生にこれを備えおくは、はなはだ不経済であると考える。
 しかしながらこれは実際戦争というものは、幾年を期してあるか分からぬことで、あるいは3年、5年の間に大演習などがある場合にも、必要であるとするも、これもまたその時に造ればよろしい。その間は元のごとくにしておけばよろしい。それぞれ軍事に使用するものを造っておかないでも、差し支えないと存じます。私どもはこれを平生備えておくことは、はなはだ不経済であると信ずるのでありますが、政府においては別に我々の思慮の及ばざる必要の事があるのでありますか。この主意を承りたい。」

 これにあるように、鉄道における軍事施設は不要ではないかもしれないが不急だという。なかなかの気骨に違いない。この法案は有名な蛮勇演説のあおりによる衆議院解散のため廃案となったものの、1892年(明治25年)には、鉄道網整備の基本法である鉄道敷設法が制定される。

 地元との関係では、中国鉄道株式会社設立に協力していく。井出毛三(落合町)、中島衛(なかしままもる、鏡野町)、安黒基(あぐろもとい、津山市)内田にぎ穂(加茂町)、菅英治(すがえいじ、中央町)などの仲間とともに、美作における自由民権から身をおこし、その後の岡山の政治にも大きく関与していった大立て者としてある。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)

2020-01-03 21:10:41 | Weblog

54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)

 ほぼ同時期の岡山、とりわけ美作ではどうであったのか。こちらの農民を主体とする一揆の主な原因は、徴兵や土地の地券作成から学校や公共施設の建設など、農民を中心に度重なるさまざまな負担(税や賦役など)が課せられたことにある。

 因みに、ここに「血税」というのは、兵役の義務との関わりでそう呼ばれるに至る。1872年(明治5年)、太政官告諭の「西人之を称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり」によるという。

 この血税一揆は、1873年(明治6年)5月25日、西西条郡貞永村(にしにしじょうぐんてえじむら、現在の苫田郡鏡野町)から起った。

 この一揆は、農民たちの明治政府への日頃の不満に火がついた格好で、2、3日のうちに美作全域に広がっていった。津山市街地においては、禄を失った旧津山藩士104人も、かれらの要求を携えて一揆に参加した。この「美作血税一揆」の参加者の数は、全体で2万人を超えていた。
 その地理的な拡がりを物語るのものに、1975年(昭和50年)に郷土の史家(井汲清と安藤靖雄)によって「明治6年北条県血税一揆略図」がある。これによると、まさしく燎原の火の如く広がった一揆だったことが読み取れる。
 この一揆の目標は、北条県当局に突き出された形であったが、その多くは県庁の権限では及ばないものが多かった。主な要求項目としては、10項目があった。
 「一、五ヶ年間、年貢米を免除すること。
一、断髪令を廃止して従前通りとすること。
一、屠牛を止めさすこと。
一、田畑へ桑、草木の植付を止めさすこと。
一、地券作成の費用は政府でもつこと。
一、耕地絵図面の費用も右に同じ。
一、徴兵制度を廃止すること。
一、「」は従前通りとすること。
一、課税金も従前通りにもどすこと。」
 とりわけ西部の一揆勢は、5月27日には津山市の西寺町の愛染寺に到達したし、東部の一揆勢は30日、川辺から兼田橋(旧)を渡った。そこから出雲街道沿いを、津山城下の西の玄関口として城西(じょうさい)地区のうねうね、かくかくした狭い通りを見据えつつ、津山市街に入ろうとしていた。明治政府の方からは、大阪鎮台から政府軍が出兵して、大砲や鉄砲で一揆を鎮圧しようとした。双方の武力の差は歴然としており、明けて6月2日には、さしもの激しい一揆も武力で鎮圧された。
 この事件で処罰された者の数は、美作ではそれまでにない大規模なものだった。死刑に書せられた者15人、牢につながれた者28人、むちたたきにされた者553人、罰金刑になった者は2万6千余人に及ぶ。なお、士族の参加者については、記録にありながら、その責任は問われなかった。
 これらのうち罰金については、つぎのように説明されている。
 「罰金は参加者全員に、一人あたり2円25銭でした。この金額は米一石のねだんです。当時の百姓の日当(賃金)が米一升の時代でしたから、百日分の日当は農民にとってそれはそれは大変な大金でした。 金策に困りはて、田畑を抵当に入れて高利貸から借金する者など、貧しい農民のくらしをさらに苦しめました。集めた罰金は6万5千円、いまのお金にすれば十数億円という莫大なものでした。」(美作の歴史を知る会編「おかいこさまと自由民権」みまさかの歴史絵物語(9)、1993年3月刊)
 この北條県一帯の一揆には、勝北郡(しょうぼくぐん)からもかなりの人数が参加していた。而(しか)して、彼らは、新野東、新野西、山形、広戸からの一揆勢の大方は妙原(みょうばら)・津川原(つがわはら)方面へと進出した。一方、勝北郡への一揆勢の進出としては、梶並川周辺(勝田郡勝田町、勝田郡勝央町及び英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡間町)からのものと、吉野川周辺(英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡作東町及び英田郡大原町(現在は美作市))からのものと、大まかに二つの流れがあった。
 ここで梶並川とは、吉井川水系に属する吉野川の支流である。その源流は、鳥取県境の勝田郡勝田町右手峠(標高633メートル)辺りで、そこから南に30.8キロメートルを下って、英田郡美作町林野付近で吉野川に合流している。それでも、年を重ねるうち、新野西下の世帯数と村人は増加した。
 「東作誌」によると、江戸末期には「村高のうち新田191石余、毛付高444石(1石は0.18キロリットル)余、家数47・人数199、山林27か所で2町の運上金1匁(もんめ、現在1匁は3.75グラム)余、井堰は広戸川筋3、田柄川筋7、溜池3」であった。それが、1889年(明治24年)になると、「戸数63、人口は男168・女148」になった(角川書店『全国地名辞典』)。

 かかる「血税一揆(騒動)」に関して、当時の記録「美作騒擾記」の記述には、こうある。

 「群衆は、これ(捕らえた民)を加茂川の辺なる火葬場の傍なる一陣の内に押し入れ、最初に半之丞(被害者の名前)を引き出し、これを水溜の中に突き落とし、悲鳴を挙ぐるを用捨なく、槍にて芋刺しに串貫ぬき、かつ石を投げつけてこれを殺したり。

 それにより順次に同一方法を用いて5人を殺し、最後の6人目なる松田治三郎に至るや、隙を見て逃亡せんとし、今一歩にて加茂川に飛びいらんとするところを、後より石を擶(う)ち、これを惨殺せり。
    猛り切ったる群衆は、猶これにあきたらず、同民の家に火を放ち、半之丞の居宅ならびに土蔵三棟、納屋一棟を焼き払いたるを手初めに、火はしだいに次から次へ焼き移り、遂に全部落百余戸を灰燼に帰せしめ、また悲鳴を挙げて逃げ迷う老少婦女を捕へて、背に藁束(わらたば)を縛し、これに火を放ちて焼死せしむるなど、すこぶる残惨を極めたり。」(「美作騒擾記)

 また、より身近に身をおいて、かかる騒動を垣間見ていた片山潜は、現在の久米郡久米南町にも一揆勢が及んでいたことを、次のように紹介している。

 「この暴動について記憶に残っていることを書いてみよう。家の真向かいにある高札場に農民の一群が現れたのは朝まだはやくであった。手に斧か鍬、竹槍をもち、ひじょうに不穏なようすであった。「ほかのものはどこだ?」と彼らはさけんだ。「みなもう弓削(ゆげ)に行った。」と曾祖父が大声でこたえた。農民たちはまたたくまに高札場を打ちこわし、武器をふり回し、どなりながら、私の家のそばを走っていった。明け方、すべての健康な男は村から姿を消した。子供と老人だけがのこった。近くの家でも一揆のものたちの食糧をつくっていた。しばらくすると、南の山の上が赤くなった。巨大な焔(はのお)が空にたちのぼった。ときどき、群衆の叫びがきこえた。「金持の鏡の家を焼いているのだ。」と村ではいっていた。(中略)
 一揆の要求は、新法令の撤廃、兵役義務の廃止、新暦の廃止、学校の閉鎖などであった。暴動に大きな役割を演じたのは、その年の凶作であった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
 
 かくて、この一揆の参加者の総数は数万人と言われ、焼いた家は277戸、破壊した家は155戸、殺したのは20人という有り様であって、前代未聞の規模であった。

 元々、この一揆の性格については、なかなかにして捉えることが難しい、と言われてきた。それというのも、当時の農民たちは様々な抑圧の中におかれていた。ところが、その農民一揆のそもそもの旗印である要求項目の中には、驚いたことに、様々な抑圧からの解放ばかりでなく、封建制の残滓への執着、わけても民への敵愾心(てきがいしん)が見え隠れしているではないか。
 やがて一揆が広がるにつれて、明治政府による人民への差別と分断への反撃というよりは、被差別に対する集中攻撃など、立ち上がった民衆のエネルギーの一部が旧体制の温存志向となって噴出していったことにある。美作に生まれ、その生涯を解放に捧げた岡映(おかあきら)は、そんな一揆の傾向を次のようにまとめている。
 「(前略)だから、この一揆が起きたときに、やはり「エタが来る、エタが押し寄せて来る。先手を打とう。」というようなことはあり得ただろう。最初の和田村の襲撃などはそこからきていて、あとはもう、彼等自身がとどめようがなくなったくらい暴れ回った、といってもさしつかえないんじゃないか、ということを思うのであります。
 しかし、いずれにしても幕府のとった分断政策というものがこうして悲劇を残すに至ったということは、残念ながら、私ども美作の解放運動史、あるいは農民一揆史を考える場合、これを避けてとおるわけにはいかないんじゃないか、否、むしろそれにまともにぶつかるなかで、差別という思想がどこから出ているのかということを考えてみる必要がある。」(岡映「美作血税一揆から何を学ぶか」:美作問題研究会「美作血税一揆〈資料・研究〉上」1975より引用)

 かくも激しい騒動であったのだが、近隣の地域もほぼ同じ問題を抱えていたのであろうか、有名なところでは、1873年6月19日から23日にかけて伯耆国(ほうきのくに)会見(あいみ)郡の一揆においては、終身刑1人を含む約1万2000人が処罰される。
 また、同月27日から7月6日にかけて名東(みょうどう)県(讃岐国(さぬきのくに)、現在の香川県)、豊田(とよた)内の、三野(みの)、多度(たど)、那珂(なか)、阿野(あの)、鵜足(うたり)、香川7郡において農民による一揆が起き、死刑7人を含む約2万人が処罰されたと伝わる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★


◻️138の2『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)  

2020-01-03 20:28:39 | Weblog
138の2『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)
 
 加賀郡の吉備中央町は、2004年10月に、加茂川町、賀陽町が合併して発足した。
 南部は、有名な吉備高原に含まれる。楓や漆、紅葉などが生えている、「宇甘渓自然公園」(うかい(うかん)けいしぜんこうえん)もある。交通の便は、岡山自動車道賀陽ICから岡山県吉備中央町の宇甘渓自然公園まで、車で約25分にて、赤い橋がシンボルの「宇甘渓自然公園」には着くという。
 そこでは、旭川の一支流としての宇甘川が極度に狭まり、激流が岩を削って奇岩・音岩のそそり立つ山肌が見える。宇甘川に面した斜面は非常に急峡であり、またツガやモツを主とする天然林でもあることから、吉備清流県立自然公園にも指定されている。そういうことから、「春の桜や冬の雪景色と四季を通じて景観が美しい」という。殊に、秋ともなれば、大勢のウォーカーが訪れるという。
 さて、このあたりの町起こしということでは、昔も今も、人を呼び込むのが近道であろうか。ここで幾つか紹介したい。それというのも、町内の上野地区に、会話は「英語オンリー」を掲げる古民家宿が2013年からあり、世界を旅しながら日本の田舎暮らしを求めて訪れる外国人と、彼らとのふれあいを求める日本人とが泊まり込みで交流する場となっているという。
 その場所は、町のほぼ中心の小高い山を登った先にある「岡山英語村ナノビレッジ」という施設で、ある新聞記者が訪ねると、宿の軒先で外国人ら8人が出来立ての餅をほおばっていたという。聞こえてくる言葉はすべて英語だというのは、なんとも敷居が高い。
 それでも、アメリカやオランダ、フランスなど様々な国から外国人がやってくるらしく、その人たちは、京都や奈良、東京などでの名所旧跡や賑やかな観光地では「お好み」ではないらしい。そんなことよりも、日本人の生活そのものを知りたい、ざっくばらんに国際交流したいというのであろうか。そんな外国人や日本人たちが長い人では2週間~1カ月ほど滞在することが多いというから、驚きだ。
 二つ目に紹介したいのは、山陽新聞デジタル版(2019年11月6日付け)で見つけた、自然を頼みに人を呼び込むにはどうしたらいいのだろうか、その回答らしき一つが、こうある。
 「秋の深まりとともに、岡山県吉備中央町の吉備高原にも雲海の季節が到来した。「雲海の里」として知られる長丸(ちょうがん)集落(同町高谷)では6日早朝も、真っ白い大海原が出現。合間から山々の頂がぽっかりと浮かび、幻想的な情景を描き出している。
 雲海は、放射冷却で地表付近の気温が下がり、空気中の水分が霧になる現象。気温が低く快晴となった山間部や盆地で発生しやすく、明け方の数時間だけ観察できる。
 同町のほぼ中央に位置する長丸集落の標高は約300メートルで、眼下に広がる景観は刻一刻と変化。灰色だった雲海は日の出とともにオレンジ色に輝き、徐々に明るさを増して白色に。山々も黒から緑へと表情を変えていった。
 町観光協会は「見ごろは来年2月ぐらいまで。早起きして、素晴らしい光景を目に焼き付けて」としている。」
 これなどは、今時のテクノロジーを駆使しても、なかなかに得難いのではないだろうか、自然現象にはひとの心を洗ったり、癒したり、あるいは「励起」したりもする。ネットに出てくる写真には泣けるようだし、早朝のトレッキングにはもってこいの場所ではないだろうか。ついでに、景色を眺めながら、持参のおにぎりを食べるのも、良い思い出ができるのではないだろうか。
 また、この地では、戦後に酪農が発展しており、ここでは、その中から吉田牧場の取り組みが、こう紹介されている。
 「30歳を前に就農した当初は乳を農協に出荷していた。(中略)もっと乳を搾ろうと言われた翌日、方針転換から頭数を減らさないとペナルティだと迫られた。吉田さんは「妄想」と呼ぶが、「いずれはちーを作りたい」と頭の中では準備していた。(中略)生産調整とは決別し、借金をしてチーズ工房を作った。乳酸菌は自家培養し、この土地らしい味を目指すことにした。(中略)40代に入り、酪農のルーツを訪ねる旅がライフワークになった。」(編集委員・長沢美津子「輝く人、牛飼い・チーズ職人、吉田全作さん(64)、手本なき世界を探検」朝日新聞、2019年11月24日付け)
 なお、吉田さんは、北海道大学を卒業後、東京でのサラリーマン生活をしていたものの、1984年(昭和59年)に、夫婦で吉備高原で酪農家となる。1988年(昭和63年)には、チーズ作りに踏み出す。ブラウンスイス種を放牧。この牛は、足腰が強く、濃いミルクを出すとのこと。 
 その後は概ね順調なようで、2019年現在は、子牛を含めて約50頭、これを家族9人で事業を展開しているという。 
 ほかにも、チーズの熟成庫は地下にしたり、太陽光発電、雨水の浄化を行う。主力のチーズは、顧客との直接取引を重視し、牧場の売店て販売を行う。総じての「技術がいくら身についても、チーズのおいしさは原料乳の質が絶対だからです」と取材者にいうあたり、文字どおり「簡単な道をえらばない方が後悔はない」(同)という格言もここから生まれる。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆