211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)
久原茂良(くはらもりょう、1858~1927)は、洪哉の二男として津山で生まれる。1884年(明治17年)、東京大学医学部を卒業する。順天堂病院等で臨床研究を行う。1886年(明治19年)に、津山に帰る。そして、帰郷 津山二階町(現在の津山市二階町)で医院を始める。
久原茂良(くはらもりょう、1858~1927)は、洪哉の二男として津山で生まれる。1884年(明治17年)、東京大学医学部を卒業する。順天堂病院等で臨床研究を行う。1886年(明治19年)に、津山に帰る。そして、帰郷 津山二階町(現在の津山市二階町)で医院を始める。
やがて、苫田郡(とまたぐん)の医師会の初代会長に就任する。そればかりか、1919年(大正8年)には、津山町西寺町大円寺境内に、診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれる。なお、彼の他に、津山市内で開業していた宮尾守治と宮城守治郎も参加してのことである。
これの由来だが、1918年(大正7年)、津山町の天台宗大圓寺住職の清田寂担(きよたじゃくたん)が、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施するも1918年(大正7年)、津山町大圓寺住職清田寂担、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施する。
その悲惨な状況に驚嘆した結果、彼らの病を救うべく、無料診察事業の創設を発願する。1919年(大正8年)大圓寺元三大師堂に「津山施療院」を設立する。
その志に至った理由については、こうある。
「社会は貧富の懸隔日に甚しく、富めるものは富むに任せてしゃしに耽(ふけ)り、遊惰安逸止(とど)まる処(ところ)を知らず。貧しきものは衆を恃(たの)んで反抗是れ事とす。
斯くて貧富賤日に相反目乖離して、偶々落伍者中病を得て医薬を求むるに道なきも、世人の多くは棄てて顧みざる状態であって、国家の前途は真に寒心に勝へないものがある。
此秋(このとき)に当って宗祖最澄(さいちょう)阿闍梨(あじゃり)の真精神と其の事業を現代に復興し、行路難に悩める落伍者諸君の肉体的疾患を除き、然る後、徐(おもむ)ろに上下和順・貧富相扶の常道に復帰するの一助たらしめんとするのが、本院創立の主眼である。」(「衛生相互新聞」)
しかして、当面の資金には、伝教大師最澄千百年の遠忌にあたり募金で集まった浄財の1割を充てることにしたという。
1922年(大正11年)になると、新たに児童健康相談部及び助産部を設ける。1923年(大正12年)になると、さらに施薬救療部、児童健康相談部、産院部、窮民救済部を開設する。1925年(大正14年)からは、岡山県より補助金を受ける。その精神と事業の幾らかは、戦後に社会福祉法人広済会に引き継がれていると聞く。
これにあるように、この施設では、人民に奉仕する医療を目的する。貧しい人からは治療費をもらわないなど、地域の医療の発展に貢献していくのであるから、久原医師らの現場関係者の苦労は並大抵ではなかったのであろう。
(続く)
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(続く)
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