新◻️211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)

2021-05-04 22:29:43 | Weblog
211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)

 久原茂良(くはらもりょう、1858~1927)は、洪哉の二男として津山で生まれる。1884年(明治17年)、東京大学医学部を卒業する。順天堂病院等で臨床研究を行う。1886年(明治19年)に、津山に帰る。そして、帰郷 津山二階町(現在の津山市二階町)で医院を始める。

 やがて、苫田郡(とまたぐん)の医師会の初代会長に就任する。そればかりか、1919年(大正8年)には、津山町西寺町大円寺境内に、診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれる。なお、彼の他に、津山市内で開業していた宮尾守治と宮城守治郎も参加してのことである。

 これの由来だが、1918年(大正7年)、津山町の天台宗大圓寺住職の清田寂担(きよたじゃくたん)が、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施するも1918年(大正7年)、津山町大圓寺住職清田寂担、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施する。

 その悲惨な状況に驚嘆した結果、彼らの病を救うべく、無料診察事業の創設を発願する。1919年(大正8年)大圓寺元三大師堂に「津山施療院」を設立する。

 その志に至った理由については、こうある。

 「社会は貧富の懸隔日に甚しく、富めるものは富むに任せてしゃしに耽(ふけ)り、遊惰安逸止(とど)まる処(ところ)を知らず。貧しきものは衆を恃(たの)んで反抗是れ事とす。
 斯くて貧富賤日に相反目乖離して、偶々落伍者中病を得て医薬を求むるに道なきも、世人の多くは棄てて顧みざる状態であって、国家の前途は真に寒心に勝へないものがある。
 此秋(このとき)に当って宗祖最澄(さいちょう)阿闍梨(あじゃり)の真精神と其の事業を現代に復興し、行路難に悩める落伍者諸君の肉体的疾患を除き、然る後、徐(おもむ)ろに上下和順・貧富相扶の常道に復帰するの一助たらしめんとするのが、本院創立の主眼である。」(「衛生相互新聞」)

 しかして、当面の資金には、伝教大師最澄千百年の遠忌にあたり募金で集まった浄財の1割を充てることにしたという。

 1922年(大正11年)になると、新たに児童健康相談部及び助産部を設ける。1923年(大正12年)になると、さらに施薬救療部、児童健康相談部、産院部、窮民救済部を開設する。1925年(大正14年)からは、岡山県より補助金を受ける。その精神と事業の幾らかは、戦後に社会福祉法人広済会に引き継がれていると聞く。

 これにあるように、この施設では、人民に奉仕する医療を目的する。貧しい人からは治療費をもらわないなど、地域の医療の発展に貢献していくのであるから、久原医師らの現場関係者の苦労は並大抵ではなかったのであろう。

(続く)

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新◻️192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

2021-05-04 21:37:06 | Weblog
192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

 衣笠豪谷(きぬがさごうこく、1850-1898)は、窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。名は済という。いつの頃からか、号が、備中の景勝地の豪渓にちなんで豪谷と号したという。

 幼い頃から、絵に興味があったという。たぶん、家族の後押しが必要であったのでは。まずは、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学ぶ。ついで、興譲館に入って阪谷朗廬に師事する。

 それでは満足できなかったのかもしれない。その後、江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学ぶ。
 それでも、安住できなかったみたいだ。今度は、京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねていく。1872年(明治6年)になると、絵画研究のため清国に渡る。

 ところが、である、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中するのであった。1876年に帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめる。内務省、農商務省にも勤務するかたわら、「清国式孵卵図解」を著す。

 ほかにも、耐火煉瓦の研究、水蜜桃の栽培などの紹介にも努める。こちらの両者については、こんな話が伝わる。

 「画家で名高い衣笠豪谷翁が、農商務省の役人だった時分、中国を漫遊せられて、あちらで初めて食べられた水蜜桃が、余りに美味なので、帰朝の際、その種をそっと竹の杖の中に忍ばして持って戻られ、岡山で植えられたのが、そもそもの発端だというのだ。
 この説を信用すべき理由が外にもある。(中略)やはり、衣笠豪谷翁の達識に由縁しておることは、間違いなき事実として認められておる。あちらの瓦の精雅なるに驚ろかれた翁は、直に瓦の研究を思いたたれ、色々製作に腐心した末か、中国製の耐火煉瓦を参考として沢山に持って帰えられた。
 それを伊部の職人に見せ、自ら指図して、和気郡焼山の白亜を原料として模造品として焼かされたものである。不幸、この計画は失敗に終った。
 しかし、耐火煉瓦というものに対する知識の啓発と、企業心の刺激とには、大いに力があったといわれておる。
 つまり、三石煉瓦の誕生には、これが産婆役となった理なのである。こんな具合に、豪谷翁という人は、周密な観察力を以て、日本の文化の上に何物かをもたらそうと常に試みたのである。」(岡長平「岡山の味風土記」日本文教出版、1986、岡山文庫121)

 かくて、絵の作品には、1881年に開催の第2回内国勧業博覧会には、「豪渓ノ真景」「花卉禽鳥ノ図」を出品する。ネットでは、「桃花春水図」に出ている桃の枝がかなりの細やかさで描いてある。同じネットにて、他にも、「芭蕉に鶏図」(1896、岡山県立美術館蔵)や「牧牛図」(1896、旧野崎家住宅)が簡易的に拝観できるようだ。

 と、まあ、慌ただしいかの人生を繰り広げるも、48歳の諸事半ばで亡くなったのはいかにも惜しい。察するに、天才たる者は、あれもこれもで鋭敏な頭脳が立ち止まり、休むのを許さなかったのではないだろうか。

(続く)

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◻️147『岡山の今昔』瀬戸内の幸多し(陸の幸)

2021-05-04 18:55:59 | Weblog
147『岡山の今昔』瀬戸内の幸多し(陸の幸)

 さてさて、瀬戸内地方の岡山(日生から笠岡くらいまでの山陽道及び瀬戸内沿岸)のあたりの幸は、種類、数とも実に多くある。まず陸の幸から始めると、岡山ならではのものに果物栽培がある。

 わけても、玉島(現在の倉敷市玉島)や船穂町(高梁川の西岸に広がる)では、桃やマスカットなどの果物栽培が盛んである。花の栽培も盛んで、春から夏にかけては、ゆるやかな傾斜の丘陵地には、スイートピーの鮮やかな色がふんだんな光を浴びて輝くのであろうか。マスカットを搾り取った白ワインも製造されているとのことで、岡山の果物王国の中心地となっているところだ。

 葡萄や花の他にも、桃の栽培にも歴史がある。明治以前から在来種による栽培が続けられていた。

 しかしながら、それまでの桃というのは、あのみずみずしい、ふくよかな面持ちのする「フルーツ味」の桃ではなかったようだ。岡長平の論考には、こうある。

 「昔から岡山にも桃はあった。御堂(今の六高の所)桃とか、土手桃(岡山市立図書館のところ)とか、桃の名所も少なくなかったといわれておる。しかし、その桃は、脂のある、虫喰いの多い、そして堅くって酢っぱいい、とても今日の桃と比べものになるような代物ではなかった」(岡長平「岡山の味風土記」日本文教出版、1986、岡山文庫121)


 そこへ1876年(明治8年)に中国から「天津水蜜」、「上海水蜜」が導入される。官業試験場でそれら新品種の試験栽培が始まり、やがて本格的な栽培に漕ぎ着けたのだと伝えられる。

 そうした意味合いでは、岡山人におかれては、大いに中国の人々と縁があるのを喜んでよろしいのではないだろうか。

 それでは、もう少し分けいって、なぜ岡山で桃栽培が根付いたのかというと、このあたりの温暖な気候と関係が深いらしい。気候については、玉島のあたりは、日本でも一年を通して有数の晴れの多い日と聞く。恵まれた気候風土と長年にわたり蓄積された先人たちからの栽培技術の向上が積み重ねられてきた。

 これらにより、「白鳳」(はくほう)や「清水白桃」などに代表される白く美しい桃が開発され、今では岡山が日本屈指の桃の産地となったことが窺える。

 ただし、その価格は、2015年夏の時点で桃果1個が2百円以上もするという。何を理由にその値段になっているかは、よくわからないのだが。これだと、産地からの送りもので貰わない限り、庶民の口には相当に入りにくいのではないか。

(続く)

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◻️54の3『岡山の今昔』美作血税一揆をどう見るか

2021-05-04 10:32:05 | Weblog
54の3『岡山の今昔』美作血税一揆をどう見るか


 ここで最初にお目にかけるのは、この一連の一揆の発火点というか、最初の指導者と目される、西西条郡貞永寺村(てえじむら、現在の苫田郡鏡野町貞永寺)の総代、筆保卯太郎(ふでやすうたろう)の取り調べ調書(供述)から、その一節には、こうあるという。

 「わたしは、美作国西西条郡貞永寺村の総代をつとめていましたが、近ごろのお上の御命令はなにもかも腹立たしく、なかでも徴兵、地券、学校、屠牛、斬髪、えた、非人称呼廃止などは、まったくがまんならぬことでした(近年御布令おそれながら何事に依ず心にもとならず、就中徴兵・地券・学校・屠牛・斬髪・の称呼禁止等の条件に至りては、実に服したてまつらず)。
 なんとかこれを撤回させたいと思い、御布令取り消しの嘆願を考えましたが、このごろの新政府のやり方から見ると、とうてい嘆願などでは聞きとどけてもらえそうにもないので、やむなく強訴に及べば何とかなるのではないかと思い、機会をうかがって実行しようと秘密裏に計画しておりました。」
 ちなみに、この文中にある刺激的な言い回したるや、一説には六度との拷問の後に取られた調書とのことで、本当であるなら証拠能力は著しく限られよう、したがって額面通りにうけとる訳にはゆくまい。

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 続いては、この一揆をめぐり、戦前戦後にどのような評価がなされてきたかを少しばかり振り返ってみよう。そのことは、現代社会が抱える複雑系問題を解き明かそうと考える時にも、なにかしらヒントを与えてくれるのではないだろうか。


 その一つ、浅野克己氏の論考には、こうある。


 「明治維新は外圧に対抗しておこった支配階級の政権交代(クーデター)であった。新政府は、日本の国家体制を上から近代化することによって列強に対抗しようとし、急激な近代化政策をとった。
 しかし一般大衆、農民にとって近代化は上から与えられたものであり、近代の思想的基礎である人権思想に基づくものではなかった。差別意識や差別的社会構造を残したままの形だけの近代化が、農民の生活、思想を混乱させ不安におとし入れた。農民の保守意識というのは一つの自己防衛本能のあらわれであり、その危機感がはげしい襲撃となってあらわれたといえよう。
 新任の権参事小野立誠等は「民の解放へのねがい」「農民の危機感」どちらの心情をも理解せず、ただ傍観していたにすぎない。」(浅野克己「美作血税一揆をどう教材化するか」、岡山県歴史教育協議会「岡山の歴史地理教育」1980年11月)

 二つ目は、岩田一雄氏の論考に取材してみよう。こちらは、一揆の指導者にかなりの近さに迫っており、そこからの最終章の一説には、こう述べられている。

 「一揆そのものに対する処罰にしても、参加者全体に対して厳しく加えられるのは、この血税一揆や秩父事件などのように明治政府下の一揆の場合である。江戸時代の一揆は、首謀者の断罪によって決着がついている。
 少なくとも、幕末期の一揆は、農民側の優勢裡に終わっているので、責任追及は、弱まっていたと見ることができる。だから、本文で見たようなお祭り騒ぎとしての一揆が、日常化したように思われるのである。
 そして、そうであるだけ、明治政府は、参加者全体への峻厳な弾圧の姿勢で臨んだと考えられる。(中略)
 農民たちの状況は、同情に値するものである。また、敢然と明治権力に向かって戦いを挑む勇気には、驚くほかない。とはいえ、参加者の意識としては、年中行事もしくは共同体によって規制されたーーその意味で日常的な集団行動の延長上のことであって、格別の政治意識の結果であったわけではない。したがって、運動の内容も、詰まるところ、天皇制、攘夷(じょうい)、旧秩序維持というに尽きるのであり、そこには、歴史的展望はない。以上の闘争様式は、彼らの主体的、思想的水準が低位にとどまっていることを物語っている。
 対照的に明治政府の態度は峻厳苛烈であった。農民は震え上がる。旧幕政下での息抜きは、もはや許されない。農民はだまし討ちにあったような気分であったかもしれない。一揆を企てることが戦慄的な非合法事なのだという感覚は、明治政府のこの弾圧や昭和の左翼弾圧の恐怖を体験したあとに出てくるものであろう。幕末には、そうした感覚はさほどになかったと見てよいのではないか。」(岩間一雄「渋染一揆・美作血税一揆の周辺ーある墓碑銘への注」岡山問題研究所、発売・手帖舎、1996)


 もう一つ、今西一氏の「断章」から、その結語の部分からしばし紹介しておこう。

 「被差別への襲撃の問題には、一揆勢に対して吉原村の被差別民の人々が、「決て元エタと可相成所存無之」と、詫書をだすのを拒否していることからもわかるように、被差別民自身の「平民」化への強い願望が底流にある。また、一般農民の方は、このままでは異人の支配となり、「エタと同様に」扱われて「人種きれる」という近世的な種姓=血統観念から被差別民の「解放」に反対している。


 その場合、ここでは一揆に参加した農民の「御百姓」意識という問題を指摘しておきたい。近世史では、蜂起した農民の「御百姓」意識などか高く評価される。確かに「御百姓」意識が幕府や藩に向けられた時、「仁政」を要求する抵抗の原理になるかもしれないが、この意識がひとたび自分たちより下層の人々や被差別民に向けられた時、はなもちならない特権=差別意識に転化するということも忘れてはならない。


 また、この一揆の要求の保守性や旧藩士族や有力者の説得によって解散していることなとから考えても、とても半プロレタリア層による反行政闘争にまで転化したとは考えられない。    


 私は、それは新政府反対一揆の過大評価だと考えている。戸長、副戸長らを攻撃するとともに、小学校や被差別民を攻撃する農民たちの「御百姓」意識は、崩壊しつつある自己の共同体を守ろうとする農民の危機意識の現れであったと思われる。」(今西一「第三章・美作「血税」一揆断章」、「小樽商科大学学術成果コレクション」のHPより引用)




(続く)


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