◻️181の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、大石隼雄)

2021-05-01 21:42:08 | Weblog
181の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、大石隼雄)

 大石隼雄(おおいしはやお、1829~1899)は、幕末の備中松山藩の締めくくりの家老である。

 本人の代にあっては、 400石取りの家柄。そもそも、大石家の遠祖の大石源右衛門は、藩祖・板倉勝重によって家老に登用されて以来、世襲で代々家老職を務める。

 幼少より山田方谷に学び、師弟の関係であった。やがて、藩校有終館会頭を経て、近習(きんじゅう)、郡宰(ぐんさい、郡奉行)を務める。 
 
 1857年(安政4年)には、山田方谷の後を受け、度支(たくし)といって元締・会計官となり、次いで家老を務める。

 と、そこまでは大方、大風は吹かないでいたのが、1868年(慶応4年/明治元年の、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に直面する。

 藩主板倉勝静(いたくらかつきよ)はといえば、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に従い、あっけなくといおうか、江戸に帰ったため、松山藩は徳川氏とともに朝敵とされてしまう。

 そのせいで、朝廷からの命令が下り、備前岡山藩が征討軍として進攻してくる。

 と、そこまで来ると、松山藩内の藩論はまちまちで、まとまらなかったようで、「城を枕に」ということで抗戦を主張する者も少なくなかったというのだが。
 このままでは、予断を許さない、藩論の統一には決してたどり着けない雰囲気であったのかどうか、大石や山田方谷らの開明派は、これを説き伏せ、開城して恭順することとし、なんとか押しきる。

 年寄役の井上権兵衛と共に嘆願書を携え、窪屋郡西郡村(現在の山手村)や浅尾(現在の総社市)へ出向いて、寛大の処置を嘆願する。

 しかし、岡山藩の先鋒は、美袋村(現・総社市美袋)に到着したので、今度は、大石を正使、三島貞一郎と横屋譲之助を副使として、鎮撫使側より示された嘆願書の案文に、「藩主板倉勝静の行動がけしからん」旨となっているのを事実上認める。

 有り体にいうと、藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた大石や山田らは、時局を鑑み、主君・勝静の意に従わない返答をしたのである。一説には、その際の山田は、「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」との決意であったとも。
 つまるところ、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝える。

 これにより勝静が世子勝全に家督をゆずる。松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わってあくまでも戦うとする勝静の代わりに、方谷を切腹させるべきだという意見もあったやに、聞く。とはいえ、諸般を鑑み、征討軍は態度を軟化させていく。

 かくて同城地が備前岡山藩に引き渡された時には、大石が大声で泣いて主家の再興を鎮撫使に哀願したという。
 それと相前後してのことであったろうか、大石は、「君命が無いまま勝手に城を明け渡したことは、主君に対して誠に申し訳ない」と、自宅に帰り切腹しようと感極まったものの、説得されて、ようやく思いとどまったと伝わる。

 これらをもって、岡山藩の家臣に「赤穂(播磨国=現兵庫県)の大石太夫(良雄)再出せり」と言わせた辺り、さぞかし真に迫った次第であったのだろう。

 それからは、主家の再興のため鎮撫使と交渉を行う、さらに、大石は京都、東京へ奔走し尽力する。

 かくて、1869年(明治2年)に松山藩が復興し賞典があったとき、神妙であったと、明治政府に判断された模様だ。

 ついで、廃藩置県により、松山藩が高梁藩になると、大石は、形ばかりの投票により藩の大参事(最上位)となる。また、廃藩後は裁判所の判事を、1893年(明治26年)まで務める。



(続く)


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◻️192の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、太田辰五郎と土屋源市)

2021-05-01 19:30:51 | Weblog
192の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、太田辰五郎と土屋源市)

 太田辰五郎(おおたたつごろう、1790~1854)は、阿賀郡千屋村(現在の新見市千屋実)の鉱山業を経営する家庭に生まれる。「たたら山」を10以上もつなど、よほどの裕福であり、大名への貸金や貧民救済事業を行っていた。
 1831年(天保2年)には、父、正蔵の家業を継ぐ。辰五郎は、父に引き続いて、儲けの一部を地域に還元することを行う。1833年(天保4年)とその翌年には、凶作であった。そのおりには、辰五郎は、銀10貫と小割鉄200束を、領主に上納する。
 その一方では、莫大な資産を背景に牛の改良を行おうとする。元来小型種であった千屋牛を、大型で丈夫なものに改良していく。
 その種の牛は「大赤蔓(おおあかつる)」といい、役肉用牛として人気を博す。
 そして迎えた1834年(天保5年)、辰五郎は、自宅脇の敷地に千屋牛馬市を開設する。完成した千屋牛の販売促進のためであったのだが、これが当たる。
 以後、毎年この市に集まる人々の評判によって、千屋牛の名は全国的に知られるようになっていく。また、牛市自体も農繁期の後に開催されたので、芝居や露店が集まり、次第に大変な賑わいとなっていく。

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土屋源市(つちやげんいち、1888~1968)は、畜産家にして政治家だ。阿賀郡実村(現在の新見市千屋実)の生まれ。
 1908年(明治41年)に、高松農学校(現在の高松農業高校)を卒業し、岡山県阿哲郡畜産組合に入る。結構して土屋姓に。それからは、阿哲郡産牛馬組合(当時)の技師となり、和牛の改良にもとりくむ。
 岡山県会議員(1931年から)をへて、1943年(昭和17年)には、衆議院議員に当選する。
 戦後には公職追放とあるが、日本進歩党との関わりを指摘されよう。それというのも、この党は、1945年(昭和20)11月16日、旧大日本政治会を母体に結成されたもので、「国体護持」を綱領に掲げ、結党宣言に「共産主義の排撃」をうたう。旧議会勢力の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の与党の一端を担う。


 1946年1月の公職追放により、幹部の大半が公職追放の対象となるも、1946年4月の総選挙で94議席を確保、幣原喜重郎新総裁のもとで第一次吉田茂内閣に4閣僚を送る、その後は保守合同へと流れていく。


 これにあるように、戦後の土屋にとって、公職追放とあるものの、それなりの反省をしたのであろうか、その解除後の1949年(昭和29年)には、新見市の初代市長となり、一期4年を務める。

 それからは、新たな決意をもって彼なりの民生を志していったのではないだろうか、岡山の畜産もに大いなる足跡を残す。


(続く)

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新◻️119の1『岡山の今昔』干拓地での綿花栽培と小倉織(近世から明治へ)

2021-05-01 09:59:18 | Weblog
119の1『岡山の今昔』干拓地での綿花栽培と小倉織(近世から明治へ)

    綿花栽培ということでは、まずは岡山藩については、江戸時代の初期にはもうかなりの程度ひろまっていた。1642年に出された岡山藩の法令「有斐閣録(史籍雑纂第二に所収)には、こうある。
「一、   田に木わた作候。両方之田木わた共に上毛に候はば、木綿之分、本免之分外に壱反に付為過銭米三斗つ、上可申候。・・・
「二、   蘭田之分上々毛たるべく候。若蘭の跡にいね畠物植候市而毛見無之候共、御改にて上々毛に付可申候事。」
 ちなみに、その時分の藩内の農産物加工による商品作物としては、綿実、木綿、畳表類、菜種油などがあったと伝わる。
 その綿花栽培のその後の進捗については、稲作には適さない、大方砂地の土壌ながらも、水はけはよく、かつ肥料を施せばかなりの分に収穫を期待できることになっていく。

 江戸時代も中頃ともなると、海へと延びる南部の農家は、田の相当部分、畑にあってはそれ以上に綿花栽培を手掛けるようになっていく。かつ、瀬戸内では干鰯などの「金肥」も安く手に入っていたらしく、ますますもって換金作物としての魅力が増していったものと見える。


 あわせて、備中における綿作についても簡単に触れておこう。そこでこの地域の南部であるが、これまた江戸時代の初期に行われた干拓を含めての新田開発が、大きくその道をひらく。まずは、池田長幸(因幡鳥取藩の第2代藩主、のちの元和(げんな)3年には備中松山藩の初代藩主)が、1642年(寛永19年)、船穂新田(83町部)と長尾内新田(18町歩)が造成される。
 また、1645年(正保2年)には、水谷氏の水谷勝隆によって船穂新田(中部62町歩)が開発された。さらに、1659年(万治2年)には、同じく水野勝隆によって、船穂新田(中部55町歩)と長尾新田(58町歩)が開発される。こちらは、まとめて「玉島新田」とも呼ばれる。

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 その綿作だが、砂地で排水のよい干拓地は、栽培に適しているがために、殊に高梁川下流から玉島にかけての干拓新田に急速に広まっていく。そればかりか、「玉島木綿」のブランドで全国適な名声を得るようになってくると、これを扱う綿問屋が力をってくるのは、自然の成り行きであったのだろう。
 その実、「備中綿の集荷の中心として栄えた玉島地域では、最盛期には43軒もの問屋があり、200棟を超える土蔵群が軒を連ねていました。売り買いされる商品の8割が綿関係で占められ、「西の浪速(なにわ)」とまで呼ばれた玉島の繁栄は、現在も残る古い町並みや、旧柚木家住宅などに見ることができます」(倉敷市「広報くらしき」2017年6月号)というから、驚きだ。
 いわく、「綿問屋として原料と製品の二本立てで利益をあげ、新興商人として浮上した人々は、旧勢力である地主に対抗して干拓新田の獲得に乗り出し、自らも地主に転化していった」(進昌三、吉岡三平「岡山の干拓」岡山文庫60、1974)とも、評される。

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 さらに、こうした備中南部の干拓地で行われていた綿栽培の拡大に伴って、江戸時代中後期からは、綿加工業が大いに展開していく。綿の集荷の中心だった倉敷や玉島と、小倉織(こくらおり)、真田紐(さなだひも)、雲才足袋などを生産していた児島といった広い意味での「岡山平野」において、綿加工業が幅広く展開していく。

    なお、ここに小倉織というのは、豊前小倉(北九州市)の特産にして、地厚で丈夫、なめらかな木綿布で作った織物をいう。主に、武士の袴や帯としての用途で作られていたという。その特徴とされるのは、経糸が多いため(緯糸の3倍の密度)、たて縞だという。同時に、色の濃淡による立体的な世界をかもしだし、なめし革のような風合いを持つのだと、携わる会社の宣伝にある。

 ちなみに、下津井湊は、古代から風待ち、潮待ちの良港として、江戸期に入ると、肥後の細川氏など参勤交代の大名や、江戸参府途上のオランダ商館長、朝鮮通信史(牛窓への途中)などが立ち寄った。
 そんな綿の栽培には、北前船が下津井湊(江戸時代においては、池田家の南の拠点としての地位を高めるとともに、諸物資の交易による海運業が発達していた)に運んでくる「にしんかす」を、肥料としていたのが、大きい。これは、米作りへの中間作物としての塩に強い綿を栽培するための「もってこい」の肥料であったという。
 かくて、かかる綿の栽培が定着しており、そこに繊維産業が結びつく。しかして、海からの産物である魚と魚かす、塩田とその海上運送があるところに、基幹産業としての綿栽培、綿織物製造業がえるという構図にて、男は塩田や綿作などに従事し、女は織物生産などに従事する生活、いうなれば漁業、塩業、機業の、いわゆる「児島三白」という言葉で代表されるような児島の暮らしぶりが成り立っていたのである。
 さらに、明治時代に入ってからの県内においては、国の殖産工業の重要な項目として綿工業が発展していくのだが、それと相呼応して、綿花栽培が一層盛んになっていく。かくして、明治中期までの岡山平野は、綿花の一大生産地として、商工業との連携を背景に、県内農業を牽引する役割を担っていく。
 参考までに、1877年(明治10年)での県内主穀類生産額のうち約85パーセントは米と麦であったものの、その他の農産物の中では綿作関係が約6パーセントをもって第一位を占め、地域としてはとりわけ窪屋、浅口、児島の各郡での栽培が盛んであったという。

(続く)

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新40『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴、1798)

2021-05-01 09:18:28 | Weblog
40『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴、1798)

 18世紀の後半の岡山は、どのようであったのだろうか。1783年(天明元年)の美作・津山町中で「うちこわし」が度々起こっている。豪商などへの民衆による襲撃があった。おりしも関東では、1783年6月25日(天明3年5月26日)に浅間山の噴火が鳴動して噴火を始め、8月3日(旧暦7月6日)には全山が崩れる惨事が起こっていた。同じ年の津山町内に、連続して「米一揆」があったことが伝わっている。


 続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領228か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、やがて、総代5人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。

 ここに美作の天領228か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち77か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡66か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡35か村のグループであった。

 そのことの起こりを簡単にいうと、当時、幕府領の年貢の3分の1は、毎年収穫時の津山城下にての米価に換算して、銀で納めることになっていた。ところが、1797年(寛政9年)のおり、幕府勘定方の勝与三郎がこの地・津山にやってきていうのには、それまで津山相場を割り引いて課税していたのを、そのことなくして課税するのに改めると。

 折しも、当年の米相場は急騰したため、これではならんと農民たちは悲鳴をあげた。激震が走ったと見えて、かかる村村の庄屋たちは、倉敷(現在の美作市林野)の福島屋や高瀬屋に集まって、どうしたらいいかを話し合う。取り急ぎ、なんと江戸へ出て、元に戻してくれるよう直訴をしようということになったという。

 1798年6月18日(寛政10年5月5日)、大庄屋を務める代表5人が、江戸へ向けて旅立つ。その面々とは、岡伊八郎(池が原村、現在の津山市大崎)、竹内弥兵衛(広戸村、現在の津山市広戸)、福島甚三郎(目木村、現在の真庭市久世)、国広利右衛門(中山村、現在の美作市大原)、小坂田善兵衛(海田村、現在の美作市美作)にて、同月7月6日(旧暦5月23日)には、江戸に到着したという。

 次いでの7月18日(旧暦6月5日)には、幕府勘定方の勘定奉行柳生主膳正に嘆願書を提出したものの、所管役所の添書きがないとの理由で受取りを拒否されてしまう。
 そればかりか、その翌日には国広が奉行所へ囚われてしまい、残る4人は禁足のあと、7月24日(旧暦6月11日)には帰国を命じられ、箱根越えの通行切手を渡されたというのだが、とにかく、「とりつく島がない」ままに門前払いされてしまった。
 しかし、4人は、これで諦めなかった。帰途の途中から引き返して、密かに、直訴の機会を探った模様だ。

 かくて、このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末というか、同年9月2日(旧暦7月22日)、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。ちなみに、ここにいう松平信明は、三河・吉田藩主で、奏者番、側用人を経て老中となり、定信とともに寛政の改革を進め、定信をして才知・才能のするどき人物と言わしめた。1803年(享和3年)に辞職するも、1806年(文化3年)に再任され老中首座となった。

 この直訴は幕府に認められ、咎(とが)めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。

 1817年(文化14年)、幕府により津山藩の禄高が5万石から10万石に復した。この5万石加増の理由として、津山藩7代藩主松平斉孝に継嗣(けいし)がなく、この年、将軍家斉の子斉民を8代藩主として迎えた。1837年(天保8年)、但馬、丹後国中の一部と美作国、讃岐国との間で村替えをするよう幕府の命令が下された。1838年(天保9年)、この幕府の命令による領地村替えで小豆島のうち、西部6か郷(5千9百余石分)が津山藩領となったことがある。

(続く)

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