181の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、大石隼雄)
大石隼雄(おおいしはやお、1829~1899)は、幕末の備中松山藩の締めくくりの家老である。
本人の代にあっては、 400石取りの家柄。そもそも、大石家の遠祖の大石源右衛門は、藩祖・板倉勝重によって家老に登用されて以来、世襲で代々家老職を務める。
幼少より山田方谷に学び、師弟の関係であった。やがて、藩校有終館会頭を経て、近習(きんじゅう)、郡宰(ぐんさい、郡奉行)を務める。
1857年(安政4年)には、山田方谷の後を受け、度支(たくし)といって元締・会計官となり、次いで家老を務める。
と、そこまでは大方、大風は吹かないでいたのが、1868年(慶応4年/明治元年の、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に直面する。
藩主板倉勝静(いたくらかつきよ)はといえば、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に従い、あっけなくといおうか、江戸に帰ったため、松山藩は徳川氏とともに朝敵とされてしまう。
そのせいで、朝廷からの命令が下り、備前岡山藩が征討軍として進攻してくる。
と、そこまで来ると、松山藩内の藩論はまちまちで、まとまらなかったようで、「城を枕に」ということで抗戦を主張する者も少なくなかったというのだが。
このままでは、予断を許さない、藩論の統一には決してたどり着けない雰囲気であったのかどうか、大石や山田方谷らの開明派は、これを説き伏せ、開城して恭順することとし、なんとか押しきる。
年寄役の井上権兵衛と共に嘆願書を携え、窪屋郡西郡村(現在の山手村)や浅尾(現在の総社市)へ出向いて、寛大の処置を嘆願する。
しかし、岡山藩の先鋒は、美袋村(現・総社市美袋)に到着したので、今度は、大石を正使、三島貞一郎と横屋譲之助を副使として、鎮撫使側より示された嘆願書の案文に、「藩主板倉勝静の行動がけしからん」旨となっているのを事実上認める。
有り体にいうと、藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた大石や山田らは、時局を鑑み、主君・勝静の意に従わない返答をしたのである。一説には、その際の山田は、「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」との決意であったとも。
つまるところ、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝える。
これにより勝静が世子勝全に家督をゆずる。松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わってあくまでも戦うとする勝静の代わりに、方谷を切腹させるべきだという意見もあったやに、聞く。とはいえ、諸般を鑑み、征討軍は態度を軟化させていく。
かくて同城地が備前岡山藩に引き渡された時には、大石が大声で泣いて主家の再興を鎮撫使に哀願したという。
それと相前後してのことであったろうか、大石は、「君命が無いまま勝手に城を明け渡したことは、主君に対して誠に申し訳ない」と、自宅に帰り切腹しようと感極まったものの、説得されて、ようやく思いとどまったと伝わる。
大石隼雄(おおいしはやお、1829~1899)は、幕末の備中松山藩の締めくくりの家老である。
本人の代にあっては、 400石取りの家柄。そもそも、大石家の遠祖の大石源右衛門は、藩祖・板倉勝重によって家老に登用されて以来、世襲で代々家老職を務める。
幼少より山田方谷に学び、師弟の関係であった。やがて、藩校有終館会頭を経て、近習(きんじゅう)、郡宰(ぐんさい、郡奉行)を務める。
1857年(安政4年)には、山田方谷の後を受け、度支(たくし)といって元締・会計官となり、次いで家老を務める。
と、そこまでは大方、大風は吹かないでいたのが、1868年(慶応4年/明治元年の、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に直面する。
藩主板倉勝静(いたくらかつきよ)はといえば、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に従い、あっけなくといおうか、江戸に帰ったため、松山藩は徳川氏とともに朝敵とされてしまう。
そのせいで、朝廷からの命令が下り、備前岡山藩が征討軍として進攻してくる。
と、そこまで来ると、松山藩内の藩論はまちまちで、まとまらなかったようで、「城を枕に」ということで抗戦を主張する者も少なくなかったというのだが。
このままでは、予断を許さない、藩論の統一には決してたどり着けない雰囲気であったのかどうか、大石や山田方谷らの開明派は、これを説き伏せ、開城して恭順することとし、なんとか押しきる。
年寄役の井上権兵衛と共に嘆願書を携え、窪屋郡西郡村(現在の山手村)や浅尾(現在の総社市)へ出向いて、寛大の処置を嘆願する。
しかし、岡山藩の先鋒は、美袋村(現・総社市美袋)に到着したので、今度は、大石を正使、三島貞一郎と横屋譲之助を副使として、鎮撫使側より示された嘆願書の案文に、「藩主板倉勝静の行動がけしからん」旨となっているのを事実上認める。
有り体にいうと、藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた大石や山田らは、時局を鑑み、主君・勝静の意に従わない返答をしたのである。一説には、その際の山田は、「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」との決意であったとも。
つまるところ、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝える。
これにより勝静が世子勝全に家督をゆずる。松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わってあくまでも戦うとする勝静の代わりに、方谷を切腹させるべきだという意見もあったやに、聞く。とはいえ、諸般を鑑み、征討軍は態度を軟化させていく。
かくて同城地が備前岡山藩に引き渡された時には、大石が大声で泣いて主家の再興を鎮撫使に哀願したという。
それと相前後してのことであったろうか、大石は、「君命が無いまま勝手に城を明け渡したことは、主君に対して誠に申し訳ない」と、自宅に帰り切腹しようと感極まったものの、説得されて、ようやく思いとどまったと伝わる。
これらをもって、岡山藩の家臣に「赤穂(播磨国=現兵庫県)の大石太夫(良雄)再出せり」と言わせた辺り、さぞかし真に迫った次第であったのだろう。
それからは、主家の再興のため鎮撫使と交渉を行う、さらに、大石は京都、東京へ奔走し尽力する。
かくて、1869年(明治2年)に松山藩が復興し賞典があったとき、神妙であったと、明治政府に判断された模様だ。
ついで、廃藩置県により、松山藩が高梁藩になると、大石は、形ばかりの投票により藩の大参事(最上位)となる。また、廃藩後は裁判所の判事を、1893年(明治26年)まで務める。
(続く)
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