◻️204の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤井静一)

2020-01-22 09:58:32 | Weblog
204の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤井静一)

 藤井静一(ふじいせいいち、1871~1952)は、社会福祉事業家だ。
津高郡面室村(現在の岡山市北区三和)の地主の家の生まれ。二男だが、1891年(明治24年)に学業を終えて、故郷に帰り、農業を営む。
 そのうち農村の疲弊を憂い、農村救済事業に着手する。折しも、経済変動の激しい時期であった。思想的には、日蓮宗と二宮尊徳の報徳主義を信奉する。
 そのやり方は、小作料取立てや松茸の売買で得た手数料を貧しい小作人の名義で貯蓄、それを基に田畑や山林を購入して貧農に貸し与える。また、自己所有の松茸山を解放し、その収益を一部を同様に積み立て、彼らの田畑や山林を買い戻したりして、生活を支援した。
 1902年(明治35年)には、相互扶助の精神に基づく御津郡(現在の岡山市御津)に安部倉懺悔会(あべくらざんげかい)を発足させる。貧困救済を目的とした融通講を始める。わかり安く言い換えると、「農作物の収益を積み立てた基金を設け、貧困家庭に無利子て貸し付けていた」(山陽新聞、2019年4月12日付け)という。
 それのみならず、農村の精神修養や風紀矯正にも携わり、41年には安部倉矯風会(あべくらきょうふうかい)を結成する。
 その後は、岡山県知事の笠井信一の要請に応えて、初代の済世顧問になったり、馬屋上村共同済世社社長などを歴任し、引き続き貧困者救済に尽力。救済事業のために私財を使い果たし、晩年は安部倉山に済世庵を設け、質素に暮らす。

(続く)

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◻️204の5『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山本徳一)

2020-01-22 09:24:50 | Weblog

204の5『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山本徳一)

 山本徳一 (やまもととくいち、1878~1976)は、医師にして社会福祉運動家だ。当時の赤坂郡由津里村(現在の赤磐市由津里)の生まれ。
 家は、ある程度経済的に余裕があったのだろうか、あるいはその逆であったのだろうか。1898年(明治31年)には、大阪に出る、病院の薬局で働きながら、大阪慈恵病院医学校に通う。その5年後には、東京に行き、済生学舎に入る。
 やがて、そこを卒業する。あわせて、1905年(明治38年)の医学開業試験に合格する。

 1915年(大正4年)には、郷里に近い赤磐郡(あかいわぐん)鳥取上村(とっとりかみそん)に帰り、石相尋常高等小学校に、協力者とともに母の会を設立する。東京にいた時、文部省の学校衛生講習会を受講したのが、その発起に至る契機になったのかもしれない。
 1921年(大正9年)には、同村の小児保護協会へと発展させる。妊婦、乳幼児の保護事業に取り組む。さらに、農村を中心にした保健衛生の向上に心血を注ぐ。

 特に、母の会を「小児保護協会」と改め、出産環境の衛生的な改善をはじめ、教育や生活に関わる幅広い事業を手掛けていく。具体的には、例えば、こう評される。
 「地区ごとに任命された看護委員が妊婦を訪ね、出産に不安があれば助産婦を依頼した。「農村標準の家」、寄生虫予防のため菜園向けの衛生的な肥料も開発している。山本は村ぐるみの組織的な取り組みを重視し、総合的な対策が進んだ。
 乳児死亡大きく減る。
 事業の効果はてきめんに現れ、1918年に30を超えていた村の乳児死亡率は30年には8まで下がり、県平均を大きくリードした。

 同様の活動は邑久郡邑久村、真庭郡河内村など県内各地へ波及していった。」(「シンポ「慈愛と福祉の先駆者たち」第4回」、2019年4月12日付け山陽新聞)


(続く)

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