藤井静一(ふじいせいいち、1871~1952)は、社会福祉事業家だ。
(続く)
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204の5『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山本徳一)
山本徳一 (やまもととくいち、1878~1976)は、医師にして社会福祉運動家だ。当時の赤坂郡由津里村(現在の赤磐市由津里)の生まれ。
家は、ある程度経済的に余裕があったのだろうか、あるいはその逆であったのだろうか。1898年(明治31年)には、大阪に出る、病院の薬局で働きながら、大阪慈恵病院医学校に通う。その5年後には、東京に行き、済生学舎に入る。
やがて、そこを卒業する。あわせて、1905年(明治38年)の医学開業試験に合格する。
1915年(大正4年)には、郷里に近い赤磐郡(あかいわぐん)鳥取上村(とっとりかみそん)に帰り、石相尋常高等小学校に、協力者とともに母の会を設立する。東京にいた時、文部省の学校衛生講習会を受講したのが、その発起に至る契機になったのかもしれない。
1921年(大正9年)には、同村の小児保護協会へと発展させる。妊婦、乳幼児の保護事業に取り組む。さらに、農村を中心にした保健衛生の向上に心血を注ぐ。
特に、母の会を「小児保護協会」と改め、出産環境の衛生的な改善をはじめ、教育や生活に関わる幅広い事業を手掛けていく。具体的には、例えば、こう評される。
「地区ごとに任命された看護委員が妊婦を訪ね、出産に不安があれば助産婦を依頼した。「農村標準の家」、寄生虫予防のため菜園向けの衛生的な肥料も開発している。山本は村ぐるみの組織的な取り組みを重視し、総合的な対策が進んだ。
乳児死亡大きく減る。
事業の効果はてきめんに現れ、1918年に30を超えていた村の乳児死亡率は30年には8まで下がり、県平均を大きくリードした。
同様の活動は邑久郡邑久村、真庭郡河内村など県内各地へ波及していった。」(「シンポ「慈愛と福祉の先駆者たち」第4回」、2019年4月12日付け山陽新聞)
(続く)
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